本音も建前もなく!! 律法は、隠れた罪を可視化する!!
1. 本音と建て前
とあるファーストフード店が、健康志向のメニューに変更したところ、売上は低迷。
方向転換して、カロリー無視の特大メニューを投入したら、大ヒットして売上も回復したそうです。
アンケートには、健康を意識するという欄に丸をつけても、本音では、健康サラダではなく、肉厚のハンバーガーを頬張りたい。
マーケティングでは、顧客の建前に惑わされず、本音をつかむことが重要だというのが、その記事の結論でした。
匿名のアンケートにすら、本音を隠して建前で書いてしまう。
本音と建て前の間のギャップの大きさ。日本の文化の特徴としてよく挙げられることです。
建前では、感染防止に気をつかっていても、夜の町通いは止められない。
コロナ渦もまた、日本の社会が抱える本音と建て前を浮き上がらせています。
2. 日本的?! 本音と建て前クリスチャン
本音と建て前で信仰生活を送るなら、とても苦しいことになってしまいます。
日曜日の礼拝では、にこやかに穏やかに振る舞っていても、家に帰ると夫婦で大げんか。
口を開けば、いかにも信仰深い発言が出てくるけれど、平日はろくに聖書も開きはしない…。
作り笑顔はできても、そこに喜びは生まれません。
喜びは心の奥から湧き出るもの。ごまかしようがないのです。
本音と建て前のギャップが大きくなるほどに、信仰生活は空疎なものになっていきます。
コロナ渦で、会堂に集えないという状況は、一人一人の信仰の現状を露わにしています。
御言葉を求める心がある人が、学びを深めていく中で、信仰が停滞していく一方の人がいます。
3. 隠れた罪を可視化する律法
日本人に限らず、裏表は誰もが抱えることです。聖書によれば、すべての人は罪人です。
自分では、自分の罪を実感するのは難しい。それが罪というものです。
だからこそ主は、イスラエルに律法を与えられました。
律法の大きな役割の一つは、人に罪を教えることです。
律法には、隠れていた罪を目に見える形に浮き上がらせる働きがあるのです。
たとえば、食物規定は、食べてよいきよい動物と、けがれた動物を区別しています。
これは、罪を教える視覚教材です。
地も海も、人の罪によってけがれています。罪の結果が死であり、死体はけがれそのものです。
ですから、ひずめやうろこがなく、けがれに直に触れている動物、屍肉を食べる動物はけがれているということです。
反芻することも条件の一つですが、反芻に、きよめの課程が重ね合わされているのだと思われます。
律法のけがれの概念は、儀式的けがれです。
言ってみれば、礼拝の儀式における、けがれときよめの取扱いそのものが、罪の本質を、イスラエルに体験的に教えているということです。
イエス・キリストの十字架による罪のあがないが成し遂げられて後、食物規定は、律法と共に役目を終えています。
キリスト十字架そのものが、なにより、けがれときよめ、罪と罪からのあがないを教えるものとなりました。
罪を教える、資格教材としての律法の役目も終わったということです。
この世界が、人の罪によっていかにけがれているか。
食物規定は、イスラエルに、その事実を突きつけるものでした。
「~してはならない」という多くの禁止命令も同様です。
律法を与えられたイスラエルは、身をもって、自らの罪を自覚されられていきました。
しかし、どんなに素晴らしい律法を与えられ、罪を自覚させられても、イスラエルは、それを守り通すことはできませんでした。
厳しい裁きを受けて悔い改めても、舌の根も乾かない内に、次の罪を犯してしまう。
それが人間の現実なのです。
4. イスラエルの建前 口伝律法
イスラエルは、重ねた罪のため、荒野の40年の放浪を経て、ようやく約束の地に入ることをゆるされました。
しかし、イスラエルは、その後も罪を重ねていきます。
ついには、バビロン捕囚により、エルサレムの都を破壊され、以来ずっと、異邦人に蹂躙される時代が続きました。
主イエスが現れた時代、律法学者やパリサイ人は、自分たちほど厳格に律法を守っている者はいないと自負していました。
律法を厳しく解釈し適用した、“口伝律法”が、彼らの自負の根拠でした。
例えば、安息日に労働するなという律法に対して、治療行為すら禁止したのです。
神の律法に、様々な人の教えが、“口伝律法”として加えられ、人々の生活をがんじがらめにしていました。
しかし、主イエスは、口伝律法を完全に否定し、彼らの偽善を暴きました。
律法の精神の根幹には、神への愛、隣人愛、弱者への配慮があります。
しかし、細部にこだわればこだわるほど、パリサイ人らの口伝律法は、神の教えの本質から離れてしまっていたのです。
イスラエルが律法を守るなら、祝福が約束されていました。
たとえば、律法には、7年毎の負債の免除が規定されています。
弱者保護の規定が実行されていれば、イスラエルに貧しい者はいないはずです。
しかし、現実には、貧困に苦しむ多くの同胞がいて、神の約束の地は、ローマに支配されていました。
目の前の事実が、イスラエルの民の神への背きを明らかに示していました。
5.実を結んでいるのかどうか 問われる本質
イエスは、パリサイ人らの偽善を、実で見分けるよう命じられました。
偽善者は、口ではいくらでもよいことを言い、信仰者をよそおうからです。
私たちも実をもって、自らの信仰を吟味することを求められています。
家族や身近な人々との関係性はどうか。
自分自身の成長を、周囲の人々は認めてくれているのか。
福音という御言葉の種を蒔いているのか。
どれも、神の前にはごまかしようがありません。
具体的に証しすることがあるかどうかも、大事なチェックポイントです。
私たちは、主イエスを世に証しする証人として立てられているからです。
あなたには、最近の出来事として、具体的に証しできることがあるでしょうか。
証しが、いつまでも救いの証しにとどまってはいないでしょうか。
律法が指し示すのは、メシアに他なりませんでした。
メシアとして来られたナザレのイエスだけが、律法を完全に守り通されたのです。
主イエスの十字架と復活の御業は成し遂げられ、律法の役目は終わりました。
私たちが今の教会時代に従うべきは、使徒たちが書簡に記した「キリストの愛の律法」です。
使徒パウロすら嘆いているように、やはり、私たち自身に、良いことをやり遂げる力はありません。
しかし、律法の時代との最大の違いは、信じたすべての者の内に聖霊が宿っておられることです。
御言葉によって、自分自身の罪を自覚させられたなら、それを、聖霊に委ね、明け渡していきましょう。
聖書を学ぶ、罪を自覚する、御霊に明け渡す。
悔い改めの繰り返しの中で、私たちは、少しずつ、でも着実に、成長させられていくのです。