①イスラエルの近現代史 黎明期・移民の始まり
1. 19世紀までのパレスチナ
起源70年のエルサレム陥落以降、パレスチナに独立した国はありませんでした。支配者が移り変わる中、この地に住み続けたユダヤ人もわずかながらいました。
7世紀以降は、十字軍の時代を除けば、ムスリムの治める土地であり、16世紀からは、オスマントルコが支配していました。
19世紀半ばに、この地にいたユダヤ人は、1万人ほどに過ぎませんでした。
パレスチナか? イスラエルか? 土地の名称をめぐって
パレスチナの名称は、「ペシリテ人の地」という意味です。ローマ軍が、2世紀のユダヤ人によるバル・コクバの乱を鎮圧し、ユダヤ州をシリア・パレスチナ州に改名して以来、用いられてきました。
一方、この地にユダヤ人共同体が途絶えることもなく、ユダヤ人は、この地を「エレツ・イスラエル」と呼び続けてきました。
この連載では、パレスチナ、イスラエルの両方を使っていきますが、基本的に同じ土地を現すものとご理解下さい。
2. パレスチナ移民の始まり ~世界的な移民の時代に~
19世紀後半から、パレスチナへのユダヤ人移民が増え始めます。
世界的に移民が盛んだった時代でした。この頃、日本では、ハワイ移民などが行われています。
パレスチナへの当初のユダヤ人移民の多くは、東欧からでした。
やがて、ポログムというユダヤ人襲撃が激しさを増したロシアからは、20世紀初頭までに2万5千人がやってきました。
この時期の移民を第一次アリヤと呼びます。「アリヤ」とは、「上る」という意味です。
移民たちが最初に手にした土地は、トルコの不在地主から高額で買い取ったもので、非常に条件の悪い湿地帯などでした。
オスマン・トルコは、木の本数をもとに土地の税額を定めていたため、地主は、多くの木を抜き、土地を荒廃させることとなったと聞きます。
マリラヤによる死者も数多く出た、劣悪な住環境の中で、地道に、しかし、着実に、開拓が進められていきました。
エルサレムについて言えば、19世紀半ばにはユダヤ人が多数を占めていた記録があります。19世紀末には、2万5千人に達しました。アラブ人口は1万4千人でした。
3. ヘブライ語の回復
19世紀末、驚くべき偉業が開始されます。
1889年、エリエゼル・ベン・イェフダと、その同志たちによって、ヘブライ語を日常語として広めるグループが立ち上げられたのです。
ヘブライ語は、2千年間、祈りの言葉でしかありませんでした。古代語の回復という、歴史上、前例のないチャレンジでした。
3. 政治的シオニズムの始まり ~民族独立の時代に~
1891年、フランスのユダヤ人将校ドレフュスが反逆罪になり、後に冤罪とされた事件が起きました。ヨーロッパに根強く残る反ユダヤ主義に、多くのユダヤ人が疑問を持ち始めるきっかけとなりました。
時は折しも、世界中で民族独立の意識が高まっていた時代でした。民族自決を求める様々な組織が生まれ、民族主義が多くの国で勢いを増していました。
ユダヤ人国家を創る構想を、本気で信じ、広め始めたのが、ハンガリー生まれのユダヤ人、テオドール・ヘルツルでした。
彼は、1896年に世界シオニスト機構を立ち上げます。彼の記した「ユダヤ人国家」では、「パレスチナは我々の忘れられぬ歴史的故国」であると宣言され、多くのユダヤ人に大きな影響を及ぼしました。翌年スイスで開催された第一回シオニスト会議には、24カ国から200名のユダヤ人が集いました。
当初、多くのユダヤ人は、ヘルツルの主張に反対の立場でした。正統派ユダヤ教徒は、メシアによらない人為的帰還を拒みましたし、現地の移民の多くには、ユダヤ人国家など、現実離れした夢物語としか捕らえられなかったのです。
44歳という若さで、志半ばで死去したヘルツルでしたが、シオニスト会議は、時に激しい対立や分裂を経験しながらも、この後も重ねられていきました。会議を構成するユダヤ人たちは、イスラエルでの共同体建設に、大きな役割を果たしていくことになります。
(写真:エルサレム周辺の山岳地帯。かつての荒れ山は、入植者たちの地道な植林によって回復されてきた。)
※参考資料:「イスラエル全史」 マーティン・ギルバート 朝日新聞出版
「ケース・フォー・イスラエル」 アラン・ダーショウィッツ ミルトス
「ユダヤ入門 その虚像と実像」 中川健一 いのちのことば社