Q:クリスチャンは訴えてはいけないの? 裁判・法的訴訟を考える
目次
Q:あまりに悪質な事件に、法的措置も考えているのですが、クリスチャンがクリスチャンを訴えるなんてとんでもない、と言われて悩んでいます…。
1.教会内の争いの外部訴訟の禁止
教会内の問題について、クリスチャンがクリスチャンを訴えることを聖書は禁じています。(Ⅰコリ6:1~8)
お互いを赦して和解できないこと自体が、霊的な敗北を意味しているからです。
福音を信じた者は、来たるべき世界でキリストと共に裁き主として世を治めます。
その聖徒が、自分たちの内部の問題すら裁くことができないとなれば、神の御名を汚すことになります。
2.甘んじて不利益を受けるべき時も
「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。Ⅰコリ6:7」
すべての信者の模範は、主イエス・キリストご自身です。
主イエスは、なんの罪もないにも関わらず、屈辱の極みである十字架刑を受けられました。それは、人類の罪を贖い、救いに導くためでした。
すべての信者は、この十字架の贖いと復活の福音を告げ知らせ、すべての人を救いに招き入れるべく召されています。
クリスチャンである相手を訴えることで、周囲のノンクリスチャンの救いの妨げになるようなことは、厳に慎むべきでしょう。
それは神を悲しませることです。
クリスチャンにとって何より重要なことは、滅びに向かう魂を勝ち取ることです。
3.教会内における懲戒の三段階
一方で、教会内部で行うべき厳しい裁き・懲戒についても聖書は記しています。
まず前提として求められるのは、“個人的に話す”ということです。
「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで責めなさい(マタイ18:15)」。
これは主イエスの命令であり、信者の義務です。この時点で相手が聞き入れるなら、それで問題は解決します。
個人的に話しても問題解決に至らない場合、懲戒は、3つの段階を経て下されます。(マタイ18:15~17)
① 複数の証人と共に指摘する。
「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。(マタイ18:16)」
「もし誰かがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい(ガラ6:1)」
同席する証人は、霊的に成長した人であるべきです。訓戒の責務を負っている長老(牧師、教会指導者)が最適です。証人は、加害者に訓戒を与えます。
② 教会の会衆の前に事実を明らかにし、悔い改めを迫る。
「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。(マタイ18:17)」
パウロは、コリント教会内部の大きな罪を厳しく告発しています。その背後には、悔い改めた者をただちに赦すという愛が満ちていました。
「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。(Ⅱコリント2:4)」
③ 悔い改めない者を除名処分にする。
「教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(マタイ18:17)」
異邦人か取税人のように扱うとは、イスラエルの共同体からの追放を表しています。これを教会に適用するなら、教会からの除名ということになります。
これは、神の守りから外され、サタンの支配下に置かれることを意味します。
「あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(Ⅰコリ5:4、5)」
救われたクリスチャンであっても、重い罪を犯して悔い改めがなければ、最悪、肉体の死という裁きが下ります。
アナニヤとサッピラは、主への捧げ物を偽って、自らの死を招きました。この時には、使徒ペテロが神の裁きを宣告しています。(使徒5:1~17)
4.訴訟が正当化される場合
これらの課程を経てもなお、加害者が非を認めない、あるいは、話し合い自体も拒むという場合には、裁判に訴えることも正当化されると考えます。
教会の言うことさえ聞き入れない者は、「異邦人か取税人のように扱いなさい(マタイ18:17)」とあるからです。
もはやクリスチャンとして扱わなくていい、ということであれば、教会の法である「キリストの律法」の外の問題となります。
パウロは、エルサレムで捕らえられ、鞭打ちをされそうになった時、ローマ市民としてローマ法に訴えています。
また、同胞のユダヤ人からの訴えに対し、エルサレムのユダヤ議会での裁判を拒否し、ローマ皇帝に上訴しました。ユダヤ会議の裁判に応じれば、パウロは途上で暗殺される恐れがありました。
このように聖書は、人権や人命を守るために、この世の法制度に解決を求めることを認めています。
明らかに法を犯した行為については、どうでしょう?
クリスチャンは、この世の権威に服することが求められています。すべての権威は神から来るからです。
ローマの裁判においても、全く非を認められなかったように、主イエスは、ローマ法にも従順でしたし、ローマへの納税の義務も守っています。
懲戒の三段階を経て警告を行い、にも関わらず悔い改めが見られない場合、しかるべき機関に通報すること、法的措置をとることは、聖書的に認められていることだと言えます。
Comment
クリスチャンとか関係ないと思います。宗教専門されてる人に御相談されたら宜しいかと思います。神以前に人としてどうするのか?教会として一人の人間としての自覚が無さすぎます。もう少し大人の自覚持っていただきたいです。私は特別支援学校の教員から怒られました。教員は、海外の宗教は詳しいのであまり守秘義務があるのでそこまでしか言えないですが、人としての自覚持っていただきたいです。
おっしゃるとおり、まず一個の人としての自立が大切ですね。
神様との関係性の中で、一人一人の自立と成長を促していくのが、教会の本来のあり方です。
依存させ、支配するというあり方は、根本的に間違っています。
カルト的教会との関わりがあって、なにか困っておられるということなら、ご相談ください。
カルト問題の専門家の方と連携しながら、問題に対処していますので。