3章 約束の民の始まり
3章 約束の民の始まり
目次
1. 再び増え広がる人類
ノアは、大洪水の後も350年生きた。この世代が考えられないほどの長寿だったのは、大洪水前の世界が、今では考えられないほど恵まれた環境にあったから。
しかし、荒れ果てた大洪水後の世界では、どんどん人の寿命は短くなっていった。
ある時、酔っ払って寝込んだノアの裸を、息子ハムと孫のカナンが見て辱めた。カナンは呪われ、子孫の一族は、はなはだしい罪に陥っていくこととなる。
セム、ハム、ヤフェテ。ノアの3人の息子たちから、人類は増え広がっていった。おもにセムの子孫は、中東、アジアへ。ハムの子孫は、アフリカに。ヤフェテの子孫はヨーロッパに広がった。
増え広がった人類には、罪も蔓延していった。
ハムの子孫から生まれたニムロデは、国を造り、最初の支配者となり力を誇った。バベルに、巨大な塔を建て、全人類を従えて、自らの名をあげた。
人が自らを神とすれば、待っているのは、破滅だけ。神は、一つだった言葉をばらばらにした。人間は、世界中に散らされていった。人間の王国は、争いと分断を産んだだけだった。
神を信じる者たちの系譜は、ノアの息子セムから継がれていった。何世代も経て誕生したのが、アブラムだった。
2. 約束の地へ
月の神をあがめるウルの街で暮らし、人生の晩年を迎えていたアブラムに、あるとき、神は命じられた。
「故郷を離れ、わたしが示す地へ行きなさい」
そうすれば、アブラムから偉大な国民が誕生し、アブラムは、すべての民族に祝福をもたらす者となる。神は、アブラムを祝福する者を祝福し、のろう者を呪う。これは、アブラムと、アブラムの子孫への神の約束だった。
アブラムは、妻のサライ、甥のロト、多くのしもべと家畜と共に旅立った。二千キロ以上の旅をして、約束の地にたどり着いたのは75歳の時だった。
その地には、ノアの裸を見て辱め、呪われたカナンの民が住んでいた。唯一の神を忘れ、偶像礼拝に染まったその土地に、アブラムは祭壇を築き、神を礼拝した。
3. 飢饉の後に
カナンの地に飢饉が起こった。アブラムは、食糧を求め、約束の地を離れて、南方の豊かな王国、エジプトに逃れた。
アブラムは、母親の違う妹であり、妻であるサライを、ただの妹だと偽っていた。野蛮な者に美しい妻を略奪され、自分が殺されるのを恐れていたのだ。荒れた時代だった。
エジプト王ファラオは、アブラムの美しい妻サライをみそめ、妻として召し入れた。アブラムは、花嫁料として膨大な家畜や奴隷を財産として得た。
神は、ファラオと宮廷にわざわいを下らせた。サライがアブラムの妻と知ったファラオは、サライをアブラムのもとに返した。アブラムは、多くの財を得たまま、エジプトから追い出された。
サライがファラオに嫁いでしまえば、アブラムから国民を生み出すとされた、神の約束は途絶えてしまう。神が、一方的に介入し、アブラムとサライを守られたのだった。
4. ロトとの別離・神の約束
エジプトで得た財産を巡るトラブルが原因で、アブラムと甥のロトは、それぞれ別の道を歩むことになった。ロトは、繁栄していたソドムに移り住んだ。
この時、神は、アブラムの子孫が土のちりのように増え広がると約束された。
まもなくして、北方の帝国がカナンの地に攻め込んできた。ロトが暮らすソドムも滅ぼされ、ロトは捕虜として連行された。
このことを聞いたアブラムは、しもべたちを引き連れて、何百キロも追跡した。そして、敵を打ち破り、ロトを他の捕虜たちと一緒に取り戻した。
帰還したアブラムを迎えたのが、サレムの街の王であり祭司であったメルキゼデクだった。唯一の神を崇めるメルキゼデクは、パンとぶどう酒を持ってきて、アブラムを祝福した。
このサレムの街は、後何百年も後、イスラエルの都エルサレムとなり、神殿が建てられることになる。
5. 契約の締結
戦いの後、神はアブラムに語りかけ、子孫が星の数のように、数え切れないほど増えると告げられた。そして、アブラムと正式に契約を結ばれた。
アブラムは、犠牲の動物を二つに裂いて並べた。契約を破れば、この動物のように裂かれてもよい、という命がけの契約だ。契約の当事者双方が、裂かれた動物の間を通るという、しきたりがあった。
しかし、この時、裂かれた動物の間を通られたのは、燃える炎のような不思議な神の光だけだった。この契約は、神が一方的に責任を負って結ばれた、恵みにもとづく契約だった。
同時に神は、アブラムの子孫がよその地に逃れ、400年間、奴隷として過ごすと言われた。しかし、その間に子孫は増えがり、多くの財産をもって、そこを出てくるとも予告された。
北はユーフラレテス川、南はナイルの支流にいたるまで、広大な土地が、アブラムとその子孫に与えられる。土地についても神は約束された。
