他の人が据えた土台の上に建てないように? ローマ15章20節を文脈から考える
1. 知識に伴う恵みと罠と葛藤と
知識は、富や名声、権力などと同様、人を驕り高ぶらせる要素の一つですし、他者を攻撃する武器にもなります。
聖書を学ぶ者の責任として、牧師や他の兄弟姉妹に対して、愛と敬意、謙遜を持って接することの大切さを、聖書塾で中川師が何度も指摘されていたのを私自身、度々思い起こしています。
一方で、聖書塾やメッセージステーション、聖書フォーラムから得た知識でもって、信徒が牧師を批判してきたと訴える牧師も少なくないようです。
不特定多数の人々に発信するネットの特性上、そういうことは増えているのだろうと推察します。
コロナ禍の状況は、さらにその傾向を後押しする結果を生んでいるのでしょう。
私なら、聖書解釈についての質問や疑問を信徒から投げかけられたなら、よろこんで対応します。
信徒が自発的に学ぶ姿勢は素晴らしいことですし、教会全体を活性化させるよい機会だと考えるからです。
そもそも、勝手に他の教会の信徒に教えてはならないとなったら、ネット配信自体、不可能になります。
さらに突き詰めれば、他の牧師が書いた本を読むのはどうなるのか、とも考えます。
正直なところ、聖書塾や聖書フォーラムに対する批判について、私は、何が問題だと言われるのか、よく理解できていません。
決して認めがたいこととして強く反駁される方々との間に、埋めがたい溝があることは、痛感させられています。
いつでも問われるのは、その主張の聖書的根拠は何か、ということであり、牧師である以上、決してそこから逸れてならないと自覚させられています。
この点について、私の知らなかった根拠を提示される機会がありましたので、私なりに、聖書から検証させていただきたいと思います。
2. 「ほかの人が据えた土台」とは?
「 このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。ローマ人への手紙 15:20」
私が接した主張では、「他の人が据えた土台の上に建てないように」が、その教会の牧師が救いに導き育んできた信徒を他の教会の牧師が勝手に指導したり教えてならない、自重すべきであるという意味で解釈されていました。
しかし、文脈を見ると、15章でパウロが最も強調しているのは、異邦人伝道です。
厳にパウロは、異邦人の使徒として異邦人伝道の使命に歩みました。
そのことを指して「このように」と告げているわけですから、「他の人が据えた土台」とは、ユダヤ人の信仰共同体と読み取るべきです。
聖書で、異邦人という概念に対するのは、常にユダヤ人(イスラエル)です。
教会は、エルサレムに誕生し、当初はユダヤ人信者を通して、各地にあったユダヤ人共同体を足がかりに、異邦人世界に広がって行きました。
パウロは、新しい町を訪れたら先ず、ユダヤ人の会堂で福音を告げましたが、多くの場合には拒まれて、むしろ異邦人に多く信者が起こされてきたのです。
パウロのローマ訪問の動機は、さらに西のイスパニア(スペイン)伝道の足がかりとすることにありました。
ローマには元々、ユダヤ人の大きな共同体があり、イエスの福音もすでに伝えられ、地域教会も誕生していました。
ローマで、ユダヤ人の会堂で、ユダヤ人に伝道することが私の目的ではない、とパウロは明言しているのです。
そして、実際、その通りになりました。
ローマに到着したパウロを訪問したユダヤ人の多くは福音を拒み、結果としてパウロは、異邦人伝道に注力することを宣言しています。(使徒28章)
3. 使徒たちが注力した一つのこと
このように、ローマ15:20をもって、他の教会の信徒に教えてはならないという主張の根拠にするのは無理があります。
むしろ、パウロの意図とは逆のことを主張しているとも言えます。
パウロが見据えていたのは、人々にいかに福音を伝えるかというそのことだけです。
誰が救いに導いたとか、教えたとかいうことを、パウロ自身はまったく気にもかけてはいません。
分派問題で揺れていたコリントの教会に、パウロはこう告げています。
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。Ⅰコリ 3:6 」
パウロも含めた使徒たちが常に問題としたのは、語られた中身そのものです。
正しく御言葉が解き明かされるなら、御言葉自体が信者を成長させるのです。
そうであるなら、私たちのなすべきは、あらゆる手段を用いて聖書を解き明かして行くこと、それだけではないでしょうか。
4. ヘブル的視点とは?
