十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

ハーベストタイムが分裂をもたらす?

2021/05/27
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

1. それは中川牧師の責任?

ハーベストタイムミニストリーズの働きが、地域教会に分裂をもたらしているという、少なくない声を聞きます。

先日も、ハーベストタイムミニストリーズの主催する聖書塾で学んだという方のブログを、ある牧師の引用から見ました。

 

Mさんは、ハーベストで学び始めてから、牧師の説教に不満を抱くようになり、教会を出そうになり、家庭も壊れかけたという内容でした。

ハーベストタイムが、地域教会に分裂をもたらしていると強く訴えられていました。

Mさんの結論は、大患難前携挙説という不確定な教理を絶対化して教えていることが問題の根本だと、中川健一牧師の責任を追求するものでした。

Mさんの主張によれば、教会での軋轢も、家族の問題も、すべて中川牧師の責任だということになります。

一見して私が感じたのは、Mさんは、非常に依存性の強い人だということです。この点がまず、気になりました。

 

2.自立と共生か 依存と支配か

ハーベストタイムの聖書塾の卒業生による自発的な学びの場から生まれたのが、聖書フォーラムです。現在、40以上のバイブルスタディが各地に生まれています。

聖書フォーラムは、宣教団体であるハーベストタイムミニストリーズとは独立した存在の、地域教会として個々に活動をしています。

この聖書フォーラムが大切にしている理念が、「自立と共生」です。

各地域にある、それぞれの聖書フォーラムが、精神的、経済的に自立していることを前提に、ゆるやかにつながりあって共生しています。

 

私が聖書フォーラムに連なって、5年になりますが、中川牧師や、他のリーダーたちから、何かを命令されたり、強要されたことなど一度もありません。

リーダー会の出席すら、任意です。

個々の聖書フォーラムの独立性は、とても大切にされていると感じています。集っている一人一人についても、同様です。

喜んで聖書を学びたいという人々が、自発的に集い、共同体として成り立っている。出会った当初は、本当に驚かされました。

しかし、改めて使徒の時代の教会の姿を見れば、それこそ、地域教会のあるべき当然の姿ではないかと教えられています。

 

「自立と共生」を尊ぶ共同体であり、学びの場であるのに、Mさんのように、ご自身に起こったことすべてが中川牧師の責任のように言われる方がいます。

Mさんの主張を丸呑みすれば、ハーベストタイムミニストリーズは、カルト的なグループとみなされてしまいそうです。

わたしの実感からすれば、組織においても神学においても、もっともカルトから遠い存在だと思うのですが、なぜMさんのような結論にいたってしまうのでしょうか。

 

中川牧師が、正しいと信じることを確信をもって教えられるのは、教師として、当然求められる態度だと思います。

一方で、その適用は、一人一人に委ねられています。学んだ一人一人が、どう生かすかは、個々の責任にまかされています。

生徒の自主性を尊び、自立を促していくことも、教師としては、当然の責務です。

 

しかし、依存性の高い人にとっては、「自立と共生」に基づく共同体や、学びの場は、むしろ、満たされないもの、不安感を覚えるものになるかもしれません。

逆に、支配性の強い人にとっては、満足できないもの、もの足りないものにも感じられたりもするのでしょう。

聖書フォーラムに連なっている人々には、カルト的な教会にいた経験を持つ人が少なくありません。

カルト的教会を出ても、依存と支配のカルト的思考から脱しきれない人は、結局、自立と共生の気風になじめず、離れていくように思います。

他者に支配的に振る舞う人が軋轢を起こして、結果、聖書フォーラムの群れから出て行ったということを、私自身も経験することがありました。

 

依存と支配はコインの両面です。依存的な人が力を持った途端に支配的になるのは、珍しいことではありません。

聖書知識を武器にして、それまで依存していた牧師や教会に、逆に支配的に振る舞うようになる人がいても、不思議なことではないと思います。

その場合にまず問われるべきは、当人と、その地域教会における関係性です。

 

私は、カルト化した教会の深刻な問題に直面させられたことがあり、その体験から教えられたことをいくつか記事にもしています。

以来、記事を読んだ人から、相談事や、共感の声が、たびたび寄せられています。

つくづく痛感させられれているのは、支配と依存という歪んだ関係性に陥っている地域教会がいかに多いかという事実です。

過度に依存的なクリスチャンを見ると、この人の所属する教会や、そこの教師は、どうなのだろうと気になってしまいます。

支配と依存の関係にある地域教会の教師にとってみれば、自立と共生という理念に立つ共同体の存在は、面白くないものだろうと想像します。

 

3. 正しいと断言するのが問題?

