十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

聖書フォーラムへのよくある批判から あるべき教会形成について考える

2023/05/25
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1.  聖書フォーラムへのよくある批判を受けて

当教会のブログに、批判のコメントをいただきました。ハーベストタイムミニストリーズと聖書フォーラムに対するものでした。

信徒が牧師の許可なく聖書塾を受けることができ、聖書フォーラムまで立ち上げることができることを、おかしいと厳しく非難する内容でした。

 

私自身も、同様の批判を耳にしたことがあります。

この批難には、ある“前提”があります。

つまり、“信徒は聖書の学びに参加するのも、聖書の学びに自発的に集うのにも、牧師の許可が必要だ”というものです。

ある方は、「牧師のあずかり知らないところで(その教会の信徒に外部の者が)教えること」を重大な問題として提議されていましたが、同様の主張です。

日本の、プロテスタントの福音派、ペンテコステ派の少なくない教会では、当然のこととして、よく言われていることのように思います。

 

しかし、キリスト教会全体ではどうでしょうか。

私が以前所属していた教団で、私が経験した範囲では、聖書の学びや集いに牧師の許可が必要などと聞いたことはありません。

 

私個人は、「牧師のあずかり知らないところで教えること」が問題であるということが、まったく理解できません。

信徒の立場からこのことを言えば、「牧師のあずかり知らないところで聖書を学ぶこと」はおかしい、ということになります。

今の時代に、それをしようとしたら、インターネットすべてを検閲するか、あるいは、自分の所属する教団、教会以外の教説は見てはならないと、書籍を含めて一切の情報を遮断するように厳命しなければならなくなるでしょう。

実際にそのように行っているカルトがあります。情報の遮断は、カルトの常套手段でもあります。

「牧師のあずかり知らないところで聖書を学ぶことはおかしい」と牧師が主張する地域教会は、いったいどういう状況に陥っているのか、私は非常に懸念しています。

 

聖書は、どう記しているでしょうか。

 

2.  聖書の学びに許可が必要?

 

弟子たちが、主イエスの名によって悪霊を追い出している人を見て、やめさせようとしたとき、イエスはそれを止められました(マルコ9:38~)。

悪霊を追い出せた彼らは、正しい教えを伝えていたのです。

正しい教えを伝えているなら、止める理由はない、というのが、主イエスご自身の見解です。

 

後の弟子たちの宣教にも、この精神は生かされています。

「使徒の働き(使徒行伝)」には、弟子たちが、ただ聖霊に従って自由に伝道を行う姿が生き生きと書かれています。

当初は食事の配給係として選出されたピリポは、サマリア人伝道へと召し出され、さらには、聖霊に命じられるままに南の荒野に下り、出会った一人のエチオピア人の宦官に福音を述べ伝えました。(使徒8:27~)

筋金入りのパリサイ派であり、教会迫害の先頭に立っていたパウロは、回心後、独自の道を歩んでいます。パウロは、主イエスご自身によって使徒とされたのでした。(ガラテヤ2:8)

 

雄弁家のアポロは、メシアについて教えていましたが、バプテスマのヨハネからの知識しかありませんでした。

アポロは、夫婦で主の弟子であったプリスキラとアキラの手ほどきを受けて、正確に福音を告げるようになりました。(使徒18:24~)

しかし、プリスキラとアキラは、使徒ではありません。

 

カイザリアの百人隊長コルネリウスは、異邦人でありながら、イスラエルの神を恐れ、多くの人と共に集い、ユダヤ人の聖書を学んでいました。(使徒10:1~)

パウロが、初めて訪れたマケドニアのピリピの町には、ユダヤの会堂はなく、川沿いに集っていた信仰者の群れに、彼は福音を告げたのでした。(使徒16:12~)

 

このように、教会時代の初期には、自発的に集い、聖書を学ぶ群れが各地に生まれていたことが分かります。

では、人々が集って聖書を学ぶのに、上部の組織の指導者の許可が必要だったかというと、そんなことはどこにも記されていません。

使徒たちが重視しているのは、語られている教えの内容が正しいかどうかだけです。

 

人々が聖書を学ぶこと、学びに集うことを妨げる命令は聖書にありません。

パウロは、地域教会の問題をたびたび指摘していますが、使徒や長老に話を通さなかったなどと言って、権威を振りかざして一方的に従属を求めることなどしていません。

聖書と主イエスの教えを根拠に、言葉を尽くして、丁寧に説明しています。ペテロやヨハネ、他の使徒たちの姿勢も同様です。

 

3.  地域教会には長老が必要

各地に、人々が集う目に見える群れとして建てられたのが地域教会です。

使徒の時代に地域教会が建てあげられる時には、複数の長老から按手を受けた長老が、指導者に立てられました。

使徒パウロは、一定期間、滞在して、人々に基本的な教理を教えると、長老を立てて、その地域教会の指導を委ねました。そして、次の町を目指して行ったのです。

 

長老の権威の下にあることは、地域教会に必要な重要な要件だと言えます。

聖書フォーラムには、地域教会として活動しているところもあれば、聖書の学びのサークルにとどまっているところもありますが、いずれも按手を受けた長老の権威の下に置かれています。

 

4.  聖書塾と聖書フォーラムの関係

聖書塾は、信徒向けの学びの場です。私が学んだクラスでは、宣教師、牧師が一人ずついた他は全員、一般の信徒の方々でした。

これが教師育成機関である神学校なら、所属教会の牧師の推薦が必要なのは理解できます。

神学校は、その教団教派の人的、経済的支援の上にある、教職者育成のための専門機関なのですから。

しかし、信徒が個人的に聖書を学ぶのに牧師の許可が必要とは、不可解です。

 

牧師と信徒の間に、よい関係性があれば、こんな学びを受けようと思っていますと、信徒は牧師に自然に話すでしょう。

実際に、そういう経過を経て、牧師や所属教会の理解も得て、聖書塾で学んでいる方もたくさんいます。

黙って受けるというのは、何か問題があるということでしょう。本人自身か、もしくは、牧師、所属教会の問題です。

深刻なのは、牧師、所属教会に問題があって、信徒が黙っているという場合です。

 

聖書塾で学ぶ少なくない人々が経験してきているのが、教会のカルト化、カルト的指導者の問題です。

集団外との交わりを断たせ、囲い込むのがカルトの常套手段です。

聖書的に正しい学びとなればなおさら、激しい妨害が起こります。

たとえば、ものみの塔(エホバの証人)では、自分たち以外の聖書の学びや教えのすべてを、悪魔の教えだと言って、それに触れることを厳しく禁じています。

カルト的教会でも同様のことが行われています。

牧師の許可を義務づけるなら、カルト化した教会に属している人々から、むしろ、学びの機会を奪ってしまうことになります。

実際、聖書フォーラムに集う人々には、カルト的教会で苦しんだ経験を持つ人は少なくありません。

 

聖書フォーラムの起こりは、学び終えた塾生の一人が、自発的に聖書の学びの場を立ち上げたことでした。

やがて、その場が、一つの共同体に成長し、実績を積み上げたリーダーが按手を受け、一つの地域教会としての聖書フォーラムが誕生していきました。

聖書的な自然な流れだと思います。

最初の按手の正当性について言えば、中川師をはじめ、牧師の資格を持つ者も複数おり、問題ありません。

 

5.  牧師養成は、神学校の特権?

