十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

同性愛者の救いを妨げる、クリスチャンの、罪に関する二つの間違った態度

2022/09/14
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

教会を訪れる同性愛者の人々

キリスト教会を訪れたことがある、という経験をお持ちの同性愛者の方は、少なくないように感じています。

動機は様々あるでしょうが、ある人から、わたしが聞いたのは、こういうことでした。

「キリスト教は、同性愛を罪と言っていると聞いて、本当にそうなのか確かめたかった」「自分を変えられるものなら変えたかった」…。

その方々は、勇気を振り絞り、よほど追い詰められた思いで、教会の門をくぐられたのだと思います。

その瞬間、救いは、彼、彼女が、手を伸ばせば届くところにあったでしょう。
間違いなく、主が、彼を、彼女を、招いておられたのだと確信します。

 

しかし、本当に残念なことに、主が招かれた、彼ら、彼女らを、クリスチャンが拒んでしまうことが、往々にしてあります。

クリスチャンの、罪に対する間違った理解が、大きく二つの、同性愛者に対する間違った態度を生んでいます。

 

まちがいその1.同性愛者に憎悪を向けること

在日コリアンの人々に対するヘイトスピーチが、大きな問題となっています。人としての存在の根本を否定するような、憎悪に満ちた発言は、耳を疑うものです。

大変残念なことに、クリスチャンの中には、同性愛者に対して憎悪を向ける人がいます。

キリスト教国において、暴力を伴い、時には命すら奪う、同性愛者に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)が存在することは、否定しようのない事実です。(イスラム教国ではさらに苛烈ですね…)

ヘイトクライムとまでは行かなくとも、勇気を振り絞って教会に来たものの、同性愛者に対する憎悪や侮蔑の言葉を聞いて、深く傷ついたという同性愛者の方は少なくないでしょう。

主に招かれ、救いを求めてきた人を、つまずかせてしまう。そのクリスチャンの責任は重大です。

マル 9:42  また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。(新改訳2017)

これは、人が付け加えた「口伝律法」によって、人々を縛り付けていた偽教師、パリサイ人に向けてイエスが語られた、厳しい警告です。

他者に対して、おまえは大罪人だと言って、侮蔑する、憎悪する。聖書は、そんなことを認めていません。むしろ、嫌悪し、厳しく戒めています。

 

クリスチャンの同性愛者への憎悪の背後には、人の罪に対する、大きな誤解があります。
聖書が記す大原則は、すべての人は罪人だということです。

ロマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、(新改訳2017)

どれほどの罪人かというと、神の怒りを受けて、永遠に滅ぶべき罪人だということです。

ですから、ある人が、どんなに重大に思える罪を犯していたからといって、自分の方がましだ、なんてことは言えないのです。

むしろ、それは、傲慢という大きな罪を、その人自身が犯していることになります。

 

救いは、すべて神の一方的な恵みです。

“滅ぶべき罪人だったわたしを、神は、一方的に憐れみ、愛する御子を犠牲に救ってくださった。”

それが、「くすしき恵み(おどろくべき恵み)」と、アメイジング・グレイスにも歌われていることです。

 

クリスチャンの成長とは、自分の罪深さを思い知らされていく課程です。

“あれほど罪深かった、わたしをも主は救ってくださったのだから、ましてや、主は、この人を救ってくださらないはずがない。“

それが、クリスチャンの伝道の大きな動機、力となることです。

同性愛者に、憎悪や侮蔑を向けるクリスチャンは、罪という重大な問題を理解していないということが言えるでしょう。

その人は、クリスチャンとしてあまりに幼いか、ひょっとすると、本当は信じていない、つまり、救われていない、形ばかりのクリスチャンなのかもしれません。

ルカ18:11  パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

(新改訳2017)

 

まちがいその2.同性愛は罪ではない、と言うこと

ある同性愛者の方が、悩んで悩んで、教会を訪れて、牧師にカミングアウトした時、その牧師は、「人を傷つける以外の罪はありません」と言ったそうです。

この話を聞いた当時のわたしは、いい話だと思いました。

しかし、今思うのは、とんでもない罪を、その牧師は犯しているということです。

罪を罪と言わないことによって、その人から救いのチャンスをむしろ奪ってしまった。

真実なる方である神を欺く大罪だ、と言っても、言い過ぎではありません。

 

