日本基督教団について思うこと ~神奈川教区議長も務めた同性愛者の牧師の手記を読んで~

   

1.とある牧師の手記から

ある牧師の手記には、少年時代、隠れて行っていたマスターベーションのこと、最初の恋人とは出会ったその日にキスをして半年間で別れたこと、その後も何人かつきあった人がいて、現在の恋人がいることが記されていました。50代の男性です。 (…その本から、性的行為や性的関係についての記述を抜き出すと、こうなります。)

著者の平良愛香師は、同性愛者であることを公言されており、三・一教会の牧師です。著書の本文中にも、立教大学、桜美林大学の講師を勤めていることも合わせて、何度か記されていました。また、2013年より日本基督教団神奈川教区総会議長を2期4年勤められています。

「あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる」 著:平良愛香 学研プラス

 

2.性行為についての聖書の扱い

聖書には、愛について禁じているところはありません。

同性愛者のクリスチャンがよく取り上げる、ダビデとヨナタンとの深い愛情はもとより、イエスの弟子たちへの愛。パウロのテモテへの愛…。いずれも、信者が見習うべき愛の手本です。

聖書が禁じているのは、同性間の性行為、性的欲望についてです。

教会の同性愛者に関する論争の論点も、聖書的に論じるなら、明確に、同性間の性行為、性的欲望に絞られます。

 

聖書は明確に、婚姻外での一切の性行為を禁じています。

旧約聖書の律法においては、特にレビ記において、性行為に関する様々な禁止項目が記されています。

※ 平良愛香牧師は、著書の中で、レビ記には、娘を犯してはならない、という禁止事項はないと主張されていましたが、以下の箇所に明確に記されています。


レビ 18:17 あなたは一人の女性とその娘との両者を犯してはならない。

…ちなみに、レビ記を含む律法そのものは、イスラエルを対象とした限定的なものです。キリストが律法を完遂し成就して以降は、キリストの律法が、信者の従うべき規範となっています

レビ記には、近親姦、はたまた獣姦にいたるまで、様々な性行為について事細かに禁じています。

なぜここまで、と思いますが、ここで禁じられていることは、当時、先住していたカナンの民が行っていたことです。イスラエルは、その土地へ行こうとしていましたから、差し迫った問題だったのです。

特に重要なことは、これらの行為が、偶像礼拝と密接に結びついていたことです。

偶像神の神殿に、娼婦や男娼がいて、性行為が儀式の一貫とされ、それにより生まれた子どもが、生け贄として捧げられる。そのような残虐行為が横行していたのです。

神は、カナンの民の罪に対して、アブラハムを通し、またイスラエルを通し、ご自身が生きておられる力ある方であることを現し、警告を与えておられました。

イスラエルがエジプトに逃れ、奴隷として過ごし、また荒野をさまよった500年は、カナンの民にとっては、悔い改めのための猶予期間ともなりました。

にも関わらず、最後まで悔い改めを拒み、神を拒んだカナンに対し、神は、イスラエルを裁きの器として用いて、厳しい裁きをくだされました。

 

…既存の教会で度々言われ、同性愛者憎悪の根拠とされてきたように、同性間の性行為が最悪の罪とは言えません。(詳細はこちら 「Q:最も重い罪は、同性愛ですか?」

一方で、聖書が、同性間の性行為を、罪が極まった状況を現す一つの指針として記していることは否定できないでしょう。

ソドムの住民は、神の御使いを犯そうとしました。ベニヤミン族のギブアの町の人々は、神に仕える祭司を犯そうとしました。これらの背景に、同性間の性行為が当然のこととなっていたのがうかがえます。

結果、ソドムの住民は、硫黄と炎によって地域ごと滅ぼされ(創19:1~)、ベニヤミン族は、同胞のイスラエル11部族によって、壊滅寸前まで殺戮されました。

ギブアの町に立ち上った「雲の柱のようなのろし」は、神の臨在の現れであり、これが神の裁きであることを示しています。(士20:40)

3.なぜ、聖書は、結婚外の性行為をこんなにも厳しく禁じるのか?