当然ながら、使徒たちの時代に神学校などありませんでした。

ペテロたちは、「無学」と言われているように、正規のラビ教育も受けていませんでした。

 

牧師や教職者になるのに、神学校を出るという以外の道も、教派によっては認められていますし、そもそも、専任の教師職を定めていないグループもあります。

教師職の制度的な違いは様々にあり、聖書フォーラムが突出して変わった形を採用している訳ではありません。

 

使徒時代の教師の中には、パリサイ派の律法学者だったパウロや、洗礼者ヨハネの弟子だったアポロなど、変わり種もいます。彼らが認められたのは、特定の養成機関を出たからではなく、告げる教えが一致していたからでした。

聖書フォーラムが何より大事にしているのは、教理的一致です。

最低限求められるのは、当然ながらキリストの十字架と復活の福音であり、三位一体、一度きりの救い、再臨、聖書の真実性といった基本的なことです。

聖書フォーラムを際立たせている特徴としては、ヘブル的視点に立ち、イスラエルと教会を明確に区別し、終末論においては、千年王国前再臨説、大患難前携挙説に立つということが挙げられるでしょう。

これらの神学的特徴は、聖書フォーラムの専売特許ではありません。ようするに、聖書を真実の著者である神の意図に沿って、最初の読者が読んだように理解するということです。

ただ、そのことに力を注ぎ、この点によって一致している。それが聖書フォーラムという群れであると言えます。

 

6.  聖書フォーラムの群れの一つとして歩んできて思うこと

ハーベストタイムミニストリーズの主催する聖書塾での学びは、私がかつて神学校で受けたどんな講義よりも密度が濃く、内容の深いものでした。

何より、聖書が分かる喜びを心から味わうことができました。学ぶほど、混迷が深まるばかりだった神学校とは真逆でした。

この喜びを一人でも多くの人に伝えたいと、私自身も聖書フォーラムの群れに加えていただき、小さな一つの聖書フォーラムのリーダー、長老として、尊い奉仕の機会を与えられています。

 

聖書フォーラムとは、聖書をよろこんで学ぶ人が集っている。ただそれだけの場だと言えます。

しかしそこから、人生をささげるほどに学びを深め、一つの共同体の責任を担い、リーダーとして立てられる人が、一人、また一人と、起こされています。

 

私自身も痛感させられてきたことですが、伝統的、組織的教会は、大きな危機に直面しています。

伝道の停滞、教勢の低下、教師の不足…。日本の地方では、すでに閉堂する教会も相次いでいます。コロナ禍は、都市部の多くの教会にも、かつてない困難をもたらしています。

どんなに歴史ある巨大な組織も、立派な教会堂も、著名な牧師の名説教も、わたし自身、あなた自身の信仰を保証してはくれません。突きつけられているのは、ごく当たり前の事実です。

この状況が問うているのは、一人一人の神との関係です。それは、自発的な学びなしには成り立ちません。

自立と共生が、聖書フォーラムのテーマです。

一人一人が、正しい聖書理解に基づいて、神との個人的関係を自らの責任で育んでいく。その上にはじめて、信仰者相互の関係性は築かれます。

使徒の時代の教会形成とは、まさに、そのようなものであったことを、使徒行伝から、使徒たちの手紙から教えられています。

 

聖書フォーラムに表れているのは、新しくも古い教会の形です。

神の御言葉を喜び学ぶ者が、互いにつながりあい、育みあい、一つのキリストの体である普遍的教会が建てあげられていく。その使命に歩み続ける。ただ、それだけのことです。

 
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この記事を書いている人 - WRITER -
2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Comment

  1. 枯骨 より:

    私は聖書フォーラムの批判者に与する者ではなく、ハーベストタイムに対する批判をつい最近知り、そこから先生のブログを知り、コメントも初めてする者ですが、公平に見て、批判者たちの批判の核心点に真正面から向き合わず、巧妙に回避した解答という印象を受けました。

    批判者たちの論点はこうだったはずです。「キリスト教界において普遍的に受け入れられてはおらず、しばしば論争の的になっており、別の立場に立つ教会も多くあるところの、聖書解釈上のある問題がある。その問題に関して別の立場に立つ教会の信徒に、『その解釈は間違っており、我々の解釈が正しい』と、牧師のあずかり知らぬところで教える事が、相手の教会に対する尊重と、公正さと、愛にかなった、主の前に恥じることの無い行為であると言えるのか。」そして私の見たところ、三浦先生はこの批判に対して真正面から向かい合って答えてはおられません。

    三浦先生の議論の進め方には「ある前提があります」。それは「大患難前携挙説は正しい。神の意図に沿って、最初の読者が読んだように理解するならそれ以外の理解はあり得ない。そしてこの問題は三位一体や二性一人格などと同じく、キリスト教信仰において、絶対に本質的な問題であり、それぞれの確信にまかせておいてよい事ではない。」という前提です。
    しかし、それは普遍的に共有されている前提ではありません。三浦先生がそうお考えになるのは自由ですが、そうは考えない神学者や牧師も多くおり、艱難後携挙の立場に立って信徒教育と教会形成をしている牧師も多くいます。

    私に関して言えば、携挙の時期の問題に限らず、例えばウェスレーのキリスト者の完全、瞬時的聖化は存在するか否か、新生と聖霊のバプテスマは同じか否か、聖霊のバプテスマのしるしは異言か否か、カルヴァン主義かアルミニウス主義か、などの、キリスト教界において論争の的となっている問題の一つ一つについて、私自身は明確な自分の立場を持っています。しかし、それは私の意見であり、反対の立場の人々と話すときには、「私の意見が正しい」という事を暗黙の前提として話を進めるようなことは勿論しません。そして、こういった、救われるための信仰において本質的でない、周辺的な問題に関して、牧師同士の議論ならともかく、他教会の信徒に、牧師のあずかり知らぬところで、その教会の立場に反する自説を教えようとすることなど、しかも「こういう考え方もあるよ」といった提示レベルならともかく、「この立場以外に、聖書の真の読み方はあり得ない」と教えることなど、とてもできません。そのような事には、主の前にとがめを感じます。それは、その牧師と信徒の間に築かれてきた信頼関係の領域に無断でヒビを入れようとすることであり、その信徒をその牧師に委ねられた主に対する恐れを欠いた行為であるとも感じるからです。私自身が確信している立場はありますが、偶像に捧げた肉の問題と同じく、絶対に本質的な事でない問題については、主に命じられたのでない限り、喜んで口を閉ざします。

    もっとも、三浦先生が「そんな事は全く気にすることは無い。艱難前携挙のみが神の意図にかなった解釈であり、書かれた時代の読者の読み方である。このことの重要性は、そんなことよりはるかに勝る。教会の真理は議論の連続によって確立されてきたのだから、この場合も、遠慮せずにどんどん議論すればいい」とお考えになるのでしたら、それはそれで、誰も先生のお考えをとやかくいう事はできません。しかし、その場合は、そのことを暗黙の前提とするのではなく、はっきりと明言するべきなのです。「仮に結果的に、牧師のあずかり知らぬところで、『あなたの牧師は間違った聖書の読み方をしている』と教えることになったとしても、やむを得ない事です。艱難前携挙か否か、この問題はそれよりも遥かに重要な問題なのですから。私は主の前で何の咎めも感じていません。」と、はっきり言明すべきなのです。それこそが、批判者の批判の核心点に対する、誠実な向き合い方であり、ごまかしの無い解答の仕方であると、私は考えます。

  2. 枯骨 より:

    私は聖書フォーラムの批判者に与する者ではなく、ハーベストタイムに対する批判をつい最近知り、そこから先生のブログを知り、コメントも初めてする者ですが、公平に見て、批判者たちの批判の核心点に真正面から向き合わず、巧妙に回避した解答という印象を受けました。

