福音宣教は、公の宣言 ライブ配信の恵みを考える
1. 教会は敷居が高い?
「敷居が高い」。最近はもっぱら、高級すぎて入りづらい、というニュアンスで用いられますが、「不義理をしているために訪問しづらい」が、本来の意味です。
教会も、「敷居が高い」とよく言われますが、この場合は、どちらの意味もありそうです。
聖書から言えば、私たち人間が神様の前に出づらいのは、抱える罪のゆえです。
人々が教会の敷居が高いと感じるのは、当然のことだと言えます。
それでもまずは、福音を聞いてもらわなければなんともならないわけで、教会の敷居を低くするいろいろな試みが行われています。
バザーやコンサート、一般向けのセミナーなどを開催する。新来者をにこやかに迎える奉仕者を置く…。いろんな工夫はあってしかるべきだと思います。
しかし、敷居を下げようと意識するあまり、人々をつまずかせないよう、罪や裁きについては、なるべく触れない、語らない、なんてことになっては本末転倒です。
人は、自らの罪の認識なしに救いに至ることはできません。
2. 信じる瞬間の不思議
敷居を下げるために、どうしたらいいのか。私自身も試行錯誤の中で、一通りのことはやってきました。
つくづく思わされるのは、何が教会に通うきっかけになるかなんて分からないということです。
さらに、福音を信じるとなると、これはもう完全に次元の違うことだとも思い知らされます。
その人が信じる瞬間というのは、いつも予想を超えていて、驚かされます。
娘さんから何十年も福音を聞かされてつづけていた、ある年配の女性が信じたのは、原罪について、創世記から淡々と語った聖書研究の場でした。
難しかったかな、と思って感想を聞いたら、「信じます」と唐突に言われたのです。驚きました。
にわかに受け入れ難く、福音を確認しましたが、「これだけ分かりやすく話されれば、誰だって信じますよ」と、さも当然のように答えが返ってきて、二度びっくりしました。
わずか1時間の学びの過程で、もはや、分からないのが分からないという境地に、その方は入っていたのでした。
体験的に教えられてきたのは、教会の敷居を下げようなんて試みは、その人が信じるかどうかとは、全く関係ないということです。
ただ、人の罪と主イエスの十字架の贖い、葬り、復活の福音を告げればいい。主ご自身が働きかけてくださって、驚きの瞬間がやってくるのです。
3. 伝道は主の御業 遣わされるだけの私たち
聖書の中で、もっともやる気のない伝道をしたのが預言者ヨナでした。
残虐な敵の都ニネベの人々に警告を伝えよ、という主の命令に散々逆らった挙げ句、嫌々、悔い改めを告げた。
すると、ニネベの王も人々もこぞって悔い改めて、罪は赦されたのです。
私たちのやる気や熱量すらも関係ない。
ただ神の計画が成し遂げられていくだけなのだと痛感させられます。
私たちの働きは、まさに子どものお使いです。
すべてを整えられたところに出かけていって、言い渡された用向きを伝える。後は、算段通りに、主ご自身がことを運んでくださるのです。
親が子どもにお使いをさせるのは、子の成長を心から願っているから。
そして、ご褒美を受け取り、使命を成し遂げる喜びを味わい知って欲しいからにほかなりません。
主イエスは、弟子たちに、福音宣教を使命として告げました。それは、すべてのクリスチャンに与えられたものでもあります。
「あなたがたは行って、すべての人をわたしの弟子としなさい(マタイ20:19)」と。
4. 現代に回復される公共の広場
神が、選びの民イスラエルを置かれたのは、世界のハイウェイと呼ばれる交通の要所、世界で最も目立つ地でした。
弟子たちは、福音を神殿で、各地の会堂で、また都市の広場で告げました。
福音は、公の場で、公の宣言としてなされるべきものなのだと教えられます。
教会の敷居を下げるべきだとすれば、この点においてなのだと思います。
つまり、福音を宣言するその場所が、誰もが訪れることのできる、オープンな空間であること。
戦国時代、日本で最初に福音が伝えられたとき、宣教師たちは、町や村の広場に行きました。
辻説法と呼ばれるように、各派の仏教徒たちが教えを告げ、論戦する場所があり、そこで、宣教師たちは福音を告げたのです。人々は、聞いて理解し、信じました。
様々な宗教、宗派、信条を持った人が、それぞれ自由に主張し、議論を交わすことができる、そんな公の場所があったらと思います。
残念ながら、そんな空間そのものが、この社会からは喪失してしまいました。
教会が、いかに、開かれている場所かを強調したとしても、実際には隔絶した小さな空間に過ぎなかったのです。
しかし、インターネットが、公共のオープンな広場を回復しました。
ネット上で、様々な意見や主張を、誰もがやりとりできるようになってきているのです。
キリスト教界という枠組みも超えて、今や、あらゆる言論と主張がライバルとなっているとも言えます。
混沌とした、大変な状況ですが、それこそまさに、クリスチャンが必要としていた場です。
人の世は甘くはないです。
ライブ配信をしたからと言って、視聴者数がすぐに増えるなんてことはありません。
地道で継続した働きかけが求められるのだと、身をもって痛感させられています。
それでも、少しずつ、つながる人々が起こされています。目をとめてくださる、未信者の方もいます。
不思議な主の導きと助けを、覚えさせられる日々です。
福音を告げる公の場所として、これからも、礼拝をオープンに、ライブ配信を続けて行くよう促されているのを感じます。
「行って、弟子としなさい」が、主イエスの命令の中心です。
福音を告げ、御言葉を語り、互いに成長しあって行くこと。
信じる人を起こされ、喜んで学ぶ人々とのつながりを与えてくださるのは、すべて、主ご自身の働きかけによるものです。
これからも、ただ主を信頼して、公の宣言を行い、聖書を解き明かし続けて行くことを心に刻みます。