聖書に立つほど、自由になれる、その理由
目次
1. 異端・カルト王国・日本
統一協会(教会)のことが、世を騒がせています。
先日も、統一協会と一緒くたにされて、祖父に教会に行くなと言われた、なんて話を聞きました。
教会で配布されるチラシによくあるのが、「統一協会、モルモン教、エホバの証人とは関係ありません」という一言。
見る度に残念に思うのは、そちらの方が一般的には名前が知られているという事実です。
いずれも、キリスト理解が全く違い、独自の聖典、解釈に立つ異端であり、社会的問題も引き起こしているカルトとされています。
この三つを合わせた信徒数は、国内で約90万人にもなるそうです。
カトリック、プロテスタント、諸派を合わせて約100万人。プロテスタント最大会派の日本基督教団でも、信徒数は、三大異端の一つにも及びません。
社会的な影響力で言っても、与党の中枢にまで浸透していた統一協会とは、日本のキリスト教会は比較の対象にもなりません。
世界各地に進出している統一協会の大きな資金源は、日本だと言います。
日本はカルト王国だ、と言われます。キリスト教という世界から見ても、それは否定しようのない事実です。
2. 基本の教理を知っていたなら…
統一協会の被害者の報道を目にするたびに、キリスト教の基本的な教理さえ知っていれば、だまされずにすんだのにと度々思います。
統一協会は、発祥の地、韓国では、日本ほどの影響力は持っていません。
韓国が、世界有数のキリスト教国である理由は大きいでしょう。
聖書を学ぶほどに実感させれていることですが、聖書に記された基本的な信仰の原則に立てば立つほど、カルトから遠ざかると感じています。
3. 原則① イエスだけが救い主
➊史上唯一、イエスだけが、救い主・メシア(キリスト)です。
これだけで、自称メシアがいるカルト教団すべてを退けられます。
聖書に立てば、ただの人間にすぎない文鮮明がメシアなんてことは絶対ありません。
➋神との仲介者はイエス・キリストだけです。
誰もがただ、キリストを通して神とつながることができます。
ですから、この人やこの組織を通してでなければ、神とつながれない、真理を知ることはできないというのはすべてウソです。
エホバの証人が、彼らを支配する組織である「統治体」を通さない一切の聖書解釈を否定している姿勢そのものが、偽物の証明です。
➌キリスト教の聖典は、聖書だけです。
異端の特徴は、聖書以外に独自の聖典を持ち、聖書以上の権威を与えていることです。
創始者ジョセフ・スミスが書いた(発見した?!)モルモン経を聖書以上の権威とするモルモン教は、まったく話にもなりません。
文鮮明の教えを書いた、サイン入りの本が、3千万円なんて、気の遠くなるような悪いジョークです。
4. 原則② 心からでなければ意味がない
イエスは、形ばかりの宗教指導者を、偽善者と呼んで厳しく非難しました。
彼らは、神の要求以上に厳しく律法に従っているようで、心は裏腹。
聖書に、勝手な教えを山ほど付け加えて人々の心を縛り、多くの献金をさせて自分たちの懐を肥やしていました。
イエスの元を訪れた裕福な青年は、神を愛し、隣人を愛せよという律法を守ってきたと当然のように言いました。
しかし、彼は、「富を手放して、貧しい人々に与えなさい」というイエスの促しに応えられず、悲しんで立ち去って行きました。
信仰者を自負していた彼は、実際には、神よりお金が大事だったことが、明らかにされてしまったのです。
なぜ、徴税人や娼婦、罪人たちと食事をして交わるのか、と非難されたイエスは、私は病人を癒やすために来たのだと答えられています。
神が喜ばれるのは、胸を打ちたたいて、「私を憐れんでください」と叫ぶ、一人の罪人の誠実な姿です。
主イエスが讃えられたのは、全財産の小さなコインを投げ入れた、一人のやもめのささげものでした。
喜んでささげているか。主は心を見られます。
