withコロナでも、クリスチャンの変わらぬ使命
1.コロナ渦の世界のただ中で
6月末。道内の著名な観光地を訪れたところ、あまりの人の少なさに驚きました。
駐車場はがらがらで、いつもなら観光客でごった返す展望台は貸し切り状態。土産物屋も閑散としていて、閉じられたままの店も目立ちました。
これは大変なことだと身にしみました。
観光業界支援の施策は、まったなしの状況に陥っているのでしょうが、ここにきて、感染の再拡大への懸念が強まっています。
世界中で新型コロナの感染拡大が続き、収束したかに見えた地域での再拡大も起こっています。日本も例外ではありません。
“あれが第2派だった“ とかいうのは、すべてが収束した後に振り返って、はじめて言えることだそうです。
新型コロナとの本当の戦いは、まだまともに始まってすらいないのかもしれないと、警鐘をならす人がいます。
一定以上の人が感染して集団免疫を獲得することが、収束の一つの目安とされていますが、そもそも、確実な免疫を獲得できるウイルスなのか、という疑問もあがっています。
世界中で、ワクチンの開発競争が進んでいますが、ワクチンの有効性にも、同様の疑問符がつきます。
相変わらず混沌とした世界の情勢から知らされるのは、結局のところ、新型コロナウイルスについて、肝心なことは、ほとんど何も分かっていないのだ、ということです。
人類の暗中模索が続いています。
2.聖書における「疫病」とは?
コロナ渦が、これからどうなっていくのか。私には分かりません。
しかし、背後に働いている大きな力と、世界が最終的に向かう究極のゴールは、聖書から説明することができます。
聖書には、度々、疫病について記されています。
疫病を予告し、もたらす、その主体は、天地を造られた神ご自身です。
聖書において、疫病は、神の裁きの方法として現れます。
出エジプトしたイスラエルの民が、「肉が食べたい」と不満を爆発させた時、神は、大量のうずらを与えました。
この時、肉をむさぼりくった民の多くが、疫病で打たれています。
これに先だって神は、イスラエルが逆らうなら、裁きを下すこと、その一つに疫病があることを警告されています。(レビ26:25)
イスラエルは、約束の地でも神に背き、その土地を追われ、呪われることが告げられています(申命記28章)。呪いの一つが疫病です。
不信仰に陥ったダビデの時には、イスラエルの7万人が疫病で打たれました。(Ⅰ歴21:12)
イスラエルが分裂し、滅亡へとひた走った南北時代にも、預言者たちを通じて、疫病の裁きが度々告げられています。(エレ14:12他)
神は、不信仰なイスラエルを約束の地に帰還させます。近代イスラエルの建国において、この預言は成就されました。
そして、世の終わりに、その地を大軍勢が襲います。
しかし、大軍勢は疫病と流血で裁かれ、イスラエルは、患難の後に、民族的悔い改めに至るのです。(エゼキエル38:22)
3.すべては神の許しの内に!!
聖書の神は、全知全能の神です。
神のあずかり知らないところで起きることなどありません。
どんなに悲惨な出来事であっても、神の許しなしに起きることはありません。
すべてのことに意味があるのです。
疫病という災厄を人類にもたらされるのは、主ご自身です。新型コロナウイルスも例外ではありません。
では、そこに、いったいどんな意味があるというのでしょうか。
今は、恵みの時、救いの時です。
救われるべきすべての人を救いに導くために、人類に与えられた猶予期間です。
この世界を一から作り直すなど、神には造作もないことです。
それをされないのは、一人でも多くの魂を救うための神の憐れみに他なりません。
神が世界を、人間の手に明け渡して放置していたなら、人類も世界もとうの昔に、自らの手で滅んでいたでしょう。
世界中に残る文明の遺跡は、人類の繁栄が、一瞬の幻に過ぎないことを露わにしています。
栄枯盛衰が、人の世の定め。聖書も、歴史も、その事実を突きつけます。
新型コロナウイルスが蔓延する、この世界の人間に対して、神が伝えようとされているメッセージは、一つです。
すなわち、自らの罪を悔い改めて、福音を信じなさいということです。
世界は、人の罪のゆえに神から断絶し、破壊され、滅びに瀕しています。
聖書が示す、人類の救いの道はただ一つ。
主イエス・キリストが、私の罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活された。この福音を信じること。
主イエスだけが、わたしを救える方なのだと信頼することが、求められています。
4.収束しようとも、しまいとも!
新型コロナウイルスは、いつ収束するのか、そもそも収束とよべる段階にいたるものなのか。分かりません。
いずれにしても、私たちのなすべきことは、一つだけ。福音宣教と御言葉の解き明かしです。
必要な対策を施した上で、集会を持つ。集えない、会えないという状況なら、ネット、手紙、電話など、利用できる手段を活用していったらいい。
クリスチャンとしての使命さえ、はっきりと握りしめていれば、あとは、いくらでも応用の効くことです。
この状況の中で、はからずしも明瞭に浮かび上がったのは、恵みの時代の教会のクリスチャンの使命でした。
行って、福音を告げ、信じたすべての人に御言葉を解き明かし、主の弟子として育みあっていくこと。
主イエスの大宣教命令そのままに、歩み出していくことが、一人一人に求められています。
コロナ渦の世界のただ中にある、すべての人に、主が呼びかけられておられます。
悔い改めて、福音を信じなさい。福音を宣言し、御言葉を解き明かしていきなさい。
それが、すべてです。
Comment
■興味をもって見させていただいております。よろしくお願いします。
ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。