同性愛者の救いを妨げる、クリスチャンの、罪に関する二つの間違った態度

      2018/10/26

教会を訪れる同性愛者の人々

キリスト教会を訪れたことがある、という経験をお持ちの同性愛者の方は、少なくないように感じています。

動機は様々あるでしょうが、わたしが聞いたのは、こういうことでした。

「キリスト教は、同性愛を罪と言っていると聞いて、本当にそうなのか確かめたかった」「自分を変えられるものなら変えたかった」…。

その方々は、勇気を振り絞り、よほど追い詰められた思いで、教会の門をくぐられたのだと思います。

その瞬間、救いは、彼、彼女が、手を伸ばせば届くところにあったでしょう。
間違いなく、主が、彼を、彼女を、招いておられたのだと確信します。

しかし、本当に残念なことに、主が招かれた、彼ら、彼女らを、クリスチャンが拒んでしまうことが、往々にしてあります。

クリスチャンの、罪に対する間違った理解が、大きく二つの、同性愛者に対する間違った態度を生んでいます。

まちがいその1.同性愛者に憎悪を向けること

在日コリアンの人々に対するヘイトスピーチが、大きな問題となっています。人としての存在の根本を否定するような、憎悪に満ちた発言は、耳を疑うものです。

大変残念なことに、クリスチャンの中には、同性愛者に対して憎悪を向ける人がいます。

おもにキリスト教国において、暴力を伴い、時には命すら奪う、同性愛者に対するヘイトクライムが存在することは、否定しようのない事実です。

勇気を振り絞って教会に来たものの、同性愛者に対する憎悪や侮蔑の言葉を聞いて、深く傷ついたという同性愛者の方は少なくないでしょう。

主に招かれ、救いを求めてきた人を、つまずかせてしまう。そのクリスチャンの責任は重大です。

マル 9:42  また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。(新改訳2017)

これは、人が付け加えた「口伝律法」によって、人々を縛り付けていた偽教師、パリサイ人に向けてイエスが語られた、厳しい警告です。
他者に対して、おまえは大罪人だと言って、侮蔑する、憎悪する。聖書は、そんなことを認めていません。むしろ、嫌悪し、厳しく戒めています。

 

クリスチャンの同性愛者への憎悪の背後には、人の罪に対する、大きな誤解があります。
聖書が記す大原則は、すべての人は罪人だということです。

ロマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、(新改訳2017)

どれほどの罪人かというと、神の怒りを受けて、永遠に滅ぶべき罪人だということです。

ですから、ある人が、どんなに重大に思える罪を犯していたからといって、自分の方がましだ、なんてことは言えないのです。

むしろ、それは、傲慢という大きな罪を、その人自身が犯していることになります。

 

救いは、すべて神の一方的な恵みです。

“滅ぶべき罪人だったわたしを、神は、一方的に憐れみ、愛する御子を犠牲に救ってくださった。”

それが、「くすしき恵み(おどろくべき恵み)」と、アメイジング・グレイスにも歌われていることです。

クリスチャンの成長とは、自分の罪深さを思い知らされていく課程です。

“あれほど罪深かった、わたしをも主は救ってくださったのだから、ましてや、主は、この人を救ってくださらないはずがない。“

それが、クリスチャンの伝道の大きな動機、力となることです。

同性愛者に、憎悪や侮蔑を向けるクリスチャンは、罪という重大な問題を理解していないということが言えるでしょう。

その人は、クリスチャンとしてあまりに幼いか、ひょっとすると、本当は信じていない、つまり、救われていない、形ばかりのクリスチャンなのかもしれません。

ルカ18:11  パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

(新改訳2017)

 

まちがいその2.同性愛は罪ではない、と言うこと

ある同性愛者の方が、悩んで悩んで、教会を訪れて、牧師にカミングアウトした時、その牧師は、「人を傷つける以外の罪はありません」と言ったそうです。

この話を聞いた当時のわたしは、いい話だと思いました。

しかし、今思うのは、とんでもない罪を、その牧師は犯しているということです。

真実なる方である神を欺く大罪です。救いの原則を曲げて教える者を、聖書は、偽教師と呼びます。

わたし自身も、そのような偽教師の一人であったことを告白しなければなりません。

 

聖書が明確に、繰り返し記すのは、人はすべて滅びにいたる罪人だと言うことです。

ロマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、

ロマ 3:10 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。」  (新改訳2017)