救いの原則を曲げて教える者を、聖書は、「偽教師」と呼びます。

そのような偽教師は、重く巨大な石臼をくくりつけられて、海に投げ込まれたほうがましだ、とまで、イエスは厳しい言葉を投げかけられています。(マタイ18:6)

わたし自身も、そのような偽教師の一人であったことを告白しなければなりません。

 

聖書が明確に、繰り返し記すのは、人はすべて滅びにいたる罪人だと言うことです。

ロマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、

ロマ 3:10 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。」  (新改訳2017)

聖なる方である神は、どんな小さな罪であっても、それを受け入れることはできません。

罪人である人間は、誰一人として、そのままでは神の国に入ることはできません。

もし、人が、そのまま神の前にでれば、たちまち滅び失せてしまうでしょう。

消毒液の中で、ハエが生きられないのと同じようなことです。

 

人は誰もが罪を抱えており、滅びを免れることはできない、だからこそ、神は、唯一の解決策として、ご自身の愛するひとり子を犠牲に捧げられたのです。

主イエスご自身が、私たちが受けるべき、神の怒りの杯を、身代わりに飲み干してくださった。

それが、イエス・キリストの十字架が意味することです。

 

滅ぶべき罪人である人間は、言ってみれば、みんな死刑囚です。死刑囚が死刑囚の身代わりにはなれません。

100%神であり、100%人であるイエスだけが、罪を犯したことのない、完全な人間として、私たちの身代わりになることができたのです。

「人を傷つける以外の罪はありません」という発言は、聖書の記す罪の概念とは全く関係ないばかりか、聖書の救いの原則を破壊し、イエス・キリストの十字架すら否定するものです。

一見すると、よいもののようにも思える、その牧師の発言は、実は、その同性愛者の方を、救いから引き離していることが分かります。

偽教師に対する警告

Ⅱペテ2:1  しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。
2:2 また、多くの者が彼らの放縦に倣い、彼らのせいで真理の道が悪く言われることになります。
2:3 彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなることはありません。(新改訳2017)

 

同性愛者のあなたを、救いに導く、たった一つの福音

同性愛者であるあなたに、憎悪を向けるクリスチャンに対して、わたしは、断固として、その間違った罪理解を指摘します。

また、「あなたは罪ではない」と、無責任に言うクリスチャンに対しても、その間違いを、見逃しにはできません。

 

教会の門をたたいた、あなたを招かれたのは、主イエスご自身であると、わたしは確信します。

あなたに受け取っていただきたいのは、誰に対しても、全く同様に与えられている、たった一つの救いの原則、それだけです。

つまり、“神の子イエス・キリストは、あなたの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活された。今も生きて、あなたのためにとりなして祈っておられる” ということです。

ただこのことだけを信じ、イエスを、まさにこのような方としてあなたの人生に迎え入れるとき、あなたは救われます。

 

あなたが、どれほどの罪を犯していたとしても。どれだけの人と性交渉があり、どれほどに妄想を繰り広げ、自分自身と他者の性をおろそかにしてきたとしても、関係ありません。

救いは、ただ、福音を信じることによってのみ与えられる、神からの一方的な恵みなのです。

一度与えられた救いは、二度と失われることはありません。完全である神の、約束のゆえに、です。

ヨハ 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(新改訳2017)

 

福音を信じた、その後の歩みのこと

同性愛者であることをやめなければ救われない。と言うクリスチャンがいます。これもやはり間違いです。

自分でどうにもできないことだから、主を頼り、福音を信じるのです。

自分でやめられることなら、イエスが十字架にかかる必要などありませんでした。

 

ただ、現実問題として、福音を信じて救われた後に、誰もが直面するのは、何も変わっていないように思える、自分の姿です。

わたしは本当に救われたのだろうかと、疑心暗鬼に陥る人も少なくありません。

罪を赦され、神の怒りから救われた。永遠の命が約束されている、とは言っても、自分の古い罪の性質は、肉体を介してこびりついたままなのです。

 

同性愛者の方であれば、福音を信じて救われた後も、以前のように、同性への性的欲望を覚え、葛藤するということが、あることでしょう。

性的欲望は、その対象が、同性だろうと異性だろうと、多くの人が抱き、振り回されている、とてもやっかいなものです。

いまだに残る罪の性質にどう向き合っていったらよいか。

それは、信じた時と変わりません。信じて救われたのだから、信じて歩んでいく、ということです。

福音を信じて救われた、すべての人の内に、神の霊、聖霊が住まわれています。これは永遠の約束であり、聖霊が、その人から離れることはありません。(Ⅰペテ1:23他)