6. イシュマエル
サライには、なかなか子が生まれなかった。そこでサライは、女奴隷ハガルをアブラムにあてがった。当時の習慣では、女奴隷に生ませた子も、女主人の子とみなされた。ハガルは、アブラムの跡継ぎとなる子をみごもった。
ハガルはしかし、女主人サライを見下すようになった。逆にサライに苦しめられて、ハガルはある時逃げ出した。荒野で困窮したハガルに、神が語りかけ、生まれてくる子をイシュマエルと名付けた。その子は栄え、多くの民族が誕生するとも告げられた。一方で、神と人に反逆する民となることも。
このイシュマエルの子孫が、今のアラブ人だ。
サライのもとに戻ったハガルは男の子を産んだ。この時、アブラムは86歳だった。
7. イサクの誕生
アブラムが99歳。サライが89歳の時、神は、「偉大な父」という意味のアブラムの名をアブラハムと改めさせた。「諸国民の父」と言う意味だ。妻も名を変えられ、「私の王女」サライは、「人々の王女」サラとなった。
神はアブラムの子孫を繁栄させ、いくつもの国民を生み出すこと。カナンの土地を与えることを約束された。そのしるしとして、割礼を命じられた。男性の局部の皮を切り取らせ、神の約束を身に刻む割礼の儀式は、アブラムの子孫にも代々守られていった。
神は、1年後、サラが子を産むと告げた。「100歳と90歳の夫婦に子どもが生まれるだろうか」とアブラハムは笑った。
思わず笑ったアブラハムに、神は、生まれてくる子に「イサク・笑い」と名付けるように命じられた。さらには、イサクの子孫から12の部族が誕生することも告げられた。
8. 神との交渉
あるとき、アブラハムのもとに三人の天使が現れた。天使と言っても、羽が生えている訳ではない。見かけは、普通の人間と変わらない。
しかし、信仰深いアブラハムには、三人がすぐに天使だと分かった。この時のアブラハムには、知るよしもなかったが、「主の御使い」と呼ばれるその一人の正体は、人となられる前の子なる神、メシアだった。
三人を丁重にもてなしたアブラハムに、サラが子を産むことが再び告げられた。
主なる神は、アブラハムに、ソドムとゴモラの街を滅ぼすと告げられた。
ソドムには甥のロトがいる。アブラハムは、主に願っていった。「あなたは、本当に、正しい者を悪い者と共に滅ぼすのですか。その街に正しい者がいるとしたらどうですか」
神は、「50人の正しい者がいたら滅ぼさない」と答えられた。
アブラハムは、なおも、「45人なら…、40人なら…、30人なら、どうですか」と必死に神に食い下がり続けた。重要な問題ほど、時間をかけて、信頼関係を築きながら交渉する。この地方の流儀が、アブラハムには身に染みついていた。
「10人の正しい者がいたら、滅ぼさない」 この神の答えを得たところで、アブラハムは問うのをやめた。これ以上の譲歩はないと悟ったからだ。10人なら、ロトとロトの家族で十分埋まる。あとは、彼らの信仰に期待するしかなかった。
9. ソドムの地で
ソドムの街に、二人の天使がやってきた。ソドムの長老となっていたロトは、行政機関である街の門で天使と出会った。
ロトは、天使たちにひれ伏し、自宅に招いて最高のもてなしをした。
そこに街の男たちが、若い者から年寄りまで押しかけてきた。「あの男たちを連れ出せ」と言う彼らは、ただ者ではない美しい客人がやってきたと知って、彼らを犯そうとしたのだ。人々が欲望のままに暴虐をふるう。それが日常になっていたのが、ソドムだった。
ロトは、二人の娘を渡すから、客人には手を出さないようにと頼み込んだ。体を張り、身内を犠牲にしてでも客人を守るのは、砂漠の民の矜恃だ。しかし、男たちは聞き入れなかった。
彼らはロトを犯そうとした。間一髪、天使たちが、ロトを中に引き入れた。
天使たちは、神が、この街を滅ぼそうとしていると告げた。婿たちは冗談だと取り合わなかった。夜明け前になった。ためらうロトと妻、二人の娘の手をとって、天使たちは街の外へ連れ出した。
「命がけで山へ逃げなさい、後ろを振り返ってはならない」しかし、ロトは、街の暮らしから離れたくなかった。目にとまった小さな街に逃れさせてくれと交渉して、天使の承諾を得た。
街にたどり着いたとき、神は硫黄と火を天からソドムとゴモラの上に降らせられた。街とその周辺一帯は、滅ぼし尽くされた。
逃げる途中、うしろを振り返ったロトの妻は、死んで、塩の柱になってしまった。
翌朝、アブラハムは、はるかな高台から、ソドムの街に黒い煙がもくもくと立ち上っているのを見た。
逃げ延びたロトは、結局、街に居続けることができず、山の洞穴で二人の娘と暮らした。
自分たちは、よそから婿を迎えることはない。そう思い知らされた二人の娘は、父を酔わせ、父と寝て、それぞれ子を産んだ。二人の子から、モアブ人、アンモン人と呼ばれる二つの民族が誕生することになる。
