エゼキエル戦争が始まった? 終わりの時代を平安に歩むために
目次
1. ウクライナ戦争の背後で
コロナ禍もおさまりきらない内に起きた、ウクライナへのロシアの侵略戦争。
まさか、と驚愕した自分こそ、歴史から学んでいないのだと痛感させられました。
隣国が始めた侵略戦争は、この地での人々での生活にも、暗い影を落とし始めています。
手段を問わず、己の野望を実現させるのが独裁者の常です。
まさかそこまでしないだろう、合理的ではないと言って、人の罪の不都合な真実から目を逸らすのが、まさに人間なのです。
支配欲に支配された者に、歯止めなどない。
私自身、カルト化した教会指導者に向き合わされる中で、痛感させられた筈でした。
しかし、懲りもせず、はかない願望を人に抱く。自分の愚かさが身に染みます。
妙に浮き足立ってしまうのも、人の心理の一面なのでしょうか。
「この戦争は、聖書預言の成就だ」と騒ぐ牧師を揶揄するアメリカ発の記事を読みました。
いよいよ世の終わりだ、と、同様に騒ぎ立てる人は、日本のクリスチャンにも少なくないようです。
2. ニュースペーパー・セオロジー
何かが起こる度に、これは聖書の○○の成就だと騒ぐ人が出てきます。
皮肉をこめて、ニュースペーパー・セオロジー(新聞記事神学)」と呼ばれます。
頻繁に引っ張り出されるのは黙示録です。「ワクチンは反キリストの666のしるしだ」などと言うわけです。
チェルノブイリの原発事故の際には、これが黙示録の「にがよもぎ」で、世界の水が汚染されると言う人がいましたが、そんな話も盛り返していそうです。
困ったことだなと思うのは、聖書的な終末観に立つはずの人々が、「終末だ」と、目の前の状況で騒いでいる姿です。
ウクライナの状況を見て、エゼキエル戦争が始まった、と言う人がいますが、それは正しい認識でしょうか。
3. エゼキエル戦争
「エゼキエル戦争」とは、世の終わりの裁き、大患難時代の前に起こるとされている戦争です。
“歴史上を類を見ない大軍勢が北方からイスラエルを侵略するが、神の介入によって撃退される。”
エゼキエル書の記述がその根拠とされています。
フルクテンバウム師の説明では、北方の大軍勢の主体がロシュ、すなわちロシアではないかと言われていました。
ロシアは、歴史的に過酷なユダヤ人迫害が繰り返されてきた地です。
現在の中東でも、イラン、シリアといった反イスラエルの国々を支援しています。
そこに南方のウクライナへの侵略と来たわけですから、確かにエゼキエル戦争を連想しないわけにはいきません。
4. エゼキエル戦争は始まってる?
では、ウクライナ戦争はエゼキエル戦争なのか、というと、これは明確に違います。
侵略されたのはイスラエルではなく、ウクライナです。聖書預言とは無関係な地です。
そこで行われているのは、有史以来繰り返されてきた、古典的な侵略戦争です。
ロシアがこの戦争に勝利して、さらに領土の拡張を続けるなどという事態になれば、最終的にエゼキエル戦争につながる可能性も、確かに、まったくないとは言い切れないでしょう。
しかし、それは、あくまでも可能性がないとは言えない、ということであって、現状を見て、エゼキエル戦争だ、と騒ぐのは、どう見ても行き過ぎです。
第一、今、そんなことを期待するとなると、倫理的にどうかと思います。
聖書が求める終末への態度からも大きく隔っています。
5. 歴史に学ぼう
ついに終末が来たと大騒ぎになったのが、20世紀初頭の世界大戦でした。
第二次世界大戦時、日本のキリスト教界は、政府の指導下で、プロテスタントの様々な諸教派が、日本基督教団として一つにまとめられていました。
その中で、終末だ、キリストが再臨する、と強く訴えていたのが、ホーリネスの人々でした。
「メシアが来て神の国を建設する」という教えは、天皇を貶めるものだと当局に激しく迫害され、殉教者も出ました。
当時、日本基督教団は、ホーリネスの牧師を一方的に解職し、切り捨てています。
6. 心を騒がせないように
日本の戦中、信仰を貫いて弾圧を受けたキリスト者は、ホーリネスの人々ら、少数にとどまっています。
日本基督教団が、献金を募って戦闘機を政府に献品した記録が残っています。天皇を神とする皇国史観に呑み込まれ、迎合していったのが、日本のキリスト者の多数でした。
ホーリネスの人々は、再臨のメシアの希望があったからこそ、信仰を貫くことができたのだと思います。
初代教会の人々が、激しい迫害の中で、信仰を保ち、希望を失わなかった、その原動力もまた、主イエスが間もなく来られるという、終末の約束にありました。
世における信仰者の歩みにおいて、いかに終末論が大切か、教えられます。
しかし、戦後、ホーリネスでは、終末論そのものが、ほとんど語られなくなってしまいました。
なぜそうなってしまったのでしょうか。
ホーリネスの人々の記録で、終末論の理解において、行き過ぎがあったと書かれているものを読みました。