旧約時代の聖徒たちは、どんなに渇望しても、聖霊は一時的にしか与えられませんでした。

しかし、主イエスの贖いが成し遂げられた今の教会時代には、ただ、福音を信じた者に、聖霊は永遠に住まわれます。

これは、神様からの尊い贈り物・賜物です。

 

アルコール依存症者の12ステップの根源

12ステップという、アルコール依存症者の回復プログラムがあります。

元々、教会から始まったこのプログラムは、段階的に、依存症からの回復をもたらすものです。様々な依存症に対して用いられ、多くの人を回復に導いています。

その最初のステップは、自分には、依存症を克服できない。と認めること。

そして第二のステップは、「高き力(ハイヤーパワー)」に委ねることです。

どんな宗教や信条の方でも適用できるようにと、現在は、ハイヤーパワーと言い換えられているのですが、この言葉の本来の意味は、もちろん、聖書の唯一の神のことです。

 

信仰者の歩みに求められるのも同じことです。

誰もが罪を抱えています。罪とは、自分ではどうしようもない欠損だと言えます。

それがどんなものだろうと、罪に対するクリスチャンの対処の仕方はただ一つ。自分に、この罪の問題は解決できないと認め、神に委ねること、それだけです。

 

福音を信じてのち、短期間で劇的に変わる人もいますが、多くの場合、時間を必要とします。

救いは、信じた瞬間の出来事ですが、信仰の成長、自分自身の変化は、少しずつ、ゆっくりと進むものなのです。

たとえば、以前は、毎日のように怒鳴り散らしていた人が、ふと気づくと、一週間に一回くらいしか怒ってないなぁと気づく、それが、月に一回になり半年に一回になり…と、次第に減っていく、というようなことです。

 

では、現実的に、性的欲望という、極めてやっかいなことがらに対して、どれほどの変化が期待できるでしょうか。

これに対しては、大きな希望があります。

何人もの人が、同性への性的欲望から解放されたことを証言されています。結婚している人もいますし、中には、それぞれ、ゲイとレズビアンだったという夫婦すらいらっしゃいます。(参考:「同性愛 LGBT からの解放」に関するビデオ一覧)

 

変化の度合いや、課程は人それぞれですし、何より個々の信仰が関わってくる問題ですから、あなたはこうなる、とは、誰も言えません。

ただ、一つ言えるのは、悔い改め、福音を信じて歩んでいくなら、変化は必ずおきるということ。

少なくとも、あなたの自身の内に、平安が与えられて、増し加わっていくことは、確信もって言えます。

たとえ、不治の病に冒されていたとしても、殉教の苦しみにさらされていたとしても、心の中には揺るがない平安がある。それこそ、クリスチャンに与えられる最大の恵みだからです。

 

かつて重大な罪を犯した、というクリスチャンはたくさんいらっしやいますが、そのような人ほど、確かな変化と回復を味わわれています。

その人の抱える問題が、純粋に罪の問題であるほど、回復も確かだと言えます。

 

福音を信じた同性愛者に与えられる、将来の希望

クリスチャンの最大の希望は、いつか主イエスが戻ってこられ、世界を楽園に回復されるということです。

福音を信じて救われたすべての人は、復活の体を与えられ、永遠に喜びの内に生きます。

地上での夫婦は、神の国ではどうなるのかとたずねられた時、イエスはこう言われました。

マタ 22:30  復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。(新改訳2017)

これはつまり、神の王国においては、どんなに親密な夫婦もはるかに及ばない、完全な愛の関係を、すべての人が持つということだろうと、わたしは考えています。

 

父子聖霊なる、三位一体の神は、ご自身の内に完全な愛の関係性を持った方です。

福音を信じた、すべてのまことのクリスチャンは、キリストの花嫁として神の国に迎え入れられます。それは、神の完全な愛の関係の中に、迎え入れられる、ということではないでしょうか。

どんな夫婦も、カップルも、理解し合えない、愛しきれない不完全さを持っています。しかし、神の王国においては、すべての人が、お互いに、どんな夫婦も及ばない愛で結びつけられるのです。

何よりそこでは、すべての人が、神の愛に完全に満たされているのです。

 