結婚外の性行為が厳しく禁じられているのは、男女の結婚が、神が定めた秩序だからです。夫婦の関係は、最も理想的なあるべき関係の「ひな型」となっています。

最も理想的な関係とは、神ご自身の関係です。

 

「我々に似せて」人を造られた神は、ご自身が、完全な愛の関係を持っておられます。

父子聖霊なる神。個々に独立した位格(人格)を持ちながら、完全に一つである神。

この次元の法則を超越した三位一体という概念が示していることの一つ。

それは、神は、完全な愛の関係を持った存在だということです。

 

関係性の中で愛は生まれます。人は、神に似せて、互いに関係性を持ち、愛しあうものとして造られました。

夫婦の愛、夫婦の関係は、神を中心として完成します。

神が人と共におられ、神の栄光のうちに男と女がいたとき、そこには、神と人と、人と人との、完全な愛の関係がありました。

しかし、人が神に逆らい、約束を破り、罪を犯したとき、人と神との関係は断たれ、男と女の関係も壊れてしまったと聖書は記します。(創3:16~19)

男は女を支配し、女は男をコントロールしようとする、歪んだ関係に陥ったのです。

 

男と女が、互いを知り、神の前に結婚する、性的関係を結ぶ。男と女の結婚は一種の契約関係であり、その保証人は神です。

神が造られた秩序に基づくものであるがゆえに、性的行為は、夫婦だけに認められたものなのです。

男と女の結婚は、アブラハムに与えられた契約のはるか以前のものですから、これは、すべての人類に対しての普遍的な秩序ということになります。

4.イスラエルの性的姦淫と偶像礼拝と霊的姦淫

カナンの地に定住したイスラエルは、次第に、カナンの民の偶像礼拝に感化されていきました。

様々な偶像が崇められ、性的儀式も行われました。

偶像礼拝が人々にとって魅力的だったのは、そこに人々の欲望を満たすものがあったからです。神殿娼婦や神殿男娼の存在は、性的欲望を誘い、満たすものでした。

神がイスラエルと結ばれた契約(シナイ契約)に基づく律法は、条件付きのものでした。

神に従いこれを守るならば祝福されるが、律法を破り、偶像礼拝を行えば呪いがあると、律法には明確に記されていました。(申27:16他)

神に忠実に従った人々の信仰のゆえに、王国を築き、繁栄を極めたイスラエルでしたが、偶像礼拝に陥ったがために、神の厳しい裁きを招くことになります。

イスラエルが南北に分裂し、それぞれ偶像礼拝に陥り、堕落していく中、預言者たちは、神の警告と厳しい裁きの予告を行い、悔い改めを迫りました。その中では、イスラエルの偶像礼拝が、たびたび姦淫に例えられています。

 

イスラエルは、愛するべき唯一の神を裏切り、偶像の神々と交わった。それを「霊的姦淫」と言います。性的な姦淫は、この霊的姦淫のひな型だということです。

つまり、神の定めた結婚関係が破壊され、性的姦淫が横行している状況は、何より、神と信仰者の関係が破壊され、霊的姦淫が行われていることの現れだということです。

この原則は、新約聖書にも引き継がれています。現在の教会にとっても、適用されるべきものだということです。

ロマ 1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
1:25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
1:26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
1:27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、
1:30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、
1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。
1:32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。

5.聖書の霊的姦淫への警告に基づいて見る、現代のキリスト教界の姿

この聖書の原則から、現代のキリスト教界を見るならば、まさに末期的な状況だと言えます。

同性愛者であることを公言する牧師が、同性間の性行為を当然認められるべきこととして主張し、多数を占める教団の一つの教区の議長を努めている。

この事実は、日本基督教団の立場を内外に示すものととられて当然のことでしょう。

 

背後には、さらに深刻な状況があると思います。

それは、何より、神との関係が霊的姦淫によって破壊されているということです。

聖書を字義通りに読めば、同性間の性行為については、クリアです。旧約聖書も新約聖書も、一貫してこれを禁じています。

にも関わらず、同性間の性行為を容認する主張がなされるのは、その人々が、聖書全体を神の言葉として認めないからです。

”聖書は人が書いたものであり、確かに神の意思も表れているが、誤りも含まれている。”

そのように理解している牧師は、日本基督教団において圧倒的多数を占めるとわたしは捉えています。

どこまでが神の言葉で、どこが人の言葉かとなると、かなりの幅があり、人それぞれ異なり、混沌としています。

つまるところ、多くの牧師は、自分の主張を、聖書の言葉を部分的に拝借して述べているだけだということです。わたし自身も、紛れもなくその一人でした。

 

