十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

聖書フォーラムへのよくある批判から あるべき教会形成について考える

2021/08/14
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

1.  聖書フォーラムへのよくある批判を受けて

当教会のブログに、批判のコメントをいただきました。ハーベストタイムミニストリーズと聖書フォーラムに対するものでした。

信徒が牧師の許可なく聖書塾を受けることができ、聖書フォーラムまで立ち上げることができることを、おかしいと厳しく非難する内容でした。

 

私自身も、同様の批判を耳にしたことがあります。

この批難には、ある“前提”があります。

つまり、“信徒は聖書の学びに参加するのも、聖書の学びに自発的に集うのにも、牧師の許可が必要だ”というものです。

日本の、プロテスタントの福音派、ペンテコステ派の少なくない教会では、当然のこととして、よく言われていることのように思います。

 

しかし、キリスト教会全体ではどうでしょうか。

私が以前所属していた教団で、私が経験した範囲では、聖書の学びや集いに牧師の許可が必要などと聞いたことはありません。

聖書は、どう記しているでしょうか。

 

2.  聖書の学びに許可が必要?

 

弟子たちが、主イエスの名によって悪霊を追い出している人を見て、やめさせようとしたとき、イエスはそれを止められました(マルコ9:38~)。

悪霊を追い出せた彼らは、正しい教えを伝えていたのです。

正しい教えを伝えているなら、止める理由はない、というのが、主イエスご自身の見解です。

 

後の弟子たちの宣教にも、この精神は生かされています。

「使徒の働き(使徒行伝)」には、弟子たちが、ただ聖霊に従って自由に伝道を行う姿が生き生きと書かれています。

当初は食事の配給係として選出されたピリポは、サマリア人伝道へと召し出され、さらには、聖霊に命じられるままに南の荒野に下り、出会った一人のエチオピア人の宦官に福音を述べ伝えました。(使徒8:27~)

筋金入りのパリサイ派であり、教会迫害の先頭に立っていたパウロは、回心後、独自の道を歩んでいます。パウロは、主イエスご自身によって使徒とされたのでした。(ガラテヤ2:8)

 

雄弁家のアポロは、メシアについて教えていましたが、バプテスマのヨハネからの知識しかありませんでした。

アポロは、夫婦で主の弟子であったプリスキラとアキラの手ほどきを受けて、正確に福音を告げるようになりました。(使徒18:24~)

しかし、プリスキラとアキラは、使徒ではありません。

 

カイザリアの百人隊長コルネリウスは、異邦人でありながら、イスラエルの神を恐れ、多くの人と共に集い、ユダヤ人の聖書を学んでいました。(使徒10:1~)

パウロが、初めて訪れたマケドニアのピリピの町には、ユダヤの会堂はなく、川沿いに集っていた信仰者の群れに、彼は福音を告げたのでした。(使徒16:12~)

 

このように、教会時代の初期には、自発的に集い、聖書を学ぶ群れが各地に生まれていたことが分かります。

では、人々が集って聖書を学ぶのに、上部の組織の指導者の許可が必要だったかというと、そんなことはどこにも記されていません。

使徒たちが重視しているのは、語られている教えの内容が正しいかどうかだけです。

 

人々が聖書を学ぶこと、学びに集うことを妨げる命令は聖書にありません。

パウロは、地域教会の問題をたびたび指摘していますが、使徒や長老に話を通さなかったなどと言って、権威を振りかざして一方的に従属を求めることなどしていません。

聖書と主イエスの教えを根拠に、言葉を尽くして、丁寧に説明しています。ペテロやヨハネ、他の使徒たちの姿勢も同様です。

 

3.  地域教会には長老が必要

各地に、人々が集う目に見える群れとして建てられたのが地域教会です。

使徒の時代に地域教会が建てあげられる時には、複数の長老から按手を受けた長老が、指導者に立てられました。

使徒パウロは、一定期間、滞在して、人々に基本的な教理を教えると、長老を立てて、その地域教会の指導を委ねました。そして、次の町を目指して行ったのです。

 

長老の権威の下にあることは、地域教会に必要な重要な要件だと言えます。

聖書フォーラムには、地域教会として活動しているところもあれば、聖書の学びのサークルにとどまっているところもありますが、いずれも按手を受けた長老の権威の下に置かれています。

 

4.  聖書塾と聖書フォーラムの関係

聖書塾は、信徒向けの学びの場です。私が学んだクラスでは、宣教師、牧師が一人ずついた他は全員、一般の信徒の方々でした。

これが教師育成機関である神学校なら、所属教会の牧師の推薦が必要なのは理解できます。

神学校は、その教団教派の人的、経済的支援の上にある、教職者育成のための専門機関なのですから。

しかし、信徒が個人的に聖書を学ぶのに牧師の許可が必要とは、不可解です。

 