    批判者たちの論点はこうだったはずです。「キリスト教界において普遍的に受け入れられてはおらず、しばしば論争の的になっており、別の立場に立つ教会も多くあるところの、聖書解釈上のある問題がある。その問題に関して別の立場に立つ教会の信徒に、『その解釈は間違っており、我々の解釈が正しい』と、牧師のあずかり知らぬところで教える事が、相手の教会に対する尊重と、公正さと、愛にかなった、主の前に恥じることの無い行為であると言えるのか。」そして私の見たところ、三浦先生はこの批判に対して真正面から向かい合って答えてはおられません。

    三浦先生の議論の進め方には「ある前提があります」。それは「大患難前携挙説は正しい。神の意図に沿って、最初の読者が読んだように理解するならそれ以外の理解はあり得ない。そしてこの問題は三位一体や二性一人格などと同じく、キリスト教信仰において、絶対に本質的な問題であり、それぞれの確信にまかせておいてよい事ではない。」という前提です。 しかし、それは普遍的に共有されている前提ではありません。三浦先生がそうお考えになるのは自由ですが、そうは考えない神学者や牧師も多くおり、艱難後携挙の立場に立って信徒教育と教会形成をしている牧師も多くいます。

    私に関して言えば、携挙の時期の問題に限らず、例えばウェスレーのキリスト者の完全、瞬時的聖化は存在するか否か、新生と聖霊のバプテスマは同じか否か、聖霊のバプテスマのしるしは異言か否か、カルヴァン主義かアルミニウス主義か、などの、キリスト教界において論争の的となっている問題の一つ一つについて、私自身は明確な自分の立場を持っています。しかし、それは私の意見であり、反対の立場の人々と話すときには、「私の意見が正しい」という事を暗黙の前提として話を進めるようなことは勿論しません。そして、こういった、救われるための信仰において本質的でない、周辺的な問題に関して、牧師同士の議論ならともかく、他教会の信徒に、牧師のあずかり知らぬところで、その教会の立場に反する自説を教えようとすることなど、しかも「こういう考え方もあるよ」といった提示レベルならともかく、「この立場以外に、聖書の真の読み方はあり得ない」と教えることなど、とてもできません。そのような事には、主の前にとがめを感じます。それは、その牧師と信徒の間に築かれてきた信頼関係の領域に無断でヒビを入れようとすることであり、その信徒をその牧師に委ねられた主に対する恐れを欠いた行為であるとも感じるからです。私自身が確信している立場はありますが、偶像に捧げた肉の問題と同じく、絶対に本質的な事でない問題については、主に命じられたのでない限り、喜んで口を閉ざします。

    もっとも、三浦先生が「そんな事は全く気にすることは無い。艱難前携挙のみが神の意図にかなった解釈であり、書かれた時代の読者の読み方である。このことの重要性は、そんなことよりはるかに勝る。教会の真理は議論の連続によって確立されてきたのだから、この場合も、遠慮せずにどんどん議論すればいい」とお考えになるのでしたら、それはそれで、誰も先生のお考えをとやかくいう事はできません。しかし、その場合は、そのことを暗黙の前提とするのではなく、はっきりと明言するべきなのです。「仮に結果的に、牧師のあずかり知らぬところで、『あなたの牧師は間違った聖書の読み方をしている』と教えることになったとしても、やむを得ない事です。艱難前携挙か否か、この問題はそれよりも遥かに重要な問題なのですから。私は主の前で何の咎めも感じていません。」と、はっきり言明すべきなのです。それこそが、批判者の批判の核心点に対する、誠実な向き合い方であり、ごまかしの無い解答の仕方であると、私は考えます。

    • sikaoichurch より:

      コメント、ありがとうございます。

      まず疑問に思ったのですが、「牧師のあずかり知らぬところで教える」ことを問題とされる方が、ご自身の名前も立場も明かされていないのはなぜでしょうか?

      牧師もしくは、何らかの教職者、または指導者、公に責任ある立場の方だとお見受けするのですが。

      こちらは、名前も立場も、一切を明らかにしています。同じ土俵に立たれることが、議論の大前提ではないでしょうか?

      恣意的な議論の誘導があるのを感じますが、『その解釈は間違っており、我々の解釈が正しい』とは、どこにも書いていません。

      わたしは、聖書から解釈し、正しいと信じることを、訴えているだけのことです。

      私は、基本的教理に最も矛盾なく一致するのが、千年王国前再臨説であり、患難期前携挙説であると理解し、その立場から教えています。

      しかし、最も重要なことは、Ⅰコリント15:3~5にあるとおり、主イエスの十字架の贖いと葬りと復活の福音であること。毎回のメッセージでも多くの記事でも繰り返し記しています。

      「牧師のあずかり知らないところで」という言い方は、逆に言えば、「牧師は、信徒の言動についてすべてあずかり知っていなければならない」とも聞こえます。

      いったいどこの聖書の箇所をもとにした主張なのでしょうか。万人祭司というプロテスタントの根本的教理の一つとも一致していません。

      「牧師は、信徒についてすべてあずかり知っておかなければならない」という立場で、地域教会が形成されるなら、容易にカルト化するのではないでしょうか。

      現に、カルト化する教会は少なくなく、そのような地域教会で苦しむ人が、自ら聖書の真理を学びたいと望むことは当然のことであるとわたしは理解しています。

      この時代に、クリスチャンの果たすべき使命は、福音を宣べ伝えること。それだけではないでしょうか。

      福音宣教の使命のため、一人の救いのためには、一人の牧師のプライドなど、どうでもいいことなのだと私が認識しているということは、明言しておきます。

  3. 枯骨 より:

    お忙しい中、お返事ありがとうございます。

    本来であれば、私自身の立場や名前を公表してお話しするにやぶさかではありませんが、この場においては、控えさせて頂きたいと思います。理由は三つあります。まず、私の名前を明らかにすることが、議論に必須の要素だとは思いません。先生は、「同じ立場に立つ事が、議論の大前提ではないでしょうか?」とおっしゃいますが、他の匿名の方々とは、別段支障なく議論をなさっているように見受けられます。次に、「「牧師のあずかり知らぬところで教える」ことを問題とされる方が、ご自身の名前も立場も明かされていないのはなぜでしょうか?」とのことですが、「牧師のあずかり知らぬところで教える」ことを問題にするならば、この場で名前と立場を明らかにしなければならない筈だ、という論理展開が、私にはよく分かりません。これはとぼけているのではなく、本心から申しています。最後に、最も大きな理由として、先生は、批判者であるMさんを「非常に依存心の強い方」と評され、Mさんに対する反論の論拠の多くを、Mさんの性格的な問題に帰しておられますが、これは私にはフェアな議論だとは思われません。私の実名を出して似たようなことをされてはたまらない、という警戒心を、私は払拭することが出来ません。ちなみに、私自身は、Mさんのブログにおける主張の全てに同意するわけではありませんが、Mさんについて、「公正かつ謙遜な方」という印象を受けました。私自身に関しては、牧師と神学教師をしている者、と自己紹介するにとどめさせてください。

    本題に入りますと、私は、牧師は信徒の全ての行動を把握しなければならないとか、何をするにも牧師の許可が必要だ、などとは一言も言っておりませんし、示唆してもおりません。私の言いたいことはこうです。「聖書には、全てのクリスチャンが同じように信じなければならず、少しも妥協してはならない中心的な真理と、教会や教派によって、理解が異なり、それぞれが確信するところを主が許しておられる周辺的な真理がある。そして、後者については、個々人の確信と、それぞれの教会の立場を互いに尊重して行動すべきである。」