もし、同性愛者であるあなたに、パートナーがいて、その方を本当に愛していると言われるのなら、その方があなたと共に福音を信じ、救われるようにと祈ります。

聖書は、同性間の性行為を厳しく禁じていますから、非常な葛藤とたたかいは避けられないでしょう。

しかし、お二人が、福音を信じて救われるならば、あらゆる性的欲望から解放された、真実の愛の関係性へと、招かれていくことと信じます。

地上を生きる間、その関係性が完成することはありません。性に関して、お互いの抱える問題も解決にはいたらないかもしれません。互いに距離を置き、あるいは、別れなければならない場面もあるかもしれません。

しかし、神の王国にあなたが招かれるとき、あなたも、パートナーも、神の完全な愛の関係の中に招かれる。あなた自身の愛も、一切の性的欲望から解放された、完全なものとされるのです。

あなたが確かに救われ、神との、そして、すべての人との完全な関係性を味わう時が来ますように。お祈りします。

Ⅰテモ1:13  私は以前には、神を冒とくする者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。
1:14 私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。
1:15 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1:16 しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。
1:17 どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
(新改訳2017)

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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Comment

  1. とあるクリスチャン より:

    何度も同じ罪を犯してしまい抜け出せない自分がいます。罪の解放は自分の力でなく、恵みによってと信じて歩みますが、罪を犯す度に自分に失望してしまいます。
    クリスチャンならキリストの似姿に成長していくはずなのに…と時には自分の救いに対しても疑心暗鬼になってしまうこともあります。
    何かアドバイス頂ければと思います。
    よろしくお願いします。

    • sikaoichurch より:

      罪の問題は、本当に、私たちを悩ませ続けますよね…。

      自分に失望したから、福音を信じたんだ、という原点に、いつでも立ち返り続けることが、大切なのだと思います。

      自分の意思の力では、決して断つことができないのが罪なのだと…。

      わたしには、できません。でも、主よ。あなたが助けてくださるならば、不可能なことはありません。

      聖霊に頼り、そこに立ち返っていく。本当にそれしかないんだと、私も繰り返し教えられています。

      同じことの繰り返しのようでいて、それでも、少しずつ変えられていく。
      神様は、どれほどの忍耐をもって導いて、成長させてくださるのか。

      その愛を味わうことを、何より大切にできたら、と心にとめつつ。

  2. 血みどろ より:

    突然のコメントで申し訳ありません、長文ですので読み飛ばしてくださっても結構です。

    私は主イエス・キリストの様々な御言葉に、聖霊の働きによって満ち足りてきた
    姦淫の女を大勢の人間が連行してきた時。彼らは自分たちが罪びとであるとの自覚も持っていなかった。「今までに罪を犯してこなかった者が、まず石を投げなさい。」一度も罪を犯したことのない、権威ある者としてこの言葉を語り、姦淫の女を救った主イエス・キリスト。
    ファリサイ派が安息日の穂摘みを批判した時。過剰な形式主義に対し「人が安息日のためにあるのではない。安息日が人のためにあるのだ」とはっきりおっしゃった主イエス・キリスト。
    ペトロやトマスが躓いても、赦しを与えてくださった主イエス・キリスト。誤った道を進んでいたマタイやパウロにも、救いをくださった主イエス・キリスト。

    しかし、その主イエス・キリストが同性愛を赦さないのなら、私は地獄に堕ちよう。
    自分自身としては何度も努力を重ねてきたつもりだが、同性愛は克服などできるものではなかった。聖霊が私に満ちることはなかった。最早、地獄に落ちる以外の選択肢はない。
    牧師さん、取り繕う必要などない。聖書には同性愛は罪、とはっきり記されているのだから。それ以上でもそれ以下でもない。私は殺人犯や強盗と何ら変わることはないのだ。「違う」と言うなら、それは牧師さんが聖書を理解していない、ないしは偽証している。
    私は主の御手にこの身を委ねる、その上で喜んで地獄に堕ちよう。
    私は主の救いの計画に入っていなかったのだ。誰が主イエス・キリストの御計画に抗えようか。

    仮にも主イエス・キリストに仕えるものとの自覚があるのなら、もっとはっきりとこのことを伝えるべきだ。
    「聖書には同性愛は罪と書かれている」、それで充分ではないか。

    • sikaoichurch より:

