私はホントに救われてる? 不安を確信に変えるために 聖化を歩もう
目次
1. 福音を信じて救われる救いの原則
聖書が記す、救いの原則は極めてシンプルです。
救いのよき知らせである「福音」を信じて救われるということ。
福音とは、三つの要素からなる一つの真理です。
すなわち、「①キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。②また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、③三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3~4)」です。
「信仰によって義と認められる(ローマ3:28)」 それが揺るがぬ大原則です。
どれだけ熱心に教会に通ったか、自分を犠牲にして奉仕したか、多額の献金を納めたか。
そのような行いは、救いとはまったく関係ありません。
福音を信じて救われる。神学的には、信仰による救いを「義認」と呼びます。
福音を信じるとは、神との新しい契約関係に入ることです。
神の約束は絶対ですから、この救いの契約が失われることはありません。
「誰も彼らを父の手から奪い去ることはできません(ヨハ10:29)」
「御子を信じる者はさばかれない(ヨハ3:18)」 とある通りです。
2. 私は本当に救われてる?
信仰を告白し、洗礼を受ける。喜びの時ですが、もれなく誰もが壁にぶつかります。
相変わらず犯す罪があり、変わらない自分の現実があるからです。
「私は、本当に信じたのか。救われたのか」という疑いが頭をもたげてきます。
救いは永遠の神の約束ですが、私の救いの確信は簡単に失われます。
福音を信じて救われた私は、新生し、聖霊が保証として内に住まわれている。
しかし、それは目には見えません。
私は本当に信じているか。疑い出せばきりがありません。
さらに厄介なことには、私が本当に信じてるかどうかなんて、外から見ても誰も分からないのです。
3. 実は信じていなかった? 見えない信仰のやっかいさ
「信じてます」と口で言ったから、本当に信じているとも分かりません。
ある人は、集会で海外からの宣教チームに取り囲まれ、熱心に祈られ始めて、これは、はいと言わないと帰れないと思って告白してしまったそうです。
よくよく聞けば、その人は、福音の内容も分かっていませんでした。
ある人は、クリスチャンホームで育ち、洗礼も受けていましたが、ずっと周囲と違和感を抱えていました。
冷めた自分がいて、他人の洗礼式に立ち会っても、なぜみんなが感動しているのか、さっぱり分からない。
牧師とのカウンセリングを重ねる内に分かったのは、その人は、福音を頭では理解していたけれど、主イエスへの個人的な信頼は皆無だということでした。
十字架の罪の贖いも復活も、全知全能の神だからそうなのでしょう、と、予定調和でしかなく、何の感動もなかったのです。
キリスト教的な文化は、自然と身に着けていたけれど、主への信頼は、その人の中でまったく育っていませんでした。
4. 救いの確信は現在進行形
高層ビルの火災で屋上に取り残されてしまった。その人は、ヘリから降ろされたはしごに、全体重を預けてはじめて救出されます。
体半分だけ救われました、なんてことはありません。
救いは、百かゼロかどちからです。半分信じた、なんてことはありません。
こんなことを言うと、私は100%の信仰なんて持っているのだろうか、と不安になる人もいますよね。
ではどうやったら、自分が信じたことを自分で確認できるのでしょうか?
そのための過程が、「聖化」です。
「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。Ⅱコリント3:18 」
信じた瞬間に救われ、将来の栄光が確約された。
この救いを身をもって味わっていく、主を信頼して成長していく過程が、「聖化」です。
クリスチャンとして犯した罪も、告白したならゆるされます(Ⅰヨハネ1:9)。
つまづきながらも悔い改めて、歩み続けていく。
聖化が進み、変えられていくただ中で、あぁ、私は救われているんだ、という確信が与えられ、深められていくのです。
救いの確信は、今、この瞬間、現在進行でしか確認できないものだと覚えましょう。
5. 主を知る喜びを、日々味わわされているなら大丈夫
本当に信じているかどうか分からない、と悩む人におすすめするのは、とにかく何か始めることです。
毎日聖書を読む、デボーションをする。祈る。信仰の兄弟姉妹と交わる。
そして、なにより大切なのは、聖書全体の体系的な学びを始め、深めて行くこと。これに尽きます。
実は信じていなかったという人々も、この過程に取り組もうとする中で、それが明らかにされています。
どうあがいても、祈りも学びもデボーションも、義務以上のものにはならなかったのです。
聖書の学びなくして、信仰の成長はありません。そして学んだことは日々に適用しなければ意味がありません。
聖化の過程で、突きつけられる罪があります。
向き合えば、必ず打ち砕かれるわけですが、それでも取っ組み合う中で、主が助けてくださり、少しずつ克服していく経験をさせられていきます。
自分に自分は救えない、だから福音を信じて救われました。
自分に自分は変えられない。主を信頼し続けることによって、私は変えられていくのです。
神の愛は完全ですが、私の愛は不完全です。
未熟な私の愛は、神との関係を深める中で育まれていきます。
聖化の過程のただ中で、主を知る喜びを味わわされているなら、大丈夫。
つまづいたなら、悔い改めて、再び主に立ち返ったらよいのです。
安心して、歩みを重ねていきましょう。
悩んでいる暇があったら始めること。
救いの確信は、神と私の個人的な関係性の中でしか深まりません。
どんなにすばらしい地域教会に集っていても、牧師が名説教を語っていても、私の信仰は、まったく別のことです。
日々主を知る喜びを、全身全霊で味わい尽くしていきましょう。