    もしあるクリスチャンが三位一体や信仰義認について疑義を呈していたら、私は、「それは違うよ、あなたの教会の牧師先生の言っていることはおかしいよ」と、遠慮も躊躇もなく説得します。しかし、例えば、私は、異言は素晴らしい祝福であり、パウロのように、クリスチャンが「皆、異言を語ることを望んでいます」が、他教会に所属する信徒の方に、異言について語る機会があったとしても、相手の教会の牧師の立場や意向を確認もせずにそれをしようとは、決して思いません。なぜなら、その問題について、私の聖書解釈と、その方の教会の聖書解釈は異なり、そして主はその事を許しておられ、その信徒がその教会に属しているという事は、その方の訓育と、指導と、霊的庇護と、御言葉による養いを、主が(私でなく)その教会の牧師に委ねられたということだからです。そしてこの理解は万人祭司の真理と矛盾しません。

    ある信徒がある教会に所属し、その教会の方々と交わりを持ち、その教会の牧師を自分の牧師とするという事は、その方の信仰生活、霊的成長、時として家族関係や人生全体すら左右する事柄であり、私はそこに安易に立ち入り、影響を及ぼすことに畏れを感じます。他者の立てた土台を尊重し、そこに安易に立ち入ることを畏れます。また、仮に、話をする相手が「非常に依存心の強い方」である可能性があるのであれば、なおさら、一層の配慮を持って自重するでしょう。キリストの愛の律法に拘束される者として、「聞き手の依存心が強いのが悪く、自分には責任が無い」などとは全く思いません。それゆえ、それぞれの牧師によって解釈の異なる教理的問題について、牧師を飛び越えて他教会の信徒の方に語るような事は、よほど主から促されたという特別な確信がない限り、私はしません。そのことが、それまで培われてきた、牧師及び教会と、その方との信頼関係に亀裂をもたらす可能性は、容易に推測されるからです。

    もちろん、三浦先生が、ある人がある教会に属する根拠はあくまで個人の選択と自発性のみであり、神の導きと委託という要素など考慮する必要はない、そして、セミナーや講義を受けるのに、牧師に相談する必要などない、また、牧師の神学的立場に同意できなくなったら別の教会に移ればいい、といった、母教会の意味や牧師の責任と権威といった概念に対する、より緩い考え方を持っておられるのであれば、それはそれで自由であり、私が責めるべき筋合いのものではありません。しかし、そのお考えに基づいて行動する相手は、同じ考えを持った人たちに限られるべきです。所属教会、牧師の責任と権威、といった概念に対して、より硬い考え方を持っている牧師や教会に対して、相手の立場に対する尊重を欠いた言動があるなら、それはキリストの愛の律法に合致するとは思われません。一部に行き過ぎた権威と束縛に陥った、カルト化した教会があるのは事実ですが、カルトという言葉の適用と見極めは自分を殺して慎重に行うべきであり、権威を重んずる教会に対する便利な牽制球として安易に切れるカード、議論の勝ちパターン、勝利の方程式のようにして安易に使われるべき言葉ではないと考えます。

    ハーベストタイムや聖書フォーラムにおいては、中川先生の聖書解釈を「へブル的解釈」と呼んで、学ぶことに重きが置かれています。ここで、「へブル的解釈」とは、「数ある解釈のうちの一つ」という意味では無く、「当時のへブル人が意図していた読み方」という意味ですから、当然、それは「神が意図される読み方」であり、「唯一の正しい読み方」という含意があります。結果、それを真剣に学んだ純粋な人ほど、「うちの教会の牧師は神が意図された正しい聖書解釈に立たずに、本来得られる祝福を逃している」との葛藤にさいなまれ、牧師や他の教会員との軋轢が生まれる危険性が高くなります。そして実際にそのような事例が複数起こり、ハーベストの働きの尊さは認めつつも、その点においては批判する声がネットで上がっています。私も中川先生の御本やハーベストタイムのメッセージで恵まれていますが、この問題に関しては、その批判に理があると考えざるを得ません。

    三浦先生とMさんの議論がかみ合わない根本的な原因は、終末論や教会論や牧師論についての神学的意見の相違それ自体にあるのではなく、先生が、「救いに必須でない周辺的な真理においては、主はそれぞれの教会の理解と自治を尊重される」ということを認めていないことにあると私は考えます。

    三浦先生が、ネットで中川先生のメッセージに触れ、一層の向上と研鑽に励まれ、新たなる道が開かれ、更なる恵みの高嶺に導かれたこと、その事自体は素晴らしい事であり、何の文句のつけようもありません。しかしながら、その事を普遍的基準として、他の教会や他の牧師すべてに当てはめて裁き、「私と同じように出来ないのであればその牧師が悪い。聖書に従ってもいない。緊張感も覚悟も学びも足りない。癒しのプログラムのやりすぎで自己憐憫と被害者意識に陥っているだけだ。中川先生の神学に同意できないのであれば、シャットアウトするのではなく、聖書から反証して自分の教会員を説得すればいいだけのことだ。それができない牧師は、聖書の実例に従っていないのだ。」といった主張をされていることについては、全く同意できません。三浦先生のお言葉を借りて「あまりに驚いて、声も出ませんでした。」と言ってもいいくらいです。全ての牧師に神学的に論じる能力を要求することは出来ません。主が牧師を任命されるにあたって重視される素質は、必ずしも神学的知識や議論の力だけではありません。私自身について言えば、「この方は、私よりも知識や弁ずる力は遥かに劣るが、謙遜さ、柔和さ、忠実さ、憐れみ深さ、愛、といった性質において、この方は私よりも遥かに勝る。主は私よりもこの方を遥かに喜ばれている。」と私が考えざるを得ない牧師などいくらでもいます。

    三浦先生の根底にある、こういった正悪の判定基準について、先生が明瞭に自覚された上で、プライドも自己防御も無しに、主の前で「私は何のとがめも感じません」と告白することが出来るのならば、私としてはそれ以上申し上げる事はありません。その場合、三浦先生と私のどちらが間違っているかは、主のみがお示しになることができる事柄だからです。

    つまり、三浦先生が主の御前で、
    「仮に、結果的に、牧師のあずかり知らぬところで、「あなたの牧師は間違った聖書の読み方をしている」と教えることになったとしても、私は何のとがめも感じない。それはこちらではなく、彼ら自身の問題だ。聖書が要求する、緊張感や覚悟や学びや研鑽や論じる能力を、彼らが持っていないのが悪いというだけのことだ。彼らがどのような聖書解釈・教会観・牧師観を持っていようと関係ない。なぜなら、ハーベストタイムの「へブル的解釈」は彼らの解釈よりも聖書的で正しく、また、私の「開放的で自発的な」教会観・牧師観は、彼らの閉鎖的・権威的・カルト志向の教会観・牧師観よりも聖書的で正しいからだ。」と告白できるのならばです。

    先生のおっしゃる、
    「福音宣教の使命のため、一人の救いのためには、一人の牧師のプライドなど、どうでもいい」という事については、私も同感です。しかし、「「神のため、福音のため」と一心に考えながらも、そこにいつの間にか無自覚に「自分の義」が混入していることに気づくのは、何と難しい事か。」それが私自身の歩みを振り返った時に感じざるを得ない、偽らざる実感です。

    • sikaoichurch より:

      枯骨さま

      「牧師と神学教師をしている者」とのことで、やはりそうだったのだと納得しました。

      なぜ、わたしがそのように確信したかといいますと、もってらっしゃる神学的知識の深さもそうですが、なにより、主張されていることが、どこまでも牧師の視点からでしかなかったからです。

      ご自身が立場や名前を明かさない理由を列挙されていますが、それを読んだ信徒がどのよう理解するかという視点がまるで欠落していると私は感じました。

      現状で、所属教会の牧師に告げずに、他の教会の牧師のメッセージを聴いたり、聖書を学んでいる信徒の方が、あなたの文章を読んで、どのように受け止められるでしょうか?