義務や強制でささげ、奉仕しても仕方ありません。ましてや、脅され、だまされてささげても、神の目には無意味です。
5. 原則③ 信仰は、自発的な神への応答
何より信仰は、自発的な応答でなければ意味がありません。
福音を信じれば救われますが、口で信じますと言っても、心が伴っていなければ、信じたことにはなりません。
あるカルト化した教会に通っていたAさん。そこの牧師いわく、福音を信じて救われたことになっていました。
しかし、本人によくよく話を聞くと、大勢に取り囲まれて、激しく祈られて、信じますと言わないと帰れないと思って、信じますと言ってしまった、ということでした。
確認したところ、Aさんは、十字架の罪のあがないも復活も理解されていませんでした。
マインドコントロールという手法は、義務や義理に縛られがちで、権威に勝手に忖度してしまう、人間の性質を巧みに利用したものです。
しかし、カルトの常套手段であるマインドコントロールは、聖書に照らせば、まったく意味がありません。
マインドコントロールの結果、信じますと言っても、信じたことにはならないのです。
福音を告げたなら、信じるかどうかは、本人に委ねるほかありません。
信じた後の奉仕や献金も同様です。心からのものでなければ無意味です。
6. 依存と支配を断ち切ろう
この世を生きてきた私たちは、無意識の内に、義務や義理、依存と支配の関係にどっぷり浸かっています。
空気を読み、自然に忖度してしまうのが人間です。
私たち人が、自発的であることは、実はとっても難しい。
カルトの手法の方が、身になじんだりするのです。
厄介なのは、身に染みこんだ支配と依存の関係が、当人も無自覚なまま、教会内に持ち込まれてしまうこと。
表面だけ繕う術が身に染みついていると、その人は誰に言われなくても、勝手に形ばかりの律法主義に陥ってしまうのです。
自発性を促すコーチングすら、依存的な人は、巧みに空気を読んで、忖度し、相手に受けるように答えてしまいます。
常にまわりの反応を気にしているその心は、まさに聖書が言う、奴隷のような状態です。
かといって、好き勝手に生きるだけなら、そこにもやはり自由はなく、欲望の奴隷になっています。
本当の自由を手にいれて、自由に生きる。なんと難しいことかと思います。
7. キリスト者の自由を味わい知ろう
クリスチャンが自由に生きるとはどういうことか、改めて考えさせられています。
自分自身を振り返ると、大きな組織を離れ、経済的な後ろ盾もなく、一つの教会もない、地方の小さな町で、新規の教会開拓をしてきました。
なんでこんなことをやっているのか。誰に命じられたわけでもありません。
ただ好きで喜んでやってきた。それだけだったと思います。
日記が、三日も続いたためしのない私が、何年も途切れなく、聖書の黙想(デボーション)を続けられているのは、聖霊の業としか言いようがありません。
プログラム通りに動くだけのロボットに、愛することはできません。
愛は、自発性のないところには、生まれません。
神が、人に、自由意志を与えられたのは、人が、自ら神に応え、愛を知り、愛するものとなるためです。
“主イエス・キリストが、私の罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、死を打ち破って復活された”
この福音を信じるときに与えられる、あらゆる束縛からの自由があります。
キリストを仲介者として、神と永遠につなげられた。神とあなたとの間に介入できる者はいません。
相変わらず、依存と支配、欲望と罪に、捕らわれたままの現実がありますが、ただ主に信頼して歩む時、あらゆる束縛からの自由が与えられていきます。
主の御心を求め、ひたすら聖書の、神の御言葉を求めて行くなら、
喜んで学ぶ人の内に、聖霊が働かれ、それぞれに使命の道が拓かれます。
自発的に、神に応えて、使命に生きるとき、さらなる喜びが、恵みと平安の内に与えられます。
それが、真理がもたらす自由の道なのだと、日々実感させられています。