Q:コロナは○○への罰なんでしょう? 神様守ってくれますよね?
1. コロナは、○○への罰?
「コロナ禍は、人の罪、何より同性婚への神罰だ」と発言したウクライナの総司教が、陽性になったという記事を見ました。昨年9月のことです。
短い記事で、どこまで事実に正確なのか確認しがたいのですが、いろいろ考えさせられるものでした。
目の前の現実を直視すれば、新型コロナウイルスは、信仰のあるなしも、民族も、主義主張も、性的傾向も全く関係なく、誰もが感染しうるものです。
日本の状況で言うと、事実から推察されているのは、これまで感染者が少なかったので、死亡者も少なかった。という、極めて単純なことです。
「○○が起こったのは、△△への罰だ」という発言は、ことある度になされます。
クリスチャンだけでなく、様々な宗教の人が、時に、無神論者までもが同様のことを口にします。
この種の発言の背後にあるのは、人間の奢りと、何より不安だと思います。
この恐ろしい事態から、自分は無関係でいたいと考えて、天罰だと言うのです。
自分の利己的な満足のために神の名を持ち出すならば、それこそ大きな罪です。
ヨブ記は、義人ヨブの苦しみと葛藤を描いています。
家族と財産を失い、病に冒されたヨブを、友人達はお前の罪のせいだと責めました。彼ら自身のエゴからです。
一方のヨブが最後まで手放さなかったのは、すべてのことは神の御手の内にあるということでした。
だからこそ、ヨブは最後まで、あくまでも神に向かって訴え続けたのです。
神は、ヨブの信仰を認められ、友人達の不信仰を厳しく咎められています。
苦難の理由は、人が勝手に決めて良いことではありません。神との対話の中で、当人が受け取るべきことです。
コロナ禍の理由を考えるというならば、まずは自分自身に引きつけて、主に聞くことが求められます。堅く立つべきは、聖書の真理の御言葉です。
2. コロナも信仰があれば大丈夫?
ある熱心なクリスチャンの高齢の女性がいて、目が悪いために、歩きにくい歩道を避けて、いつも車道を歩いていました。
危険だからやめて欲しいと周りから散々言われても、神様が守ってくださるから大丈夫と頑として聞きませんでした。
その女性は、最後、車にはねられて亡くなりました。
彼女は、残念なことに、信仰をはき違えていたと思います。
信仰があればコロナも大丈夫と、軽く考える人がクリスチャンにもいます。
信仰があれば病気にかからないなどと、聖書は教えているでしょうか。
義人ヨブは病に苦しみ、パウロには、終世、悩まされ続けた持病がありました。パウロは、手紙で、同労者テモテの健康を案じてもいます。
「病人に手を置けば癒やされます。(マルコ16:18)」という御言葉を、文脈を無視して引用し、強調する人がいます。
これは、福音を伝える使徒達の正統性を保証するしるしとして、癒やしの奇跡が起こることを主イエスが告げているのです。
いつでもどこでも、クリスチャンが祈って手を置けば癒やされるなどということではありません。
信仰があろうとなかろうと、新型コロナに感染する時は感染します。
亡くなる時は亡くなるのです。軽症ですんでも後遺症が残る人もいるでしょう。
重症化し亡くなる率は、年齢が上がるほど高い。それが目の前の事実です。
3. この状況は、サタンのせい?
自分に都合の悪いことが起これば、何でもサタンのせいにする人がいます。それは聖書的に正しいことでしょうか。
ヨブ記では、ヨブを試すことを提案したのはサタンですが、それを許されたのは全知全能の神ご自身です。
ヨブの神への訴えが始まる3章以降、サタンは一切登場しません。サタンの名前すら記されていません。
あらゆることは、神のゆるしの範囲で起こっています。直接的に言えば、すべて神がされているということです。
世の終わりの裁き・大患難時代に、陰府(よみ)の扉が開かれ、悪霊どもが地上に放たれますが、それも主の御業です。
コロナ禍を引き起こされたのは、神ご自身です。主の前にへりくだり、この事実をはっきり認めることが、私たちに第一に求められていることです。
その上で、自分にできる最善をなしていくよう、促されています。
感染拡大防止のために、様々な手段を講じていく必要があります。最大限できることを行うのは、至極当然です。
サタンのせいにするということは、神の御業を、サタンの手柄にしてしまうことです。神がなされたことを、誰か人のせいにするのも同様です。
どちらも、神の権威を貶める重い罪だと言えます。
4. 神を認めてのみ得られる平安
ダウン症の障害を持って生まれてきた我が家の和実。そのすべてが神の御業です。疑ったことはありません。
だから、和実の存在は、我が家にとって、祝福でしかありません。
すべてが神の業であると認めるなら、すべてのことが神の祝福になります。神は、最善のことしかなされません。
「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。ロマ11:36」
この御言葉は、完全に真実です。
遭難、災害、迫害、病気…、生涯あらゆる苦しみを味わい尽くしたパウロが、このような重い宣言をしているのです。
コロナ禍もまた、神の御業であり、神は変わらず最善をなしておられる。そう捉えるなら、私たちは、神の祝福を受け取っていくことができます。
多くの教会がライブ配信などネットの活動を行うことで、着実に福音が広がっています。
困難の中で、人々に餓え乾きが起こされています。
会堂に集えない状況は、一人一人に、神との個人的関係を築くよう、強く促しています。
家族など身近な人との関係を大切にするよう求められています。
関係回復のために家族に歩み寄り、奮い立って人々に福音を告げ知らせようとする人々には、さらなる祝福があります。
地上における最たる祝福とは、どんな困難や混沌の闇の中でも失われない主の平安に他なりません。
すべてのことを、ただ主に信頼していきましょう。