      神学教育の重責を担う牧師が、他の牧師を批判するのに、牧師であることすら明かさないなら、なぜ自分が、他の教会の牧師のメッセージを聴いて学んでいるからといって、そのことをわざわざ告げなければならないだろう。と、考える信徒の方が少なくないのではないでしょうか。

      あなたの主張は、むしろ、あなたが好ましくないと考えている現状を強める結果を生み出しているのです。

      羊の群れの牧者たる牧師が、牧師の立場でしか教会を信徒を見ることができない。ここに問題の本質があるのではないでしょうか?

      私が聖書フォーラを通して出会ってきた信徒の方々は、皆一様に、御言葉に飢え乾いていました。そして、それぞれの所属する地域教会を、牧師を愛されていました。

      聖書の学びを深め、さらに所属する地域教会に熱心に奉仕している方々を私は何人も知っています。私の教会の牧師が、聖書研究会を始めてくださったんです、と喜んで話される方がいます。

      他方、学びを深める過程で、それまで所属していた地域教会を離れる人々もいます。その人々に共通している体験は、牧師が、聖書を学びたいという欲求に応えてくれなかったということです。

      ある方は、「牧者が世話をしてくれないなら、羊はどうしたらいいのか」と途方に暮れていました。

      所属教会を離れた人々は、何年も悩み、それでも牧師が応えてくれないと忍耐し続けた結果として、断腸の思いで決心するに至っています。

      私が聞いてきた限りでは、聖書塾で学んで終末観が違ってしまったからと言って地域教会を出た人はいません。離れる選択をした人々は、福音そのものや、使徒信条にある基本的教理について、どうしても見過ごせない逸脱があったと語られています。そして、最後まで牧師から納得のいく答えを聖書からもらえなかったと。

      聖書を自分自身で学ぶことで、所属教会の抱える根本的な問題点に気づいてしまったということです。

      そのような話を信徒の方から聞かされる度に、自分はどうかと問われます。

      堅い食物を食べられるように、御言葉を丁寧に解き明かし、信徒一人一人の信仰の成長を促しているだろうかと。

      いつまでも乳ばかりを与えているとしたら、教師としての責任を果たしてはいません。

      聖書フォーラムにおける教会形成で大変だと私が感じていることは、何にしても、聖書的根拠をしっかり示さなければ、誰も納得してはくれないということです。

      「牧師のあずかり知らないところで学ぶことがなぜいけないのか? 」私の知る限り、このことを一信徒に分かるように聖書から解き明かしたものを見聞きしたことがありません。

      聖書からの解き明かしもなしに駄目だと言うばかりなら、「結局牧師は、権威を濫用して、既得権の上に自分の言いたいことを言っているだけではないか」としか、とられないでしょう。

      牧師であり神学教師でおられるということで、大変な立場に置かれていることとお察しします。

      時代は大きく変わりました。私が初めて中川師のメッセージを聴いたとき、ネット上でこれだけ質の高い学びができる事実に驚き、これでは牧師の自分は失業だと震撼しました。

      ネット上で気軽に、いくらでも質の高い聖書の学びをすることができる、それが今という時代です。

      先日もネットを通して救われ、わずか一年という方が、驚くような深い聖書理解を持っており、現実生活への適用力もあり、熱心に伝道もされていて驚愕させられました。そういう時代なのです。

      日本ではハーベストや聖書フォーラムが目立ってしまうようですが、中川師がこの流れを生み出したわけではありません。家の教会や小さなグループで、自発的に聖書を学ぶ人々の存在は世界的に広がっています。

      その中の小さな群れの一つが、聖書フォーラムに過ぎません。

      仮に、中川師が沈黙し、聖書フォーラムがなくなったとしても、この流れは何も変わらないでしょう。

      「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」と言われた主イエスの御言葉が心に響きます。
      いかに多くの信徒が、そして、信徒にとどまらない、少なくない人々が、御言葉に飢え乾いていることでしょうか。

      今、非常に大きな福音宣教のチャンスが与えられているのを感じます。

      枯骨師がお持ちの豊富な神学的知識を、世に向けてどんどん発信されていったらよいと思います。

      youtubeで、たまたま福音のメッセージを聴いて救われる方がおられる時代です。もし使徒パウロがこの時代にいたら、まっさきにユーチューバーになっていたことと思います。
      もし、youtubeの配信など、まだされてないとか、やり方が分からないということでしたら、私は相変わらずド素人にしか過ぎませんが、数年ほど試行錯誤を重ねてきて、いくらかの知識はありますので、ご連絡ください。

      その際には、個人的でかまいませんので、お名前を聞かせていただけたらと願います。

      ますます時代は混迷を極めていくのでしょうが、主がますます豊かに先生を用いてくださいますように。主の恵みを平安をお祈りいたします。

      追伸:「聖書には、全てのクリスチャンが同じように信じなければならず、少しも妥協してはならない中心的な真理と、教会や教派によって、理解が異なり、それぞれが確信するところを主が許しておられる周辺的な真理がある。そして、後者については、個々人の確信と、それぞれの教会の立場を互いに尊重して行動すべきである。」とのことには、わたしもアーメンです。

      自分たちだけが正しいなどと言ってはならないということも、記事に記しています。読んで頂ければ理解していただけることと思います。カルト化した教会の問題に直面した際には、複数の専門家に助言を仰ぎました。

      問題提起などするからには、なによりまず、自分自身の責任の所在をはっきりさせるべきであると私が常々考え、心しているということは、ご理解いただければ幸いです。

      過ちを必ずただしてくださる主を信頼し、主にしがみつくだけの歩みです。

      勝手ながら、ここでの議論は一区切りつけさせていただきたいと思います。これ以上議論を重ねるよりも、各々が主に託された使命に力を注ぐべきであると思いますし、その点は同意してくださるものと思います。

      このHPは、鹿追教会でドメインを購入し、サーバーをレンタルし、運営しているものです。無料のサービスを利用したものではありませんので、この点もご理解ください。

  4. 枯骨 より:

    ご返信ありがとうございます。

    議論はここで一区切りにしたいとの御意向、承知いたしました。
    議論を続けようとしたり、蒸し返そうとしたりする意図ではなく、三浦先生が誤解しておられるように見受けられる点を、最後に指摘させてください。

    意図的な曲解だとは思いたくありませんが、先生には、他者の言葉を勝手に敷衍して先走り、他者が言ってもいないことを想定してそれに反論する、藁人形論法をなさる事がしばしばあるように見受けられます。

    私は、「信徒は牧師に無断で他の牧師の説教を聞いたり、読んだりすべきでない」などとは一言も言っておりません。

    私の元の文はこうです。
    「キリスト教界において普遍的に受け入れられてはおらず、しばしば論争の的になっており、別の立場に立つ教会も多くあるところの、聖書解釈上のある問題がある。その問題に関して、別の立場に立つ教会の信徒に、『その解釈は間違っており、我々の解釈が正しい』と、牧師のあずかり知らぬところで教える事が、相手の教会に対する尊重と、公正さと、愛にかなった、主の前に恥じることの無い行為であると言えるのか。」

    この文を、「信徒は牧師に無断で他の教会の牧師の説教を聞いてはならない」と解釈し、私がそういっているかのような前提で話をすることが、公正さにかなっているかどうか、ご自分でご判断ください。

    私は外面の行動よりも内面を、また、メッセージの受け手よりもメッセージの与え手を、問題にしています。もしメッセージの与え手の内面に、自分とは異なる聖書解釈に対する尊重と、他教会の牧師と信徒の信頼関係を毀損することに対する畏れがあるのならば、その思いが言動に影響を与え、外面をも支配することでしょう。その場合は、自らのメッセージを様々なメディアを通して広く発信してよいのであり、むしろそうすべきです。また、あえて受け手の側を問題にするならば、その内面に、主の導きに信頼し、母教会を愛し、主が牧師に委ねられた権威を適切に尊重し、自分の好みではなく、主の御心が何であるかを第一にしようとする姿勢があるならば、様々なメディアを通して、様々な解釈に基づくメッセージに幅広く触れてよいのであり、むしろそうすべきです。その結果、場合によっては教会を移らざるを得ず、それが最善であり、御心である場合もあるでしょう。