終末論について、様々な立場があるのは周知の事実です。

ハーベストタイムミニストリーズの主催する聖書塾では、千年王国前再臨説に立ち、患難期前携挙説に基づいて教えています。

他の説も併記した上で、なぜ、この説を支持するか論理的に説明されています。

 

終末論には、不確定さが伴います。

将来起きることについて、人は、誰も100%確実なことなど言えません。どの説の立場をとるにしても同様です。

その上で、私は、最も論理的で、聖書全体の文脈に沿っており、基本的な教理とも調和する説が、患難期前携挙説であると理解し、支持しています。

これが正しい聖書の終末理解であると、鹿追教会でも説明しています。

 

前述のMさんは、現在は、患難期中携挙説の立場のようでした。それならそれで、確信するところに立って説明されればよいと思うのですが、非常に気になった点があります。

Mさんは、「正しいと言い切れないことを断言すべきではない」と繰り返し主張されていたのです。

患難期携挙説が正しいとは言い切れないのだから、そう断言すべきではない。こういう主張をする方は、牧師、教職者にも、多いようです。

終末論を巡る議論で、私自身も一番よく聞かされてきた言葉です。

 

この主張には矛盾があります。

まず、「正しいと断言すべきではない」という主張自体、一つの「正しさ」の押しつけだということです。

そして、終末論にはうやむやな態度をとる人も、他の教理に対しては、その正しさを確信して断言しているということです。

 

信仰も救いも、目には見えないものです。

この世では正しさを証明しきれないものを、クリスチャンは信じているのです。

正しいと確定できないものは、断定すべきでないという立場をとるならば、福音宣教自体ができなくなります。

それはまさに、少なくない地域教会が直面している最も重大な問題であると私は認識しています。

終末論を明確に語れないということが、伝道の弱体化を招く一つの要因になっていないか、ということです。

 

4. 知的傲慢は誰の責任?

ハーベストタイムミニストリーズが発信している、ヘブル的視点に基づく、ディスペンセーション神学からの聖書解釈は、私にとっても衝撃的なものでした。

結果として、それまで所属していた教団を離れ、聖書フォーラムというゆるやかなグループに属する形で開拓教会を立ち上げ、今に至っています。

 

この学びが、劇薬となって働く側面もあるでしょう。

自分の教会の牧師の説教が聞けなくなってしまったということも、多くの人が経験していることです。

無理もないことだと感じます。私は、以前の自分の説教など、とても聞けたものではないと、いまさらながら強く思います。

自分が言いたいことを主張するがために、都合良く聖書の言葉を切り取ってくる。そんなことばかりを繰り返していました。

 

牧師の説教が聞けなくなってしまったと嘆く人は少なくありません。

しかし、すべての人がMさんのように牧師と対立し、教会を出ようとし、家庭崩壊の危機に陥るわけではありません。

そこまで至る人は、むしろ、ごく一部でしょう。

ハーベストの学びのために、こんなに不幸になってしまったと主張しているのを、私はMさんの文章で初めて読みました。

私は、終末論の違いを理解しながらも、福音における一致を大事にし、変わらず所属教会を支え、奉仕している人を知っています。

喜んで学び、信仰の確信を深めることで、家族の絆が深まり、未信者の家族が救いに導かれた、そんな証しをたびたび聞かされています。

 

一方で、聖書塾で学んだ知識によって、他者に支配的に振る舞うようになり、目指す教会像の違いから、聖書フォーラムを離れていった人々もいました。

知識が人を傲慢にする罠があります。その学びから得る知識が確かで、力があるものであるほど、知識から己を誇る誘惑も確かに強くなるでしょう。

その誘惑に打ち克った人だけが、主によって、リーダーと立てられ、用いられていくのだと思います。

学びを重ね、深めながら、なお謙遜に、神と人々に仕える聖書フォーラムのリーダーたちを、私は敬愛しています。

 

知識を得て傲慢になり、亀裂を生んでしまったというのなら、それは、あくまでも本人の責任です。誰のせいにもできません。

聖書塾でも、ハーベストタイムのメッセージでも、中川牧師は繰り返し、知的傲慢を戒め、謙虚さを説かれています。Mさんも聞かれていたはずです。

(※御言葉を他者を裁くために用いてしまう知的傲慢について、こちらに書いています。)

 

5. 神学論争は、おおいにすればいい

教会の歴史は、常に生じる異端との絶えざる戦いでした。対立や分裂も繰り返されてきました。

もし、分裂そのものが批難されるなら、批難を免れる教会など一つもありません。

その歴史の長短や、規模の大小に関わらず、すべての教団、教派、教会は、分裂の結果だからです。

 

歴史から教えられるのは、むしろ、時に分裂をも辞さない、厳しい真理の追究こそが、教会を教会として保ってきたという事実です。

新約聖書で最も多い命令は、偽りの教えに対する警告です。

パウロが記した手紙は、まさに、激しい神学論争がもたらした実です。神学論争こそが、教会の生命を保ってきたと言えます。

 

もし信徒が、その地域教会とは異なる教理、神学で訴えてきたなら、牧師は自分の信じる教理を論理的に説明したらよいでしょう。

意欲をもって信徒が学んでいるのは素晴らしいことです。

それは、教会全体を活発化させる原動力になるでしょう。

既存の教会でも、聖書フォーラムと連動したり、バイブルスタディの会場を提供されるなど、良好な関係を築き、相互に学びを深め、良い実を得ているところがいくつも現れています。

 

改めて、使徒たちの書簡を読んで感じるのは、弟子達の間にあった緊張感です。

パウロは、バルナバと衝突し、ペテロの誤った態度を指摘しています。

一方、ペテロが、パウロの書簡を擁護しているところもあります、

おかしいことはおかしい、正しいことは正しいと、指摘しあい、認めあえる、信頼関係が弟子達の間にあったことがよく分かります。

 

6. 与えられた賜物を磨き続けているのか?