聖なる方である神は、どんな小さな罪であっても、それを受け入れることはできません。

罪人である人間は、誰一人として、そのままでは神の国に入ることはできません。もし、人が、そのまま神の前にでれば、たちまち滅び失せてしまうでしょう。

消毒液の中で、ハエが生きられないのと同じことです。

人は誰もが罪を抱えており、滅びを免れることはできない、だからこそ、神は、唯一の解決策として、ご自身の愛するひとり子を犠牲に捧げられたのです。

主イエスご自身が、私たちが受けるべき、神の怒りの杯を、身代わりに飲み干してくださった。それが、イエス・キリストの十字架が意味することです。

 

滅ぶべき罪人である人間は、言ってみれば、みんな死刑囚です。死刑囚が死刑囚の身代わりにはなれません。

100%神であり、100%人であるイエスだけが、罪を犯したことのない、完全な人間として、私たちの身代わりになることができたのです。

「人を傷つける以外の罪はありません」という発言は、聖書の記す罪の概念とは全く関係ないばかりか、聖書の救いの原則を破壊し、イエス・キリストの十字架すら否定するものです。

一見すると、よいもののようにも思える、その牧師の発言は、実は、その同性愛者の方を、救いから引き離していることが分かります。

偽教師に対する警告

Ⅱペテ2:1  しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。
2:2 また、多くの者が彼らの放縦に倣い、彼らのせいで真理の道が悪く言われることになります。
2:3 彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなることはありません。(新改訳2017)

 

同性愛者のあなたを、救いに導く、たった一つの福音

同性愛者であるあなたに、憎悪を向けるクリスチャンに対して、わたしは、断固として、その間違った罪理解を指摘します。

また、「あなたは罪ではない」と、無責任に言うクリスチャンに対しても、その間違いを、見逃しにはできません。

 

教会の門をたたいたあなたを招かれたのは、主イエスご自身であると、わたしは確信します。

あなたに受け取っていただきたいのは、誰に対しても、全く同様に与えられている、たった一つの救いの原則だけです。

つまり、“神の子イエス・キリストは、あなたの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活された。今も生きて、あなたのためにとりなして祈っておられる” ということです。

ただこのことだけを信じ、イエスを、まさにこのような方としてあなたの人生に迎え入れるとき、あなたは救われます。

あなたが、どれほどの罪を犯していたとしても。どれだけの人と性交渉があり、どれほどに妄想を繰り広げ、自分自身と他者の性をおろそかにしてきたとしても、関係ありません。

救いは、ただ、福音を信じることによってのみ与えられる、神からの一方的な恵みなのです。

一度当たられた救いは、二度と失われることはありません。完全である神の、約束のゆえに、です。

ヨハ 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(新改訳2017)

 

福音を信じた、その後の歩みのこと

同性愛者であることをやめなければ救われない。と言うクリスチャンがいます。これもやはり間違いです。

自分でどうにもできないことだから、主を頼り、福音を信じるのです。

自分でやめられることなら、イエスが十字架にかかる必要などありませんでした。

ただ、現実問題として、福音を信じて救われた後に、誰もが直面するのは、何も変わっていないように思える、自分の姿です。

わたしは本当に救われたのだろうかと、疑心暗鬼に陥る人も少なくありません。

罪を赦され、神の怒りから救われた。永遠の命が約束されている、とは言っても、自分の古い罪の性質は、肉体を介してこびりついたままなのです。

 

同性愛者の方であれば、福音を信じて救われた後も、以前のように、同性への性的欲望を覚え、葛藤するということが、あることでしょう。

性的欲望は、その対象が、同性だろうと異性だろうと、多くの人が抱き、振り回されている、とてもやっかいなものです。

いまだに残る罪の性質にどう向き合っていったらよいか。

それは、信じた時と変わりません。信じて救われたのだから、信じて歩んでいく、ということです。

福音を信じて救われた、すべての人の内に、神の霊、聖霊が住まわれています。これは永遠の約束であり、聖霊が、その人から離れることはありません。(Ⅰペテ1:23他)

この聖霊こそ、旧約時代の聖徒たちがどんなに渇望しても、一時的にしか与えられなかった神様からの尊い贈り物・賜物です。

 

12ステップという、アルコール依存症者の回復プログラムがあります。

元々、教会から始まったこのプログラムは、段階的に、依存症からの回復をもたらすものです。様々な依存症に対して用いられ、多くの人を回復に導いています。

その最初のステップは、自分には、依存症を克服できない。と認めること。そして第二のステップは、高き力(ハイヤーパワー)に委ねること。
ハイヤーパワーと言い換えられている言葉の本来の意味は、もちろん、聖書の唯一の神のことです。