    しかし、Mさんとのやり取りを拝見した限りでは、メッセージの与え手に求められるそのような内面的姿勢を三浦先生が示しておられるとは、私には感じられませんでした。むしろMさんからの批判に対して、公正な検討を加えて自らを顧みるよりも、真っ先にMさんの性格に問題があると決めつけ、そこに主たる原因を帰しておられるように見受けられました。勿論その問題に対する最終的な裁定は私ではなく主がなさることですので、主と三浦先生の関係に私は立ち入らず、これ以上は何も申しません。

    ただ、そのような(公正な検討を加えず、問題の原因を、真っ先に相手の性格的な問題に帰そうとする)三浦先生の傾向は、私とのやり取りにおいても現れているように思います。私の言葉に対する一方的な曲解もそうですが、それに加えて、私は、「私が名乗らなかった最も大きな理由」を明らかにしているにもかかわらず、それについては全く触れずに自らには問題なしとし、ただ信徒の立場に対する慮りの欠如と、客観的視点の欠如ゆえに、私が名乗るべきことに思い至らなかったかのように印象付けておられることもです。このことが公正なことであるかどうかのご判断についても、先生ご自身にお委ね致します。

    祈りつつ、よくよく考えて言葉を選んで書いたつもりですが、それでも無用な無礼さがありましたら、お許しください。ここで問題提起したことは別として、先生の動画や記事には非常に恵まれておりますことを、最後に付言させてください。YouTube配信などについては私も検討しておりますが、「録画してアップロード」以上のことは何も知らないような者ですので、何か迷った時には、相談させてください。先生のご連絡先が分かりませんので、お時間のある時にでも、私が記入したメールアドレスに、メールをいただければ幸いです。その時には、私も名前をお伝え出来るかと思います(笑)先生のお働きの益々の祝福をお祈りいたします。

    • sikaoichurch より:

      枯骨牧師先生

      これで一区切りつけさせていただきたいと申しましたが、枯骨先生からお返事をいただきましたので、それに対する返答を記させていただきたいと思います。

      枯骨先生の三度のコメントに対して三度目の返事を差し上げます。

      二度目のお返事を記す際、当初は一つ一つに正面から返答しようとしたのですが、表現がきつくなりすぎではないかと自重した次第です。

      しかし、枯骨先生の返答を読ませていただき、考えを改めさせられました。

      枯骨先生は、私の返答に対して、「他者の言葉を勝手に敷衍して先走り、他者が言ってもいないことを想定してそれに反論する、藁人形論法」だとおっしゃいましたが、私自身は、枯骨先生の論法に対してまさに最初のコメントから、そう感じています。

      決着のついていない聖書解釈上の問題について、「別の立場に立つ教会の信徒に、『その解釈は間違っており、我々の解釈が正しい』と、牧師のあずかり知らぬところで教える」と言われますが、そのようなことなど私はしていません。

      先の返答で枯骨先生から新たに加えられた情報で、わたしの発信する動画や記事も見てくださっているということです。『その解釈は間違っており、我々の解釈が正しい』というようなことを、わたしが、どこかで発言していたなら、具体的にご指摘いただきたいです。

      「私の解釈、我々の解釈が正しい」などという発言はなすべきではないと私は認識しています。強調する場合にも、「聖書から読み解いた結果、基本的な教理とも最も一致しているのが、この解釈であると私は理解している」と、それ以上の趣旨のことは申していません。

      終末論については、起こっていないことについてこれが絶対に正しいなどとは誰にも言えないということは、メッセージでも記事でも何度か述べさせていただいています。

      また、中川師が、そのような言動を行うことを見聞きしたことも、私は一切ありません。
      まず、中川師も、私も、立場を一切オープンにしています。神学的立場、個人的見解、あるいは牧会の姿勢に至るまで、隠していることなどありません。ホームページを開き、あるいは、動画を見れば、いずれも明確に分かります。

      聖書塾の塾生の応募は、公にされています。鹿追教会に関して言えば、礼拝からその後の分かち合いに至るまで、すべてライブ配信で公開しています。コロナ禍以前から行っています。

      枯骨先生の「あずかり知らぬところで教える」という表現自体が、一つの解釈であり、そこには、“意図的に隠れて教えている”というニュアンスが込められているのを感じますが、私には、牧会に関して何も隠しだてするものなどありません。

      枯骨先生には、隠されていることがまだまだたくさんあるようですが…。

      一連のやりとりの中で、枯骨先生の神学的知識の深さに加え、非常に頭の切れる方であるとも認識しております。実際に相対して議論をしたら、わたしなど相手にならないでしょう。

      私は、こういった分類が正しいかどうかも分かりませんが、福音派やペンテコステ派の先生方と関わりを持って日も浅く、ほとんど面識もありません。しかし、枯骨先生は、ひょっとしたら、わたしのような者でもお名前をお聞きしたことのあるような方なのではないかと推察しています。

      「大患難前携挙説は正しい。神の意図に沿って、最初の読者が読んだように理解するならそれ以外の理解はあり得ない。そしてこの問題は三位一体や二性一人格などと同じく、キリスト教信仰において、絶対に本質的な問題であり、それぞれの確信にまかせておいてよい事ではない。」

      私は、枯骨先生が「」付で記されるこのようなことを発言したことはありません。「あり得ない。絶対に本質的な問題」などという言葉など用いていません。これも、あるというなら、具体的にご指摘ください。

      二性一人格という神学用語は、恥ずかしながら初めてお聞きしました。ですから、私は、「二性一人格」という用語を使用したことないとはっきり言えます。これは明確に枯骨先生よる虚偽の記述です。

      「私の意見が正しい」「この立場以外に、聖書の真の読み方はあり得ない」「そんな事は全く気にすることは無い。艱難前携挙のみが神の意図にかなった解釈であり、書かれた時代の読者の読み方である。このことの重要性は、そんなことよりはるかに勝る。教会の真理は議論の連続によって確立されてきたのだから、この場合も、遠慮せずにどんどん議論すればいい」「聞き手の依存心が強いのが悪く、自分には責任が無い」、「私と同じように出来ないのであればその牧師が悪い。聖書に従ってもいない。緊張感も覚悟も学びも足りない。癒しのプログラムのやりすぎで自己憐憫と被害者意識に陥っているだけだ。中川先生の神学に同意できないのであれば、シャットアウトするのではなく、聖書から反証して自分の教会員を説得すればいいだけのことだ。それができない牧師は、聖書の実例に従っていないのだ。」

      これらのことも私は発言していません。すべて枯骨先生の一方的な理解、解釈です。枯骨先生は、私が発言しないこと、ご自身の解釈にすぎないことを、あたかも私が発言したことのごとく「」付きで、これでもか、というくらい重ねて記されているわけです。

      学問の世界では、引用には正確性が求められるのは言うまでもないことですが、枯骨先生は、神学教師としてどのように生徒に教えておられるのでしょうか?

      このように、枯骨先生は、「三浦亮平の言葉を勝手に敷衍して先走り、三浦亮平が言ってもいないことを想定してそれに反論する、藁人形論法」を、その最初から最後まで繰り広げられています。

      枯骨先生は実は、私の発信する動画や記事を見られていることも、先の返答で明らかにされました。「先生の動画や記事には非常に恵まれております」という表現は、文脈通りに捕らえれば、一定の期間にわたって、すでに私の動画、記事を目にされているということです。私の経歴もよくご存じでいらっしゃるようです。

      あらためて振り返れば、枯骨先生は、私に対する様々な、ご自身の曲解された解釈を重ねて記述しておられますが、私の言説について一定程度読み込んだ上でなければ、そのような曲解も出てこないのではないでしょうか。

      しかし、枯骨先生は、「ハーベストに対する批判をつい最近知り、そこから先生のブログを知り」と最初におっしゃっています。一体何が枯骨先生の真実なのでしょうか?

