十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

聖書が記す罪と救いの大原則 罪についてのあらゆる議論の前に必要なこと

2022/11/03
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

元から食い違っている「罪」の概念

同性愛を罪と言うのは許せない、裁かれるぞ、という内容のコメントやメールを、これまで何度かいただきました。

その人々も、クリスチャンを名乗られているのですが、何をもって罪とするのか、という前提からして食い違っているので、どうにもかみ合いません。

同性愛という部分だけにスポットが当てられると、なおさら難しいと感じています。

罪、救いとは何か。

福音を信じるクリスチャンとして、確認するために書きました。

 

前提1. すべての人は罪人である

聖書が記すのは、全人類に対する有罪宣告です。

罪とは、神の意図から外れること。最初の人アダムが、最初の罪を犯したと創世記が記録しています。

神の言葉を疑い、神のような力を得たいと、神との約束を破って禁断の実を口にしてしまった。

この瞬間、人は死にました。

死とは「神との断絶」です。

 

人は霊的に断絶されたので、肉体的な死も免れなくなってしまったのです。

人類という枝は、最初の付け根から折れてしまった。

なので、以降の人間もすべて神から断絶された状態で生まれて来ます。

これが「原罪」ということです。

 

細胞は生まれ変わり、分子単位の入れ替わりが常にあるにも関わらず、人間は老い、死に至る。

なぜ死ぬのか。

いまだ人には分かっていませんが、聖書は、罪と死の起源を明記します。

 

死に至る人間は、誰もが死刑囚です。

死刑囚の間でも罪の軽重はありますが、死を前にして比較しても無意味です。

同性愛者でなくとも、誰もが滅びに至る罪人であることは全く変わりません。

他者の罪を責める前に、自らの罪に向き合うようにと聖書は促します。

 

前提2. 罪人は神の怒りを免れない

神は義です。

完全にきよく正しい神は、どんなにささいな罪とも同居することはできません。

神に語りかけられた聖徒たちは皆、恐れひれ伏しています。

罪人がきよい神と直面したら滅ぶしかありません。

 

主イエスは、神の義の厳しさを容赦なく突きつけられます。

性的欲望を抱いて他者を見れば姦淫であり、他者への悪口は殺人である。

律法では姦淫も殺人も死刑が定められています。

 

律法は恵みだと言われるのは、罪の責任の範囲を、行いにとどめてくれているからです。

神の本来の基準で、心の中までも測られるなら、一体誰が神の怒りを免れうるのか。

キリストの有名な「山上の垂訓」は、人を絶望の底に叩き落とします。

 

前提3. 神は罪人を憐れまれる

しかし、主イエスは、「心の貧しい者は幸いだ」とも語られます。

己の罪に打ち砕かれ、主にすがるしかない者に、神は憐れみの手を差し伸べてくださるからです。

 

厳正な義の神は、憐れみ深い愛の神でもあります。

主は、罪を犯した人を滅ぶにまかせず、救いの道を示されました。

 

罪のために身を隠すしかないアダムに、神は皮の衣を着せました。

動物の命を犠牲にすることで、かろうじて、神とつながる道を示されたのです。

動物の犠牲は罪を覆い、命をつなぎとめますが、一時的にすぎません。

人の罪が完全にゆるされるためには、その罪を身代わりに負う人が必要です。

 

しかし、人は皆、罪人です。死刑囚が、死刑囚の身代わりにはなれません。

神が示された方法は、罪なき人が身代わりになること。それがメシア(キリスト)です。

メシアはどのように現れるのか、少しずつ明らかにされていった過程が、旧約聖書には記されています。

 

示された救いの道はただ一つ

神は、三位一体です。

完全に一つでありながら、父、子、聖霊という独立した三つの神格(神の人格)を持っておられます。

個々の存在が独立していながら、同時に完全に一つである。

この次元ではありえない、神の領域における真実です。

完全な愛の関係性がそこにはあります。

 

父なる神の愛するひとり子イエスが、人となられ、世に来られた。

この方が真実の救い主、メシアでした。

イエスは、律法を神の意図まで含めて完全に遵守されました。

100%人でありながら罪なきイエスは、人の身代わりに死ぬことができました。

同時に、100%神であるイエスは、人の罪をゆるし、死を打ち破って復活することができました。

“神であるメシアが、人となられ、私の罪のために十字架で死なれ、葬られ、復活された” これが、福音です。

 

自分が滅びにいたる罪人であることを認め、主イエスに信頼した者、
つまり、神が示された唯一の救いの道である福音を信じた者は、救われます。

神の怒りを主イエスが身代わりに飲み干されました。

福音を信じた者が、永遠の滅びの裁きを受けることはありません。

 

福音だけが、「わたしを通らなければ誰も神のもとへはいけない」と主イエスが宣言された、狭き門。

救いに至るたった一つの道なのです。

 

福音を信じて救いを得よう

罪と救いの原則を押さえずに、人間の多様な罪の一面だけに目を向けても仕方ありません。

同性愛だけを取り上げても無意味です。

同性愛者であろうとなかろうと、人の罪と滅びの現実は何も変わりません。

 

求められるのは、滅びに至る罪人だと認めて、福音を信じることだけです。

そして、どんな罪を抱えた人であろうとも福音を信じた瞬間に救われます。

所有者の焼き印が押された羊のように、聖霊の証印がその人に押されます。

永遠に神のものとされ、その救いは決して失われることはありません。

 

信じて変えられたと喜んでいる同性愛者だった人々がいます。

彼ら彼女らもまた、この原則によって救われました。

信じて歩み始めても、私たちは罪を犯すことがありますが、悔い改めれば、ゆるされます。

その繰り返しの中で、人は変えられていくのです。

 

世の終わりの裁きの後、主イエスが再び来られる時、世界は回復されます。

信じたすべての者に、完全な神の国の体が与えられます。

もはや誰も罪を犯すことはなく、めとることも嫁ぐこともありません。

神の完全な愛の関係の内に招きいられて、私のすべては満たされます。

 

ゴールは約束されています。

日々の中には、変わらぬ葛藤や戦いもあります。

しかし、神の約束を握りしめて、どんな時でも希望を見失わずに歩んでいけるのです。

 

すべての人は滅びに至る罪人ですが、ただ、主イエスの福音を信じて救われます。

信じ続けて変えられて行き、主が来られる時、完全なゴールに至るのです。

 

ヘブル人への手紙6章1~3節

ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。

死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

神が許されるなら、先に進みましょう。

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