「弱さへの配慮」について 聖書から考えた
1. それが配慮すべき弱さ?
とある牧師の体験談です。
…精神障害を抱えたクリスチャンから、生活を変えたいと相談があり、カウンセリングをした。
その人はアニメが大好きだったのだが、アニメにどっぷりはまると調子を崩してしまうと分かった。
なので、アニメを見ること自体を絶ってはどうかと提案したところ、強く拒んで、以来、音沙汰もなくなってしまった。
後日、その人の家族から、強く言いすぎだ。弱い人に配慮すべきだ、つまずかせたと苦情がきた…。そんな話です。
似たような体験をしている人は、牧師でなくとも、少なくないのではないでしょうか。
最近、教会の中でも、「つまずかせない」「弱さに配慮すべき」ということは、よく語られているように思います。
2. 聖書が求める、弱さへの配慮
よく引用される聖句が、「弱い人のつまずきにならないように(Ⅰコリ8:9)」です。
まず確認すべきは、どんな文脈で命じられている言葉か、ということです。
文脈は、偶像に献げた肉をめぐる議論です。
ローマの各都市では、偶像をまつる神殿に献げた肉が市場に出回っていたようです。
この肉を食べてもいいのか、ということが、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間で論議となっていました。
パウロは、肉そのものに罪はないし、食べても問題ないが、食べたら汚れると恐れる信仰の幼子がいたら、配慮して食べないように、と語られています。
主は、使徒ペテロに、汚れた食べ物などない、と明確に告げられました。
食物規定は律法と共に廃棄され、キリストの律法に生きる者は何を食べてもよくなった。
それが今の教会時代なのだと、主はペテロに教えられたのです。
しかし、それでも抵抗を感じ、律法の慣習を大事にしているユダヤ人信者がいました。
なので、パウロは、異邦人信者に配慮を求めたのです。
この配慮は、異邦人伝道を公式に認めた、エルサレムの使徒会議でも、指導者ヤコブによって告げられています。
偶像に献げた肉が、信仰の弱い人をつまずかせてしまうなら、その要因自体を取り去ってしまいなさい。
ここで求められる「弱い人への配慮」とは、そういう配慮です。
3.聖書の原則を適応すると?
コリント書に記された弱さへの配慮の原則を、最初の例に当てはめると、どうなるでしょうか。
アニメを見ること自体は、良いとも悪いとも言えない、グレーゾーンです。
まず検証すべきは、各々の中身です。
聖書が求める倫理基準に反していたり、聖書が禁ずる霊的世界について描いたもの、これは、はっきり避けるべきでしょう。
次に、多くのクリスチャンには問題ないと思われるものでも、それが本人に悪影響を与えているなら話は別です。
アニメにはまっていること自体が、その人にとって問題なら、見ること自体を避けるべきでしょう。
それが、この場合に求められる「弱さへの配慮」です。
問題ないだろうと親子で見ていたテレビ番組が、子どもに悪影響を及ぼしていると分かったら、親も一緒に見ないようにする。
パウロが求める弱さへの配慮とは、そういうことです。
4. お酒の例で考えると?
聖書は、飲酒は禁じていません。聖書が禁じているのは酩酊です。
酩酊して、お酒に意識が乗っ取られている状態では、第一とすべき神が、見失われているからです。
お酒自体は、良くも悪くもありませんが、アルコール依存症の人は、一口飲んだだけでも悪化してしまいます。
ですから、依存症の人は、徹底してお酒を避ける必要があるわけです。
地域教会内に依存症の人がいるという理由で、聖餐式の杯の中身をジュースにする。
教会での交わりでは、お酒は出さない。
こういう判断は、必要な「弱さへの配慮」に基づいていると言えます。
しかし、「お酒に弱い人の弱さに配慮して飲酒は大目に見ましょう」なんて言い出せば、どうでしょう。
それこそ、つまずきとなってしまいます。
5. 偶像礼拝の本質から考える
聖書が、最も厳しく禁じていることの一つが偶像礼拝です。
神を第一とせよという原則は、今も変わりません。
神ではないものが一番とされるなら、偶像礼拝同様の状況に陥っています。
そう考えるなら、神以外のあらゆるもの、あらゆることがらが、偶像礼拝になり得るということが分かります。
我を忘れるほどに、神以外の何かに夢中になるなら、要注意です。
サッカーの応援も映画鑑賞も、仕事や慈善活動だって同様です。
人は、いいことをしているんだという満足感から、神を忘れる傲慢に至ることもあるのです。
私自身、子どもの頃から漫画やアニメは大好きでした。
福音を信じてからは、さすがに内容は吟味するようになってはいたのですが、ある時気づいたのは、漫画、アニメ自体が、自分に悪影響を与えているということでした。
以来、漫画やアニメを見ること自体を絶って、今に至っています。
漫画やアニメを本質から改めて考えると、何もないところから人の想像で生み出すものというのは、容易に偶像につながりやすいものと言えます。
人が考え出したストーリー全般についても同じです。映画やドラマも、よくよく吟味すべきものだと思います。
まとめ. あるべき「弱さへの配慮」とは?
弱さへの配慮と言ったときの弱さとは、「罪に対する弱さ」です。
弱さへの配慮で求められるのは、罪に対して自分の弱い部分、他者の弱い部分を、しっかり認識することです。
聖書で明確に禁じられておらず、他の人には問題ないことでも、ある人にとってはそうでないなら、元から絶つべきです。
「あなたの場合には、それは害だから、やめるべきだ」と告げ、「私もあなたのいるところでは、やらないよ」と相手に合わせる。
それが弱さへの配慮です。
「正しすぎてはならない」とよく引用される箴言7:16は、自分の正しさ、自分の知恵を誇る者の傲慢に対する戒めです。
聖書が明確に告げていることなら、どんなに強調しても、正しすぎるということにはなりません。
聖書は繰り返し、一切の悪い行いを取り除くように求めています。
聖書が正しいと記すことは、そのまま告げないわけにはいきません。
聖書がつまずきを与えるな、と警告するのは、偽りの教え、間違った言動によって、他者をつまずかせるなということです。
正しいことに対してつまずくことは避けられません。それが私たち、罪人です。
聖書に記された最も大きなつまずきは、弟子たちが、主イエスにつまずいた、その出来事でした。
自分が依存していたものが、打ち砕かれていく過程で、私たちは成長させられていきます。
自分の弱さを直視し、避けるべきものは避け、どうにもならない問題については、主に明け渡していきましょう。
その歩みのただ中で、聖霊が助けてくださいます。