      枯骨先生は、次々に、後出しで情報を追加されるので非常に戸惑います。それでいて、最初に、このように自己紹介をされているわけです。

      「私は聖書フォーラムの批判者に与する者ではなく、ハーベストタイムに対する批判をつい最近知り、そこから先生のブログを知り、コメントも初めてする者ですが、公平に見て、批判者たちの批判の核心点に真正面から向き合わず、巧妙に回避した解答という印象を受けました。」

      明確に、私に対する批判を記しておかれながら、自分は「批判者に与する者でははない」と言われる。これもまた、虚偽です。

      枯骨先生は、このような虚偽の記述を重ねて行いながら、ご自身については「公平」に見ているとおっしゃられる。

      あえて重大な真実を隠す、言わない、というのも明確に一つの嘘です。

      牧師であり、神学教師であるという重要な情報を言わない。主に献身し、按手を受け、奉仕されている、そのことをまで隠すとは一体どういうことなのでしょうか?

      私には、まったく理解できません。

      匿名の批判を公平と言ってはばからない枯骨先生の価値観は、いったいどこの世界の価値観なのでしょうか?

      それこそ、枯骨先生の言葉を引用してご返答差し上げるならば、主に献身し、按手を受け、主に奉仕する牧師であり、牧師育成の重責を担う神学教師が、その立場を隠し、曲解と虚偽を重ねて他者を批判することが、「相手に対する尊重と、公正さと、愛にかなった、主の前に恥じることのない行為であると言えるのか」ということです。

      枯骨先生とのやりとりを通して、非常に教えられることがありました。一連のコメントのやりとりは、管理者として残しておきたいと思います。あるいは、記事にまとめることがあるかもしれません。ご了承ください。

      その際、枯骨先生のお名前は伏せますので、ご安心ください。

      枯骨先生が、お名前を名乗り出られない限りは、これ以降お返事をいただきましても、コメントに承認はいたしませんので、その点、ご理解いただきたいと存じます。

  5. 枯骨 より:

    御質問に対して短くお答えします。

    >枯骨先生は実は、私の発信する動画や記事を見られていることも、先の返答で明らかにされました。「先生の動画や記事には非常に恵まれております」という表現は、文脈通りに捕らえれば、一定の期間にわたって、すでに私の動画、記事を目にされているということです。

    はい。中川先生の御著書やハーベストタイムのメッセージには以前から接して、恵まれていました。4~5日前に、MISAOさんのブログでハーベストに対する批判を知り、さらにグーグル検索した結果、三浦先生の動画やブログを知り、それから先生の動画や記事に数多く目を通させていただき、とても恵まれました。何か矛盾したことを言っているでしょうか。

    >>私の経歴もよくご存じでいらっしゃるようです。
    先生が動画でお証しされたことの他は存じ上げません。

    私が初めに名乗らなかった理由は、2度目のお返事に書かせていただいた、「私が名乗らなかった最も大きな理由」に言い尽くされています。それ以上の理由はありません。「名乗らずとも、牧師と神学教師」という立場について名乗ることはできるだろう」と言われればその通りですが、1度目においては警戒心が先立っておりました。

    「与する者ではない」とは、ネットでハーベストタイムを批判している方々とは面識もなければ、同じグループに属する者でもない、という意味です。明瞭さに欠ける分かりにくい表現でしたら、申し訳ありません。

    >しかし、枯骨先生は、ひょっとしたら、わたしのような者でもお名前をお聞きしたことのあるような方なのではないかと推察しています。

    私は(おそらく)三浦先生より年齢も一回り以上も下の、全く無名のペーペーです。あえて比較するなら、三浦先生の方がよほど有名でしょう。このことは謙遜でもなんでもなく、躊躇なく断言できます。

    ハーベストタイムの立場が、「この解釈が唯一絶対のものである」と断言するようなものではなく、そんな事は一言も言っていない、私も認識しております。しかし、書き込みをさせて頂きました通り、

    「ハーベストタイムや聖書フォーラムにおいては、中川先生の聖書解釈を「へブル的解釈」と呼んで、学ぶことに重きが置かれています。ここで、「へブル的解釈」とは、「数ある解釈のうちの一つ」という意味では無く、「当時のへブル人が意図していた読み方」という意味ですから、当然、それは「神が意図される読み方」であり、「唯一の正しい読み方」という含意があります。結果、それを真剣に学んだ純粋な人ほど、「うちの教会の牧師は神が意図された正しい聖書解釈に立たずに、本来得られる祝福を逃している」との葛藤にさいなまれ、牧師や他の教会員との軋轢が生まれる危険性が高くなります。そして実際にそのような事例が複数起こり、ハーベストの働きの尊さは認めつつも、その点においては批判する声がネットで上がっています。私も中川先生の御本やハーベストタイムのメッセージで恵まれていますが、この問題に関しては、その批判に理があると考えざるを得ません。」

    このような事例が複数生じていることは、事実として認めざるを得ません。

    私がカッコつきで書いたことは、そういった批判に対する三浦先生の御回答を、パラフレーズさせていただきました。その中で無礼な表現がありましたら申し訳ありませんでしたが、内容としては、三浦先生がご回答の中でおっしゃっている事から、外れたことは言っていないと思います。

    確かに、ハーベストタイムは、自らの解釈が絶対に正しいとは言っていません。しかし、そのように受け取られてしまい、母教会との軋轢が生まれているケースが、複数出ています。そのような立場からの批判者たちに対して、どう向き合っているでしょうか。

    この点に関して、三浦先生の、批判意見に対する解答を読み返すのなら、私の書いたことは、決して先生が書かれた内容から外れてはいないと考えています。

  6. 枯骨 より:

    ただ、今から1度目の書き込みを読み直すと、非常にぶしつけで、けんか腰の書き方であったと思います。ご無礼を、申し訳ありませんでした。Mさんのブログを読み、その後、Mさんに対する先生の御回答の記事を読んだ直後に、1度目の書き込みをしたため、私なりの憤りが出てしまったのだと思われます。

    1度目の書き込みに書かれたカッコつきの文章も、実際にしばしば、ハーベストタイムの主張として受け取られてしまっているところの内容を書いたのですが、まるで三浦先生ご自身がそのように考えているかのような表現を勝手にしてしまい、申し訳ありませんでした。その箇所については、反省しております。

    私の書き込みは、ここまでにしたいと思います。他にも表現上、至らない点がありましたら、申し訳ありませんでした。私の主張の本筋をくみ取っていただければ、幸いです。

    • sikaoichurch より:

      ご返答、ありがとうございました。

      お名前は明かされませんでしたが、誠実なご対応をいただきましたので、私も最後にもう一度、お答えしたいと思います。

      まず、私が記事を書いた経緯を説明しておく必要があると感じました。

      ある時、ある牧師が、SNSで、Mさんのブログを引用して、ハーベストタイムに対する批判的なコメントをしているのを見ました。

      そして、そもそもは、ある著名な牧師が、Mさんのブログを引用して、ついにハーベストタイムに内部告発者が出たというような、非常にセンセーショナルな形で取り上げていたということを知りました。