      コメント、ありがとうございます。

      「聖書には同性愛は罪と書かれている」 その通りです。
      「私は殺人犯や強盗と何らかわることはない」 それも、その通りです。

      罪を克服しなければ、救われない、と考えておられるなら、それは間違いです。
      誰も、自分の力で、罪を克服することはできないからです。

      福音を信じた者には、聖霊が住まわれ、助けてくださいますが、それでも、生きている間に、私たちが、自分の抱えるすべての罪を克服することなどありません。

      しかし、それでも、あなたが、福音を信じたのなら、ただ、主の恵みと憐れみによって救われます。それが、主イエスによって与えられた驚くべき救いの原則です。

      信じるべきことは、明確ですね。
      すなわち、主イエス・キリストは、私の罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、死を打ち破って復活された。主は、今も生きておられ、私を救うことがおできになる、と信じること。それだけです。

      主イエスの隣で十字架にかけられた、一人の罪人は、悔い改めを現す何の機会もなかったにも関わらず、ただ、主を信じて救われました。

      「あなたは、今日、わたしと共にパラダイスにいます」 それは、絶対に破られることのない、主の約束に基づく宣言です。

  3. 細川隆好 より:

    『聖書は、同性間の性行為を厳しく禁じていますから、非常な葛藤とたたかいは避けられないでしょう。

    しかし、お二人が、福音を信じて救われるならば、あらゆる性的欲望から解放された、真実の愛の関係性へと、招かれていくことと信じます。』とのことなんですが、ローマ3:20-28をちっとも踏まえていないとは、どういうことですか? 異性愛者は、異性間の性交について、婚外性交や不貞行為でなければ、何ら咎められていないではありありませんか。それと、神様にはえこひいきがないのに、あなたの言い分には自覚してるかはわからないが、えこひいきがあるのは、どうしてですか? ヤコブ2:9によれば、えこひいきをすれば罪を犯しているのに、何をやってるんですか?
    それから、そちらの教会に同性愛者がやってきたら、掲げていることと実態の違いを知って、ショックで自殺するかもしれない。もし、そうなったら、その血の責任は一体、誰と何にあるんでしょうかね?

    • sikaoichurch より:

      聖書においては、明確に、結婚関係以外でのすべての性行為を禁じています。

      そして、聖書の記す結婚とは、男性と女性が、精神的、性的に結びつくことです。

      これ以上のことを聖書から読み取ることはできません。

      私たちにできるのは、この聖書を受け入れるか、拒むか、どちらかしかありません。

      聖書の神は、一貫して義と愛の神です。

      主は、罪を憎み、罪人を憐れむ方です。

      神は、愛する者の背きを、ねたまれます。

      聖書が記す救いとは、神の怒りからの救いです。

      主を信頼する者には永遠の救い。主を最後まで拒んだ者には永遠の滅びがあります。

      このように、聖書の記す救い、神の義と愛は、世間一般で唱えられるヒューマニズムとは、全く異質なものです。

      すべての人は、滅びにいたる罪人である。

      どんな罪人も、ただ福音を信じて救われる。

      罪と救いの、この原則においては、誰もがまったく平等に公正に取り扱われます。

      自殺の責任は誰にあるか?

      律法によれば、故意の殺人の場合、血の責任は、その血を流した当人にあります。

      しかし、自殺した当人が、それでも福音を信じていたなら、その人は永遠の滅びから救われています。

      聖書から言えるのは、それだけです。

  4. 細川隆好 より:

    『「同性愛 LGBT からの解放」に関するビデオ一覧)』と提示しておられますが、https://wired.jp/2012/10/16/homosexuality/ には、『むしろ、場合によっては有害となりうる。事実、しばしば起こる「回復療法」の失敗が、自尊心の喪失やストレス、罪悪感、鬱、自殺する傾向の増加を引き起こす可能性がある。こうした理由から、APAは(そしてAPAに協力する精神科医や心理療法士の科学コミュニティは)、「回復療法」の実践を行わないよう呼びかけている。』とあります。なぜ、回復治療の失敗と弊害と言えるケースは記載していないのですか?

    • sikaoichurch より:

      なぜ、回復治療の失敗と弊害と言えるケースは記載していないのですか?

      ということですが、逆の立場から言えば、なぜ回復治療が成功したという声を無視するのですか。ということです。

      多様なセクシャリティ、ジェンダーを認めるべきだということであれば、回復者というセクシャリティも、認めるべきではないでしょうか?

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