牧師と信徒の間に、よい関係性があれば、こんな学びを受けようと思っていますと、信徒は牧師に自然に話すでしょう。

実際に、そういう経過を経て、牧師や所属教会の理解も得て、聖書塾で学んでいる方もたくさんいます。

黙って受けるというのは、何か問題があるということでしょう。本人自身か、もしくは、牧師、所属教会の問題です。

深刻なのは、牧師、所属教会に問題があって、信徒が黙っているという場合です。

 

聖書塾で学ぶ少なくない人々が経験してきているのが、教会のカルト化、カルト的指導者の問題です。

集団外との交わりを断たせ、囲い込むのがカルトの常套手段です。

聖書的に正しい学びとなればなおさら、激しい妨害が起こります。

たとえば、ものみの塔(エホバの証人)では、自分たち以外の聖書の学びや教えのすべてを、悪魔の教えだと言って、それに触れることを厳しく禁じています。

カルト的教会でも同様のことが行われています。

牧師の許可を義務づけるなら、カルト化した教会に属している人々から、むしろ、学びの機会を奪ってしまうことになります。

実際、聖書フォーラムに集う人々には、カルト的教会で苦しんだ経験を持つ人は少なくありません。

 

聖書フォーラムの起こりは、学び終えた塾生の一人が、自発的に聖書の学びの場を立ち上げたことでした。

やがて、その場が、一つの共同体に成長し、実績を積み上げたリーダーが按手を受け、一つの地域教会としての聖書フォーラムが誕生していきました。

聖書的な自然な流れだと思います。

最初の按手の正当性について言えば、中川師をはじめ、牧師の資格を持つ者も複数おり、問題ありません。

 

5.  牧師養成は、神学校の特権?

当然ながら、使徒たちの時代に神学校などありませんでした。

ペテロたちは、「無学」と言われているように、正規のラビ教育も受けていませんでした。

 

牧師や教職者になるのに、神学校を出るという以外の道も、教派によっては認められていますし、そもそも、専任の教師職を定めていないグループもあります。

教師職の制度的な違いは様々にあり、聖書フォーラムが突出して変わった形を採用している訳ではありません。

 

使徒時代の教師の中には、パリサイ派の律法学者だったパウロや、洗礼者ヨハネの弟子だったアポロなど、変わり種もいます。彼らが認められたのは、特定の養成機関を出たからではなく、告げる教えが一致していたからでした。

聖書フォーラムが何より大事にしているのは、教理的一致です。

最低限求められるのは、当然ながらキリストの十字架と復活の福音であり、三位一体、一度きりの救い、再臨、聖書の真実性といった基本的なことです。

聖書フォーラムを際立たせている特徴としては、ヘブル的視点に立ち、イスラエルと教会を明確に区別し、終末論においては、千年王国前再臨説、大患難前携挙説に立つということが挙げられるでしょう。

これらの神学的特徴は、聖書フォーラムの専売特許ではありません。ようするに、聖書を真実の著者である神の意図に沿って、最初の読者が読んだように理解するということです。

ただ、そのことに力を注ぎ、この点によって一致している。それが聖書フォーラムという群れであると言えます。

 

6.  聖書フォーラムの群れの一つとして歩んできて思うこと

ハーベストタイムミニストリーズの主催する聖書塾での学びは、私がかつて神学校で受けたどんな講義よりも密度が濃く、内容の深いものでした。

何より、聖書が分かる喜びを心から味わうことができました。学ぶほど、混迷が深まるばかりだった神学校とは真逆でした。

この喜びを一人でも多くの人に伝えたいと、私自身も聖書フォーラムの群れに加えていただき、小さな一つの聖書フォーラムのリーダー、長老として、尊い奉仕の機会を与えられています。

 

聖書フォーラムとは、聖書をよろこんで学ぶ人が集っている。ただそれだけの場だと言えます。

しかしそこから、人生をささげるほどに学びを深め、一つの共同体の責任を担い、リーダーとして立てられる人が、一人、また一人と、起こされています。

 

私自身も痛感させられてきたことですが、伝統的、組織的教会は、大きな危機に直面しています。

伝道の停滞、教勢の低下、教師の不足…。日本の地方では、すでに閉堂する教会も相次いでいます。コロナ禍は、都市部の多くの教会にも、かつてない困難をもたらしています。

どんなに歴史ある巨大な組織も、立派な教会堂も、著名な牧師の名説教も、わたし自身、あなた自身の信仰を保証してはくれません。突きつけられているのは、ごく当たり前の事実です。

この状況が問うているのは、一人一人の神との関係です。それは、自発的な学びなしには成り立ちません。

自立と共生が、聖書フォーラムのテーマです。

一人一人が、正しい聖書理解に基づいて、神との個人的関係を自らの責任で育んでいく。その上にはじめて、信仰者相互の関係性は築かれます。

使徒の時代の教会形成とは、まさに、そのようなものであったことを、使徒行伝から、使徒たちの手紙から教えられています。

 

聖書フォーラムに表れているのは、新しくも古い教会の形です。

神の御言葉を喜び学ぶ者が、互いにつながりあい、育みあい、一つのキリストの体である普遍的教会が建てあげられていく。その使命に歩み続ける。ただ、それだけのことです。

 

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