十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

コラム 弱者が正義? 聖書が教える真の解放

2024/02/09
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

イスラエル偏向報道の背景

イスラエル報道の余りの偏向ぶりの背景について、孤高のイスラム法研究家、飯山陽氏の解説に納得しました。

日本の中東学会そのものが、極左の牙城となっている。かつて、世界中で共産主義政権が崩壊する中、イランのイスラム革命に心酔した人々が、中東学会に流れ込んだ結果だと言うのです。

私には既視感がありました。

以前、私が所属していたN教団では、大学紛争が下火になる中、極左思想に染まった人々が、新たな活動の拠点として、教会に多く流れ込んで来たと聞いています。

教団認可の神学校にも紛争は及び、教団立の神学校では、機動隊導入という事態まで起こっています。

以降、N教団は、「福音派*、社会派」と相互にレッテル貼りをしあう二派に分断され、「社会派」からは、今の社会状況を先取りするような極めて先鋭的なリベラルの主張がなされてきました。

先日も、N教団(特に「社会派」)も加わっているエキュメニカルな超教派のグループが、イスラエル、ガザに対する声明を出していましたが、ハマスのテロとイスラエルの戦いを同列に置き、イスラエルを強く非難する内容でした。

(*自称ではなく、相互に、あいつは「福音派」だ、「社会派」だと呼び合っていたということ。一般的に言われる、「福音派」とは異なります。)

 

宗教的権威に託した革命の夢想

以前、A牧師から、極左に完全に乗っ取られてアジトと化してしまった、とある教会の話を聞きました。大学紛争で居場所をなくした学生たちを同情心から受け入れた、その教会のB牧師自身が、左派思想に染まっていったそうです。

キリストを革命家のように語るB牧師に、A牧師が、贖いの御業としての十字架はどこにいったのかと問うたところ、B牧師は、激高して怒鳴りだしたそうです。その豹変ぶりが、カルトの信者のようだったとA牧師が話されていました。

私自身には、求道中の学生時代、通っていた教会の牧師が、「今更、贖罪論なんて…」と話すのを聞いて、「そうか、もう古いんだ」と納得してしまった経験があります。

福音を確かに信じるまで、その後、長い年月を経ることになりました。

 

これらの背後には、イエスは社会的弱者の救済のために立ち上がった革命家だった、という思想があります。

革命の理想を掲げながら、現実の前に挫折した人々が、宗教的権威によりすがる形で、革命の夢をつなぎとめた。

そうやって、中東学会や、一部のキリスト教界が左派の牙城のようになっていった、ということなのでしょう。

 

リベラルという一つの信仰

合同教会であるN教団の信仰告白は、使徒信条に伝統的な基本的教理が追記された形のシンプルな内容でした。

聖書は、聖霊による神の言葉であり、信仰と生活の誤りなき規範であると明確に告げられており、福音派の教会で読み上げられても、違和感ないものです。

しかし、この信仰告白が、「社会派」の牧師や信徒には、すこぶる評判が悪く、教団や教区の総会では、信仰告白の場面で押し黙る人々もいたほどでした。

福音を信じる信仰に導かれた私が、教区の総会に出席したある時、信仰告白を読み上げながら、涙が溢れて止まらなかったことがあります。周囲からはよほど奇異に見えたことでしょう…。

 

天地創造、イスラエル、LGBTQ等に関して、かつての同僚とSNS上で何度か議論をしました。毎回、議論は最後までかみ合わず、「人権侵害だ、お前は原理主義者か」と罵倒されておしまい。連絡を絶たれてしまったことも度々です。

なぜ、左派の人々とは、まともな議論にすらならないのか。

彼らが盲目的に信じている、「革命」という名の「信仰」の問題だからなのだと思います。

 

弱者こそ正義という盲目的な信仰

神学校時代、一人の同級生がこぼしていました。

「自分にも何か主張できるものがあったらいいのに。日本人男性で、会社員として働いてきた自分は、多数者、強者として叩かれるばかりだ」と。

 

大学紛争以降、何人もの教師、学生が流れ込み、中心を担ってきたその神学校は、先鋭的なリベラル思想が浸透していました。弱者こそ正義という世界観の上に、どちらがより弱者かという不毛な論争と対立に明け暮れた神学校生活でした。

あの時の神学校の空気が、社会全体に蔓延している今の状況には、驚きを禁じ得ません。大学などの教育機関を根城にして、彼らの思想は着実に社会に浸透してきたのだと痛感します。

 

「イスラエルは強者で、ハマスは弱者」 枠組みは最初から決まっています。

イスラエルが行うことは悪であり、植民地支配、大量虐殺である。ハマスがやることは解放のための正義の抵抗運動である。

ガザの病院や学校から、どれほどの武器、弾薬が発見されようとも、彼らの主張は微動だにもしません。都合の悪い事実は、無視されます。

自分たちが規定した「弱者」こそ正義として、相手に議論の余地すら与えない。これはまさに盲目的な信仰です。

 

聖書が教える貧者の幸い

聖書は、「多数の側に従って悪の側に立ってはならない(出23:2)」と記す一方、「弱い者を特に重んじてもいけない(出23:3)」ともあります。

強者の論理も判官贔屓も聖書の教えではありません。

 

主イエスは、“富は神の祝福であり、金持ちは信仰者だ”とする当時の価値観に反して、「金持ちが天の国に入るのは難しい(マタ19:23)」と言われました。

金持ちほど抜け穴があり、信仰深く装えるのが、人が作った口伝律法でした。その偽善を主イエスは咎められました。

 

一方、「貧しい人々は幸いだ(ルカ6:20)」と主が告げられたのは、弱者だから祝福されるということではありません。

貧しさゆえに、信仰生活を表面的に整えることもできず、罪の現実から逃れる術もない。しかし、打ち砕かれ、自分の胸を打ちたたき、「罪人の私を憐れんでください」と主に叫ぶ者には、その先に、主の幸いが待っているのです。

 

救いの道は誰にとってもただ一つ

弱者も強者も、貧者も富者も、すべての人は神の怒りを受けるべき罪人です。誰も主の裁きを逃れられません。

救いの道はただ一つ。人となられた子なる神、イエス・キリストは、私の罪のために十字架で死なれ、葬られ、復活されたと信じること。

この福音を信じた者は、誰に対しても変わらぬ原則に立って向き合います。すべての人に伝えるべきは、福音だけです。

自分の正義を振りかざす人の正義が、主ご自身の正義の前に、粉々に打ち砕かれるようにと祈ります。世の終わりには、否応なく、裁きの時代がやってきます。

不条理の極みの中で、主の愛するイスラエルの民が、彼らの罪のために十字架にかけられた、真実のメシアを信じる信仰へと導かれますように。

主なる神の御国と義を待ち望みつつ。

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