10. ユダの地で
アブラハムは、少し北のユダに移った。そこでもアブラハムは、妻サラのことを妹だと偽っていた。美しい妻のために、襲われて殺されるかもしれないという不安が、いまだに消えていなかったのだ。
その土地の王アビメレクは、サラを召し入れて妻とした。サラと関係を持つ前に、アビメレクの夢の中に神が現れ、アビメレクの死を予告した。夫のあるサラを妻にしたからだ。
アビメレクは、アブラハムが嘘をついた、自分は知らなかったと必死に神に訴えた。神は、サラを返すことを条件にアビメレクをゆるされた。
「なぜ嘘をついたのか」 強く抗議するアビメレクに、アブラハムは正直に答えた。故郷を出るその時からずっと、嘘をついていたのだと。
11. イサクの誕生 イシュマエルの追放
神の約束通り、サラは身ごもり、子を産んだ。主が告げた通り、イサクと名付けられた。アブラハムが100歳の時だった。
乳離れしたイサクを、年の離れた長男イシュマエルがいじめているとサラは知った。母親のハガルと共に長男を追い出すよう求められ、アブラハムは苦悩した。後押ししたのは神だった。
荒野に放り出され、イシュマエルは極度の脱水症状に陥った。愛する子の死ぬ姿を見たくない。離れて泣くハガルに、神が語りかけられた。イシュマエルの子孫は、大いなる民族となると。
ハガルが目を上げると井戸があった。イシュマエルは、たくましい猟師となり、エジプト人の妻をめとった。イシュマエルの子孫は、荒野の遊牧民となり、栄えていった。
一方のアブラハムは、井戸を掘り、土着の民と平和協定を結び、この地に根を下ろしていった。
12. イサク奉献
神は、アブラハムに言われた。「愛するひとり子イサクを、モリヤの山で献げなさい」イサクは、もう、立派に成人していた。
翌朝早く、アブラハムはイサクを連れて出た。3日目。目指す山に着くと、アブラハムは、イサクに薪を背負わせて登った。イサクが父にたずねた。「献げ物の羊はどこにいるのですか」「神が備えてくださる」アブラハムは、それだけ答えた。
主が告げられた場所に着いた。アブラハムは、祭壇を築き、薪を並べ、イサクを縛って寝かせた。イサクは黙って、老いた父に従った。
アブラハムが、イサクに向かって刃物をふりあげたその時、主が命じられた。
「アブラハム、アブラハム、その子に手をくだしてはならない」
神は、ひとり子さえ惜しまなかった、アブラハムの信仰を認められた。
アブラハムが目を上げると、一匹の雄羊が角を藪にひっかけていた。アブラハムはこの雄羊を息子の代わりに、神にささげた。
13. サラの死
妻がサラが死んだ。127歳だった。嘆き悲しんだアブラハムには、妻を葬る墓もなかった。
アブラハムは、地元のヒッタイト人と、土地を売ってくれるよう交渉した。「ただでお譲りします」と長老は言ったが、もちろんこれは社交辞令だ。アブラハムに促されて次に長老が提示したのは、町が一つ、丸々買えるほどの額だった。
ここから中東流の交渉を延々と重ねていけば、一体何日かかることか。重要な取引ほど、時間をかけるのがこの地方の流儀だが、一刻も早く、妻を葬ってやりたい。アブラハムは最初の言い値で即決した。
サラを葬った墓が、アブラハムが始めて手に入れた土地となった。しかし、アブラハムは思った。いつか、この見渡す限りの土地が与えられる時は必ず来る。
イサクが死ぬことがなかったように、神の約束は必ずなる。強い確信が、アブラハムの心に刻まれていた。
14. イサクの結婚
アブラハムの心残りは、大切なひとり子イサクが未婚だったことだ。地元のカナンの娘をめとることは、絶対にしたくなかった。神の御心ではないと分かっていたからだ。
アブラハムは、信頼するしもべを兄弟がいるハランのナホルの町へ遣わした。
長旅の末に、ナホルの町外れの井戸に到着したしもべは神に祈った。ここに来て、私とラクダに水を飲ませてくれる娘こそ、主人の息子イサクの嫁にふさわしい方です、と。
すると、間を置かずに、その通りのことが起こった。アブラハムの兄弟ナホルの孫娘になる美しい娘リベカがやってきて、しもべと十頭のラクダすべてに水を飲ませてくれたのだ。
しもべの祈りは、神が願われたことそのままだった。リベカの父ラバンに会い、ことの次第を告げた。驚き喜んだラバンだが、すぐに娘を手放すことには抵抗があった。
しもべは、すぐにでもリベカを連れ帰ることを望み、リベカも同意した。
一方のイサクが、放牧の仕事を終えて帰り、夕べの祈りをささげていると、近づいてくるラクダを見た。イサクとラクダに乗ったリベカの目が合った。リベカはベールで身を覆い、イサクの妻となった。
アブラハムは死んだ。175歳だった。全財産は、イサクに継がれた。神の約束と共に。