私は、初めて中川師の説教を聞いた時、その内容に衝撃を受けると同時に、これは大変だと思いました。

これだけ質の高いメッセージを手軽にネットで聞くことができるという事実に驚愕したのです。

牧師は失業だと、おののきました。

 

以来、それまで立っていた自由主義神学の立場を捨て、聖書の学び直しを一から始めました。聖書塾でも学びました。

何より、「聖書が分かる」という、これまで味わったことのない喜びに満たされながらのことでした。

やがて始めた教会開拓でも、聖書を創世記から順番に、ひたすら解き明かしてきました。

コロナ禍以前から行ってきたネット宣教を通して多くの方が学びを共にされ、支援もいただくようになりました。日々が小さな奇跡の連続です。

 

ハーベストタイムミニストリーズの聖書塾での学びは、私が神学校で学んだどんな授業よりも、圧倒的に密度の濃いものでした。

聖書塾を学んでいる人々のほとんどは信徒の方々ですが、下手な牧師も真っ青な聖書知識を身につけている人もたくさんいます。

卒業後も独自に学びを深められていく方々もいて、中川牧師も、わたしより聖書知識のある方が何人もいらっしゃいますと嬉しそうに言われていました。

私も、極めて質の高い視聴者がそろっている前で、ライブ配信などやっているわけですから、毎回、結構な緊張感があります。

鋭い突っ込みや、間違いの指摘もいただきますが、その中で、育まれている自分を感じさせられています。

 

ある牧師から、ハーベストタイムミニストリーズに対する批難の言葉を聞いたのをよく覚えています。

中川牧師のメッセージに感化された信徒に、説教の間違いを指摘されて、「傷ついている牧師がたくさんいるんです。」ということでした。

「プロでしょ?」と、唖然としました。その時は、あんまり驚いて、言葉も出ませんでしたが…。

簡単に自己憐憫に陥り、被害者意識をふくらませ、自らを問うことにいたらない。癒やしのプログラムのやりすぎではないかと思います。

 

ユダヤ議会で、堂々と聖書を解き明かし、イスラエルの罪を正面から指摘したために、最初の殉教者となったステパノ。

彼は、もともと、使徒達が御言葉の奉仕に集中できるようにと、食料の配給のために選ばれた者でした。

ヘブル人の手紙は、初歩の教えにとどまることなく、学びを深め、信仰の成熟を重ねていくことを、すべての信者に、強く促しています。

教師であれば、なおのこと、さらなる学びと研鑽が求められていることは、言うまでもありません。

 

7.激変する時代に揉まれながら

もはや、肩書きだけでメッセージを語れる時代ではなくなっています。

コロナ禍は、ある日突然、世界中のメッセンジャーがライバルになる、という、牧師にとっては恐ろしい状況を生じさせました。

ネット上で、優れたメッセージをいくらでも聞けるわけですから、牧師にとっては、本当に大変な時代だと思います。

 

コロナ禍にあって、様々な業種でも、激変が生じています。

ある事業家が、生き残るのは本当のプロだけだと語られていました。

それは、牧師にとっても、まさにそうなのだろうと痛感させられています。

主が、この状況をゆるされているというならば、私に求められていることは何なのか? 問われています。

 

画面を通してみる自分の姿は、相変わらず滑舌悪く、突っ込みどころ満載です。

それでも用いられているのは、主の恵みとしか言えません。

主が用いられるなら、自分の資質など、なんの言い訳にもなりません。

 

学び続けること。そして、使えるものはフルに用いて、変わらず愚直に聖書を解き明かし続けること。

福音宣教と聖書の解き明かし、このなすべき使命に、全力を注ぐ、それだけです。

結果はすべて、主が負ってくださる。日々教えられ、この身に刻みつけられています。

 

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。マタイ福音書6:33

 

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母性的教会と霊的幼子クリスチャン 支配と依存
Q:どこまで助けてあげたらいいですか? 依存と支配 自立と共生
Q:牧師には、従わなければならないの?

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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

Comment

  1. ひろ より:

    コメントさせていただきます。
    中川先生の功績はすごいですね。
    メッセージステーションの無料で視聴できる動画の数はものすごいです。
    私もノンクリスチャン時代本当にお世話になりました。
    この問題の原因は中川先生ではないですよね。

    • sikaoichurch より:

      コメント、ありがとうございます。

      そうですね。

      「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなあなたが悪いのよ」という、昔のジョークを思い出しました。

      自分自身の問題を他者に転嫁してしまう。自覚なくやってしまうのが、人間の罪の性質なのだと思います。

      メッセージステーションとの出会いを通して、救いに導かれた方が、たくさんおられること、何より大きな神さまの祝福なのだと思います。

      主の生きた御言葉の力を教えられます。

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