Q:罪の告白をしろと言われて苦しくて…
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Q:教会のとある講座(癒やしのセミナー)の中で、トラウマについて学んでいます。グループの中で、罪の告白を度々促されるのですが、それが苦しくてたまらないのです…。
1.罪の告白は神に対してするものです!
根源的な罪とは、神への背きであり、神との断絶が、死です。
神に逆らって生きてきたと認め、わたしのために神の独り子イエス・キリストが十字架にかけられ、死んで葬られ、復活されたと信じること。それによって、私たちは、神の怒りから救われます。
信じて歩み始めてもなお、私たちは、神から離れ、罪を犯すことがあります。そのときには、神に対して罪を告白するなら、必ず赦されます。
過去に犯した罪について思い出したり、あれは罪だったと気づいたなら、そのことも神の前に告白しましょう。
過去、現在、未来、すべての罪が、主イエスの十字架によって贖(あがな)われ、赦されています。
その確認が、罪の告白だといえるでしょう。
罪の告白とは、その都度、ゆるしの許可を求める、ということではありません。
自分は確かに罪赦されたのだという事実を確認して、心に刻んでいくことです。
もう、わたしは、神の前に罪人ではないのだから、罪人のような生活はやめよう。それが、信じた者に求められる心構えです。
2.実害を与えたなら、相手への謝罪は必要ですが…!!
もし、誰かに対して、実害を与えていたのなら、謝罪は必要です。このことに対しては、わたしが悪かったです。と、相手に伝えることは大切です。
それは、あたりまえのことですね。
しかし、自分がどれほど悪いことをしたかなんて話を、あれこれ人に告白する必要はありません。あなたの内面のことなら、なおさらです。すべてをご存じの神様に告白してください。
だれでも、自分でコントロールできない、どうしようもない部分を抱えています。
罪とは、欠損とも言えます。自分でどうしようもないところは、神に委ねるしかありません。
わたしにはできません。しかし、神様あなたが助けてくださるならできます、と神を信頼すること。それが信仰です。
3.罪を見つめず、神を見上げましょう!!!
聖書の言う「悔い改め」は、神に向き直ることです。
神に背いていた状態から、神の方に向き直る。方向転換である悔い改めは、瞬時のことです。
神が求められているのは、悔い改めであり、後悔し続けることではありません。
なぜ、自分は罪を犯したのかと、その場にとどまって自分を責め続けることなど、主は望んでおられません。
私たちは、罪人だから罪を犯します。気づいたら、悔い改めて神に立ち返ったらいい。それだけのことなのです。
ダビデ王は、姦淫と殺人の大罪を犯しましたが、悔い改めて主に立ち返り、罪を赦されました。
こんな罪が赦されていいはずがない、と、まじめな人ほど思いがちですが、公正な義の神は、しっかりと刈り取りもさせられます。そこも委ねましょう。
罪は神に対して犯すことであり、罪の告白は、主に対してなすべきことです。あなたの内面の罪を探り出して、誰かに罪を告白するようなことを求める聖句は、一つもありません。
聖書の命令は、シンプルです。神を見上げ、神を信頼して歩むということ。
犯した罪に気づかされたなら、神に罪を告白して立ち返る。自ら蒔いた種の刈り取りを与えられたなら、粛々と受け取る。それだけのことです。
罪人の私たちの内面に、罪がいっぱいなのは、わかりきったことです。罪を見るのではなく、ただ主を見上げましょう。
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