ユートピアは、ディストピア? 陰謀論か人の事実か
1. 事実は妄想よりも奇なり? 陰謀論と真実と
私がかつて卒業した某神学校では、学生同士が、「何色のヘルメットを被ってた?」と聞き合っている、なんて冗談がありました。
つまり、学生時代、学生運動のどのセクトに属していたかということです。それだけ、左派の色の濃い神学校だと言われていたわけです。
ずいぶん面白おかしく脚色された話で、実際のところは、政治的なスタンスとは距離を置こうとする人の方が多かったと思います。
一方で、今も現役の運動家なんて人も確かにいました。
ある時、寮に、そのお仲間の二人が訪ねてきました。
クリスチャンでもなく、デモに参加した帰りに、知人のところに立ち寄ったということでした。
寮の団らん室に入ってきた、彼らの第一声は、「学生はお気楽でいいな、俺たちは闘っているのに」。
カチンときましたが、立ち去るのもしゃくだと感じ、その場に残っていました。
その内、彼らの話題は、北朝鮮の拉致疑惑のことになりました。
「北朝鮮から船でのこのこやってきて子どもをさらっていったなんて、あんな馬鹿な話はありえない」と得々と語る彼らに、言われてみれば確かにそうだと納得させられたことが、記憶に残っています。
拉致が事実だったという電撃的なニュースを目の当たりしたのは、あれから約10年後のことでした。
それこそ、妄想か陰謀論のように言われていたことが事実だった。あの出来事は、本当に大きな衝撃でした。
いわゆる「陰謀論」と呼ばれていた様々な言説が、表に出て、一定の社会権を得るようになっていったのは、あの出来事以降のことではないでしょうか。
この十年来、左派の人々の間で、しきりに「日本の右傾化」ということが言われますが、極めて責任逃れの表現だと強く思います。
正しくは、「左派の劣化」の結果としての「右傾化」と表現すべきでしょう。
勝手に右傾化という現象が起こったわけではありません。
自らの欺瞞によって左派が自滅し、結果として右派の影響が強くなったということに過ぎません。
北朝鮮による拉致が明らかにされたわけですが、頭から否定していた左派の人々が、悔い改めて犠牲者家族に謝罪したなんて話を聞いたことがありません。
左派の真摯な対応の欠如が、街頭でヘイトスピーチを繰り広げるようなカルト的集団の発生をゆるす結果につながってしまったのではないかと、私は思えてなりません。
左派の知識人の劣化は、右派の傲慢と劣化をまねき、さらなる左派の劣化を生んでいる。
右、左とブレながら、負のスパイラルに、どんどん陥っている。それが、この世界の現実ではないかと考えています。
右派ポピュリズムの次に台頭してくるのは、左派ポピュリズムでしょう。
左派ポピュリズムが世界を飲み尽くしたその先に控えている究極的な存在が、反キリストなのだろうと推察します。
2. ディストピアとユートピア
ネット上で最近良く目にするのが、「ディストピア」という言葉です。
理想郷を示すユートピアと、反対の意味の言葉が、「ディストピア」です。
一見、理想社会のように見えながら、実は、細部まで支配された悲惨な世界だった…。ディストピアは、SFの題材でもよく描かれるものです。
かつて、朝鮮民主主義人民共和国こそ、地上のユートピアだと喧伝された時がありました。
それを信じて大勢の人々が北朝鮮に渡っています。
しかし、今、北朝鮮がユートピアだなどと言う人はいません。
北朝鮮は、世界最悪のディストピアの一つであるという現実は、誰にも動かせないものになっています。
北朝鮮はユートピアだと吹聴していた人々は、どうしているのでしょうか。
多くの人々を破滅に追いやったその責任を、どうとると言うのでしょうか。
厳しく問われていると思います。
3. ユートピアは、ディストピア
聖地奪還を掲げた十字軍が招いたのは虐殺と混沌でした。
フランス革命の結末は、独裁と虐殺であり、千年王国を唱えたナチス・ドイツは、障害者、重病人、同性愛者、ユダヤ人の大虐殺を引き起こしました。
大日本帝国の大東亜共栄圏もまた、悲惨な結果に終わりました。
共産主義に至っては、史上最悪の言論弾圧、大虐殺を各地で生み出し、その凄惨な被害は今なお継続中です。
人類が掲げたユートピアの理想は、ことごとくディストピアに陥っています。
それが人類の現実なのだと教えられます。
「私は世界を変えられる」と、弁舌巧みに崇高な理想を説く者が現れるなら、その者こそ、最も警戒すべき相手であると歴史は教えてくれます。
テクノロジーが、AIが、ネットが、宇宙開発が、理想的な社会を築くと、夢のようなビジョンを描く人々に、決して心をゆるしてはならないのです。
ユートピアとディストピアは、コインの両面です。
まばゆく輝くコインをひっくり返したら、どす黒く腐食した、もう一つの一面が露わにされるのです。
4. ただ一つの真実のユートピア
世界の抱える表と裏。それは、私たち人間の抱える光と闇そのものです。
聖書が突きつけるのは、人はすべて罪人であり、罪人だから罪を犯すということです。
誰もが、自分で自分をコントロールできない欠けを何かしら抱えています。
私は、罪人などではない。私には、さしたる問題も欠陥もないと思い込むなら、その傲慢それ自体が、罪深さの証明です。
コントロール不可能な己の欲望を、権利と言い換え主張するなら、社会は、力を握った者が思いのままに暴虐をふるう深い闇に、ますます陥っていくことでしょう。
人間は、人間自身の力でユートピアを建設することは決してできない。
しかし、このどうしようもない罪の現実を認めたとき、救いの道は開かれます。
聖書ほど生々しく、人の罪の現実を突きつける書物は他にありません。
希望はどこにあるのか。聖書が記す唯一の光は、救い主・キリストなる主イエス、その方だけです。
どうしようもない罪人の私のために、主ご自身が人となり、十字架にかけられ、その罪を贖ってくださった。
死んで葬られ、辱めの極みを受けられた主イエスは、死を打ち破り、復活されました。天に昇り、今も生きておられます。
このよき知らせ・福音を信じたすべての者を、ただ信仰と恵みにより、神の怒りから救ってくださることのできる方、それが主イエスなのです。
主イエスは、この時代の終わりに再臨され、王の王として、神ご自身の権威によって世を裁き、世界を完全な楽園へと回復されます。
真実のユートピアは、ただ、神である主イエスによってのみもたらされる。それが、聖書が記す真理です。
神にのみ希望を置く真実のクリスチャンは、人に期待しません。
真実のクリスチャンは、世の誰よりもリアリストであり、人の罪を軽んじません。
人の甘言にのることなく、ただ主だけを信頼します。
混沌の世にあって、日々御言葉を味わい、なお平安の内に主を証ししていくこと。
それが今、何よりクリスチャンである私たちに求められていることなのだと教えられています。