信仰者の歩みに求められるのも同じことです。

誰もが罪を抱えています。罪とは、自分ではどうしようもない欠損だと言えます。

それがどんなものだろうと、クリスチャンの対処の仕方はただ一つ。自分に、この罪の問題は解決できないと認め、神に委ねること、それだけです。

 

福音を信じてのち、短期間で劇的に変わる人もいますが、多くの場合、時間を必要とします。

救いは、信じた瞬間の出来事ですが、信仰の成長、自分自身の変化は、少しずつ、ゆっくりと進むものなのです。

たとえば、以前は、毎日のように怒鳴り散らしていた人が、ふと気づくと、一週間に一回くらいしか怒ってないなぁと気づく、それが、月に一回になり半年に一回になり…と、次第に減っていく、というようなことです。

 

では、現実的に、性的欲望という、極めてやっかいなことがらに対して、どれほどの変化が期待できるでしょうか。

これに対しては、大きな希望があります。何人もの人が、同性への性的欲望から解放されたことを証言されています。結婚している人もいますし、中には、それぞれ、ゲイとレズビアンだったという夫婦すらいらっしゃいます。(参考:「同性愛 LGBT からの解放」に関するビデオ一覧)

変化の度合いや、課程は人それぞれですし、何より個々の信仰が関わってくる問題ですから、あなたはこうなる、とは、誰も言えません。

ただ、一つ言えるのは、変化は必ずおきるということ。少なくとも、あなたの自身の内に、平安が与えられて、増し加わっていくことは、確信もって言えます。

たとえ、不治の病に冒されていたとしても、殉教の苦しみにさらされていたとしても、心の中には揺るがない平安がある。それこそ、クリスチャンに与えられる最大の恵みだからです。

かつて重大な罪を犯した、というクリスチャンはたくさんいらっしやいますが、そのような人ほど、確かな変化と回復を味わわれています。

その人の抱える問題が、純粋に罪の問題であるほど、回復も確かだと言えます。

 

福音を信じた同性愛者に与えられる、将来の希望

クリスチャンの最大の希望は、いつか主イエスが戻ってこられ、世界を楽園に回復されるということです。

福音を信じて救われたすべての人は、復活の体を与えられ、永遠に喜びの内に生きます。

地上での夫婦は、神の国ではどうなるのかとたずねられた時、イエスはこう言われました。

マタ 22:30  復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。(新改訳2017)

これはつまり、神の王国においては、どんなに親密な夫婦もはるかに及ばない、完全な愛の関係を、すべての人が持つということだろうと、わたしは考えています。

 

父子聖霊なる、三位一体の神は、ご自身の内に完全な愛の関係性を持った方です。

福音を信じた、すべてのまことのクリスチャンは、キリストの花嫁として神の国に迎え入れられます。それは、神の完全な愛の関係の中に、迎え入れられる、ということではないでしょうか。

どんな夫婦も、カップルも、理解し合えない、愛しきれない不完全さを持っています。しかし、神の王国においては、すべての人が、お互いに、どんな夫婦も及ばない愛で結びつけられるのです。

何よりそこでは、すべての人が、神の愛に完全に満たされているのです。

 

もし、同性愛者であるあなたに、パートナーがいて、その方を本当に愛していると言われるのなら、その方があなたと共に福音を信じ、救われるようにと祈ります。

聖書は、同性間の性行為を厳しく禁じていますから、非常な葛藤と戦いは避けられないでしょう。

しかし、お二人が、福音を信じて救われるならば、あらゆる性的欲望から解放された、真実の愛の関係性へと、招かれていくことと信じます。

地上を生きる間、その関係性が完成することはありません。性に関して、お互いの抱える問題も解決にはいたらないかもしれません。互いに距離を置き、あるいは、別れなければならない場面もあるかもしれません。

しかし、神の王国にあなたが招かれるとき、あなたも、パートナーも、神の完全な愛の関係の中に招かれる。あなた自身の愛も、一切の性的欲望から解放された、完全なものとされるのです。

あなたが確かに救われ、神との、そして、すべての人との完全な関係性を味わう時が来ますように。お祈りします。

Ⅰテモ1:13  私は以前には、神を冒とくする者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。
1:14 私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。
1:15 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1:16 しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。
1:17 どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
(新改訳2017)

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