      そして、Mさんのブログを牧師たちが次々と引用するという形で拡散していたわけです。

      私が疑義を覚えたのは、なぜ、公的な立場で教師である牧師が、一信徒のブログを引用するという、このような間接的な仕方で他の牧師を批判するのか、ということでした。

      しかも、引用されたケースは、私自身の経験から照らしても、非常に希なケースであり、ハーベストタイムの問題というよりはむしろ、個人的な問題ではないかと理解されるものでした。

      聖書フォーラムに連なる、私の知り合いの信徒の方々からも、「この人自身の問題でないのか」と戸惑う声を多く聞きました。ハーベストタイムや、聖書塾について、ブログに記されていたことが、皆さんそれぞれの体験とはかけ離れたものだったからです。

      Mさん自身も、聖書塾で出会った人々のことは、よい人たちだったと肯定的に記されています。聖書を学ぶことを喜び楽しむ人々が集う恵まれた場所だったということがむしろ、聖書塾に参加した多くの人が実感していることです。

      こちらの立場から説明をする必要があると感じましたが、間接的な引用という形で拡散しているものですので、いったいどのように反論したものか、悩みました。

      何よりわたしが訴えかけたかった対象は、無責任に引用、さらにその引用という形で信徒のMさんのブログを拡散し、安易にそれを用いて批判のコメントをした牧師先生方です。

      そこで、引用されていたMさんのブログを取り上げつつ、反証を試みたわけです。

      Mさんが、ご自身の名前で書かれているブログですから、別にそのまま引用しても良かったわけですが、そもそもMさんを対象にしているわけではないので名前は伏せましたし、リンクを貼ることもしませんでした。

      このような次第です。

      枯骨先生のコメントは、中川師に対する批判と私に対する批判がごっちゃになっており、答える難しさを感じます。

      このHPに載せている一切のことは、私独自の判断と責任で記していることは、まずご理解ください。

      枯骨先生の質問の体裁上、私が中川師の弁護をするような形にもなっていますが、これもまた、私の考えで返答しているものであり、中川師個人の意思を反映したものではありません。

      聖書塾の場で、中川師が他の牧師は間違っているなどと発言されるのを、私は聞いたことがありません。むしろ、それぞれの属する教会の牧師には、愛と敬意をもって謙遜に接することを何度も促されていました。

      ですから、「牧師は間違っている。この解釈が正しい」と批判する信徒に対しては、「中川先生は、そのような態度で、自分を正当化して牧師を批判することをよしとされているのですか」とたずね返していただければ、と思います。

      私の場合には、同業者の牧師に対して、厳しい視点で記している点もあるかと思います。
      それゆえの枯骨先生の私に対する問いかけは、甘んじて受けさせていただきます。

      私が懸念していることがあります。それは、牧師である私たちが直面している現実は、私が記していることなどよりも、もっと厳しいものなのではないかということです。

      “一つの地域教会に一人の牧師がいて、そこの信徒は、その教会の牧師を通して牧会される。牧師が、他の教会の信徒に教えるようなことは厳に慎むべきである。”という不文律そのものが、根底から覆されようとしているのが、今という時代ではないでしょうか。

      ネット上で、誰でも実に気軽に、他の牧師のメッセージを聞くことができる時代であり、それをとめる手立てなど、私たち牧師の側にはありません。

      SNSなどを通じて、信徒同士のネットワークは、教団教派や個教会の垣根などまったく関係なく広がり、絡み合い、全体像など誰にも把握不可能です。

      私の最近の体験は、ある教会員の夫婦が、コロナ禍で離れていた間に陰謀論にどっぷりはまり、間もなく宇宙人が現れて地球の諸問題は解決されるなどと主張され、出て行かれたことでした。

      ネット上で、異端やカルトも跋扈しています。明らかな悪意をもって、巧みに正体を隠して活動しているグループがあります。新天地のような潜入型のカルトも増殖し、浸透しているのではないかと思われます。

      今の時代に、カルトや扇動的なデマに惑わされないためには、確固とした終末観をクリスチャン一人一人が持つことが不可欠だと痛感させられています。

      それでもなお、驚愕するような理由で離れていく人もいるわけですが、牧師は、個々人の判断に対して介入する権限などもってはいません。

      そのような中でできるのは、一人一人が聖書から正しく判断できる力を身につけられるように、聖書から地道に学びを重ねていくこと。それしかないと考えています。

      他者の批判をするからには、当然、自分自身が批判を受ける覚悟が必要です。個人についてもそうですし、牧師という公的立場であればなおさらです。

      私も、このような記事を書いているからには、三浦亮平という人間、人格について、あれこれ詮索されたり、批判される覚悟はしています。それを恐れて匿名にするという選択肢は、私には与えられていません。

      福音書において、主イエスの批判者たちは、集団の匿名の存在として描かれています。

      主イエスをメシアと信じた人々が、一人の人格として記録されているのとは対象的です。

      もし、ルターやカルヴァンが、匿名で活動していたら、宗教改革は起こったでしょうか?
      私は何者なのか。主の前に、そして世に対してもはっきり明示することが、一人一人のクリスチャンに求められていることであると私は思います。

      キリストの御体なる教会は、迫害によって散らされ、エルサレム、サマリヤ、異邦人世界へと広げられていきました。

      神学教師の枯骨先生にわざわざ申し上げるまでもないことですが、主イエスの大宣教命令にあるように、クリスチャンである私たちのなすべきことは、行って、すべての人々を弟子とする、ということです。

      しかし、私たちは、いつしか主の使命を離れ、遣わされることよりも自らの身を守ることに汲々とするようになってしまったのではないでしょうか。

      そのような私たちを、主は否応なしに散らされようとしているのではないか。私はそのように感じてます。

      すべてのことは主の赦しのうちに起こっています。地域教会に大きな変容を促されているのが、主ご自身であるのなら、従うしかありません。

      そして、その中で、自分のできるベストを尽くすしかない。私に言えるのは、それだけです。

      経済的な後ろ盾もなく、選択の余地なしに始めさせられた開拓伝道でした。聖書フォーラムに加えさせていただきましたが、自立と共生を原則とする聖書フォーラムは、経済的な自立も、個々の群れに求められます。

      コロナ禍で、主な収入源だった結婚式の収入が途絶。今できる福音宣教はこれしかないと、ひたすらネットでの活動に力を注ぎ、不思議と支えられて今に至っています。

      ますます時代は混迷を深め、状況は厳しくなっていくのでしょうが、私にできるのは、愚直に福音を告げ、聖書を解き明かして行くこと、それだけしかないことを突きつけられています。

      神の国と神の義を第一に求めるならば、主ご自身がすべて必要を満たしてくださる。この主の約束を信頼して歩むしかないと、日々促されています。

      私のこれまでの経験上、匿名の方と、まともに議論が続いた試しがなかったのですが、枯骨先生とのやりとりは例外でした。枯骨先生が、誠実に応えてくださったゆえのことだと感謝申し上げます。ありがとうございました。

      牧師として、また神学教師として日々奉仕される枯骨先生にはまた、私とは異なる日々の苦難がおありのことと思います。

      枯骨先生におかれましても、共におられる主の恵みと平安が豊かにありますように。お祈りいたします。

      • sikaoichurch より:

        一つの記事をまとめるにあたって、あらためて、振り返らさせていただいています。

        「我々が正しい」「あなたは間違っている」という、自分の主張を絶対化するような言葉を用いることには、私はむしろ注意していますので、
        「三浦の主張」とまとめられた言葉に、こういった絶対化する言葉がくっついていることに戸惑ったのだと改めて確認しました。

        そういう絶対化する言葉がくっついた時点で、まったく違った主張になってしまいますから、私としては、どうにも受け入れようがなかったわけです。

        しかし、そういった言葉を取り除いて、枯骨先生の文章を改めて読めば、私の主張の大意はつかんでおられると思います。

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