当時、熱狂的な支持を集めたホーリネスの指導者、中田重治師は、大勢が集う聖会で人々を強く煽り、主は再臨したとまで叫んだそうです。
当時の人々の大変な緊迫感が伝わってくるようです。
無理からぬ側面があったと思いますが、主イエスは再臨した、とまで言ってしまったのなら、確かにそれは行き過ぎです。
戦争が終わり、迫害は去った、しかし、主は来なかった。
あれは何だったのかと、失望や虚脱感を覚えた人々も多かったでしょう。
使徒の時代にも、再臨を強調する余りの行き過ぎがありました。
パウロは、主の日が来たと言って心を騒がせないように、と記しています(Ⅱテサ2章)。
主の日、大患難時代は、「不法の者」・反キリストの登場から始まるが、反キリストが世界の神と讃えられる、その時はまだ来ていないと言うのです。
黙示録に記された大患難時代の災厄は、人類の誰もが未経験の空前絶後の出来事です。
そんなことは、未だに何一つ起こってはいません。
未曾有の大虐殺を引き起こした二度の世界大戦すら、世の終わりではなかった。
その歴史的事実に目をとめるべきです。
7. 義と愛の神を恐れ 慕い求めよう
パウロが促すのは、主に堅く立ち、使徒に学んだ教えを守ることです。
「終末だ」と、仕事も辞めて騒ぐ人々に対しては、落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べるよう勧めています。
主イエスご自身も、終末預言を告げるに際して、まず落ち着きを求めています。
キリストを名乗る者が騒いでも、戦争や戦争のうわさを聞いても、「気をつけて、うろたえない」こと。
「そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」と言われるのです。
生々しく世の終わりを生起させる出来事が起こっているとしても、本当に世の終わりかどうかは、すべてが起こった後でなくては分かりません。
それが終末預言の本質です。
国が国に、民族が民族に敵対する世界大戦の勃発、大地震の頻発…。20世紀以降、確かに世界は、主イエスの言われる「産みの苦しみの時代」に入ったと言えます。
しかし、本当の世の終わりがいつ来るかは、誰にも分かりません。
天の御使いも子も知らないと、主イエスは、生前に言われました。
大患難時代の前に、すべての信者が天に上げられるという「携挙」を私は信じています。
理由の一つは、この説が最も聖書的な終末論だと理解しているからです。
世の終わりの裁きも再臨も、世界の回復も、すべて主が一方的になされることです。
そこに、人の力が働く余地は全くありません。それが、聖書の終末論の基本です。
ですから、神のことは神に任せて、私たちは、与えられた福音宣教の使命に全精力を注げばよいのです。
何があろうとなかろうと、携挙の瞬間まで、福音を伝え続ける、それだけです。
主イエスは、私の罪のために十字架にかけられ、死を打ち破って復活された。
福音を信じた者は、世の終わりの災いから逃れられ、永遠の救いを得ます。
人にはできない。神にはできる。ただ主を信頼しましょう。
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会
Comment
三浦先生、私はクリスチャンになって今年で30年となります。つい最近、ハーベストの中川先生のメッセージステーションに出会い、関連のサイトを探していたところ三浦先生の貴サイトに出会いました。信仰生活の大半を全国的な教団組織の教会で過ごしてきましたが、黙示録や旧約の終末預言について講解メッセージを聴くことはなかったと思います。レフトビハインドは、ことば社から和訳版が出るたびに全て読みましたが、当時、教会の友人間では終末の一解釈に過ぎず、エンターテインメントというような扱いであったと記憶しております。数年前に高原剛一郎氏のメッセージに出会い、ハーベストに出会い、故高木慶太師の著作に出会い、患難期前携挙説、千年王国前再臨説が自分には最も確信が持てる終末論となりました。終末についての確信が与えられたことで、救われて自分がどこへ行くのかが明確になり、三浦先生も証されたとおり、信仰がシンプルにされて迷いがなくなったことを実感しております。混沌とした時代の中で、自分の信仰も何か混沌としていたことがすっきりして聖書が楽しくなりました。謙遜に祈りつつ未信者の友人にもこの喜びを伝えたいと、30年前の信仰を持った頃の思いが、50歳を越えた今再び起こされて感謝です。今後も先生の論説も拝読させていただきますので、お身体にお気をつけください。お祈り申し上げます。
コメント、ありがとうございます。
そうですね。学びが深まるほどに、無駄なものがそぎ落とされて、すっきりしていく。
よろこびが湧いてくると、誰かに伝えずにはいられない思いにさせられますよね。
これが正しい聖書理解の道なんだと、わたしも身をもって教えられています。
主の恵みと平安が、ますます豊かにありますように。