聖書フォーラムは、「ヘブル的視点」にこだわっています。
その内容が十分理解されないまま、言葉だけが一人歩きしている印象がありますが、まったく何も特別な読み方ではありません。
著者の意図通り、最初の読者が理解した通りに、聖書を読もうという、当たり前を当たり前にのべているにすぎません。
同時に、現代の私たちと聖書の時代とは、歴史的、文化的、地理的に大きな隔たりがありますから、それをいかに埋めるかも意識しています。
私が、ヘブル的視点で学びを重ねてきて痛感させられていることがあります。
それは、使徒信条にあるような基本的教理から一歩も踏み出さないばかりか、信仰が本当にシンプルに強められていくということです。
学びを深めるほどに、無駄がそぎ落とされて、幼子のような信仰にされていく。
この爽快感を、ヘブル的視点で聖書を学ぶ多くの人が味わわされていることと思います。
救いは、主イエスにしかない。福音だけなんだと、日々確信が強められています。
5. 変わる文化 変わらぬ使命
パウロを迫害した律法主義者のユダヤ人たちは、人間の言い伝えにすぎない「口伝律法」に固執した者たちでした。
聖書に正しく基づかないことを強く主張するなら、彼らと大差ないのではないでしょうか。
ローマ15章20節を、今の時代の教会に正しく適用しようとするなら、私たちには何が求められているかと自問します。
日本の1%に満たないクリスチャンの半数のプロテスタントのさらに少ない福音派の教職者、そんな余りにも小さな世界に、私たちは閉じこもってきたのではないか、と。
日本におけるネット伝道の先鞭をつけた団体の一つがハーベストタイムミニストリーズです。
その主催する聖書塾から生まれた聖書フォーラムから、いくつもの群れ、何人もの方が、自発的にネット上の伝道活動に力を注いでいます。
これらの働きを通して、ネット上でメッセージを聞いて救われる人々が起こされています。
ネット上で聖書の学びを深め、積極的に発信し、伝道されている一人の方と出会いましたが、福音を信じて1年足らずと聞いて驚愕しました。
聖書フォーラムの中には、信仰告白からわずか数年で、確かな聖書知識と経験を積み重ね、一つの群れのリーダーに召され、責任を担っている方が何人もいます。
これまでの地域教会の枠組みを大きく越えて、驚くような形で一つのキリストの体なる普遍的教会が広がっています。
同様の働きは、世界各地で起こり、世界規模で広がっているようです
聖書フォーラムは、その一つにすぎないのでしょう。
鹿追教会は、ほんとうに小さなローカルチャーチに過ぎませんが、ライブ配信による礼拝に海外から参加される方もいて、時代の大きなうねりの中で用いられていることを実感させられています。
使徒の時代に、福音宣教が急拡大した背景には、整えられたインフラがありました。
ローマ帝国によって各地に張り巡らされた道路網。安定した治安。ギリシャ語という共通語の存在。そして、離散したユダヤ人の共同体、会堂が、福音宣教の足がかりとされていきました。
これらのインフラを最大限活用したのが、異邦人の使徒とされたパウロであったわけです。
もしパウロが現代にいれば、まっさきにユーチューバーになっていることでしょう。
十年以上も前に、私が牧師として務めていた小さな町には、今、二つの教会があります。
さらに、最近、隣接する南北の町にもそれぞれ、教会が誕生したと聞きました。
コロナ禍にあって、教会のなかった町に新たに教会が生まれている、素晴らしいことだと思います。これこそ、使徒たちの精神にかなう信仰の姿勢だと教えられます。
北海道を見回しても、半数以上の町村には教会がありません。さらには閉堂する教会も増えています。それこそ、土台も何もない広大な地が広がっているのです。
鹿追キリスト教会が、鹿追の町ではじめての教会として立たせられ、歩み始めて6年が過ぎようとしています。
主に強く促されているのは、さらに、未知の領域へと踏み出して行くことです。
コロナ禍では、これしかないと注力したライブ配信を主が大いに用いてくださいました。
現実の関係性においても、人々との接点を求めて、歩み出して行くよう求められていると感じます。
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