しかし、聖書は、聖書すべてを神の言葉として読むことを、繰り返し、明確に求めています。

申 27:26 「『この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言わねばならない。』」

二テモ 3:16 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」

二ペト 1:20 「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。」

黙22:18 「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」

ですから、聖書に対する態度は、二つに一つ、ということになります。

すべてをひとかたまりの神の意志として受け入れるか。拒むか。どちらかということです。

現に教会の長い歴史においても、聖書はすべて神の言葉として受け取られ、理解されてきました。

それが崩れだしたのは、19世紀以降のことです。聖書を字義通り読まないという立場が主流となったのは、せいぜい100年かそこらのことなのです。(「アメイジング・グレイスをめぐる疑問に答える」)

ですから、ゆうに100年以上の歴史を持つ、ほとんどの主流な教団教派の信仰告白には、聖書全体を神の言葉として受け入れることが明確に記されています。

創設から100年に満たない、日本基督教団の信仰告白においても、以下の通り明確です。(「心ふるえた、日本基督教団信仰告白♪」)

旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

信仰告白に明言されたことが堂々と破られているのが、日本基督教団の現状です。まさに末期的な状況を呈していると言えます。

わたしは、日本基督教団は、回帰不能点を、すでに超えてしまったのではないかと危惧しています。

つまり、たとえ、これから全教団規模での悔い改めが起こったとしても、教団自体の縮小、解体には歯止めのかからない、そんな段階に入っているのではないかということです。

世界有数のキリスト教国だったイギリスで、毎週の礼拝を守る人々、つまり実質的なクリスチャンが全人口の0.5%足らずになっていおり、閉鎖される教会堂が相次いでいるという記事を読みました。統計については様々あるようですが、激減している状況は確かなようです。

リベラル派が主流となっている欧州各国でも同様の状況が起こっているようですし、カナダ合同教会も激減していると聞きました。

同様の状況に、日本基督教団も陥っていくでしょう。それは、数字上も明かです。

日本の、少なくない既存の教団教派が、同様の道をたどるでしょう。

6.なお残されている個々の希望。主の呼びかけと憐れみのゆえに

日本基督教団を襲う荒波は避けようがありませんが、そのただ中にあっても、主に忠実に従っておられる人々と教会は、主が守ってくださるでしょう。

黙示録には、キリストから、小アジアの七つの教会への手紙が記されています。

今はもう存在しない、これらの教会への手紙は、それぞれの時代の様々な教会に向けて宛てられたキリストの手紙として読むことができます。

何より深く心に迫るのは、七つ目のラオディキア(ラオデキア)の教会に宛てて書かれた手紙です。

黙3:14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
3:19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
3:21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。
3:22 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」

聖書全部を神の言葉とは認めない、現代のリベラルの教会とは、ラオディキアの教会の状況そのものでしょう。

イエスは、教会の外に閉め出され、戸口でたたいておられる。

ご自身の命を注ぎ、愛を注いだ教会から閉め出されてもなお、戸をたたき続けておられる。そこに主イエスの愛があります。

主を拒む者へ、やがてくだる厳しい裁きの一方、悔い改めて主を招き入れる者にはなお、祝福が約束されています。主の深い憐れみと愛を思います。

3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

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付:同性愛者と、同性間の性行為に対するわたしの立場

キリスト教会における、宗教儀式としての結婚式は、男女に限るべきだと考えます。

一方で同性同士が共同生活をすることには、意義を唱えません。

共同生活をしていた同性間での遺産相続を容易にするような法整備も、必要に応じて行ったらよいと思います。

ただ、同性間の性行為には、宗教上の理由から、神が明確に禁じられているものであると、それをよしとする価値観には否を唱えます。

LGBTの人々の社会的生活権、人権は、当然、尊重されてしかるべきです。

わたしの信仰上の立場は明白ですが、個々のライフスタイルについて、自分の属する信仰共同体の範疇を超えて介入する権限など、もちろん、ありません。

 

わたしは、神の愛はすべての人に注がれていると信じています。

神の愛は、LGBTの人々にも、何ら変わることなく注がれていることを確信します。

同時に、すべての人が、神に裁かれ滅びにいたる罪人であり、救いを必要としていることも信じています。

すべての人は、神の前には、裁かれ、滅ぼされるべき罪人ですが、ただ、福音を信じて救われます。

福音とは、神のひとり子イエス・キリストが、わたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活され、今も生きておられる。ということであり、この福音を信じ、イエス・キリストをまさにそのような方と受け入れたときに、その人は、神の怒りから救われます。

以上が、わたしの立場、わたしの信じていることです。

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