民主主義が当然に行きつく末路を聖書から考える! 独裁? 世界政府?
1. 民主主義が理想の制度?
世界中で、ポピュリストと呼ばれる指導者の台頭が目立っています。
時に過激な発言もためらわず、国民の人気取りに長けている、そういう人々です。
語源から言うと、ポピュリズムを信奉するのがポピュリストです。
ポピュリズムは、「平民主義,公民主義,人民主義」と訳されます。
あれ?と思いますね。
ポピュリストこそ、民主主義の指導者にふさわしいと言えるでしょう。なんたって、「人民主義者」なんですから。
ポピュリストには、右派も左派もいますが、民主主義によりふさわしいのは、より民衆、人民を強調する、左派ポピュリストだと言えます。
言葉だけで言えば、「民主主義人民共和国」を名乗る某国の首領様こそ、至高のポピュリスト、民主主義国家の最高の指導者だということになります。
2. 歴史が明らかにしていること
歴史を振り返ると、これは冗談ですみません。
ナチスのヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、日本の大政翼賛会も、民主的な選択の結果です。それぞれの国民が、自らの意志で独裁政権を選んだのです。
民衆革命によって起こった共産主義国家では、さらに強力な独裁者が誕生しました。
弾圧や人為的飢餓によってナチス以上の大量虐殺をもたらしたのは、ソ連のスターリンであり、中国共産党の毛沢東でした。北朝鮮もまたその傍流にあります。
ポピュリストの独裁者こそ、民主主義が招く結末でありゴールである。歴史から、そのように説明できます。
右派、左派問わず、世界各地でポピュリストが台頭するこの状況を民主主義の危機と言う人々がいますが、その表現は間違っていることが分かります。
むしろ、世界の民主主義は、本来のゴールである、完成の時にかつてなく近づいているのです。
最終的には、世界を支配する一人の独裁者、究極のポピュリストが誕生することになるのだと思います。
3. 例外的な米国の民主主義
このように、言葉の定義からも、歴史上も、ポピュリスト、独裁者の誕生こそ、民主主義の目指すゴールであると言うことができます。
しかし、実際には、民主主義こそ独裁を防ぐ理想的な制度のように、多くの人が考えています。なぜでしょう?
民主主義が独裁を生み出した一方で、独裁を抑える方向で民主主義が機能した国家も少なからずあったからです。
その代表として、アメリカの名を挙げられるでしょう。
例外的に、民主主義が、独裁を抑える方向で働くことがある。しかし、そのためには、必須の要件があります。
“その国の中に、唯一の神を信じる信仰者が一定数いる”ということです。
アメリカが、民主主義国家でありながら独裁に陥ることなく、そのバランスを保ってきた背後には、聖書の権威を重んじるクリスチャンたちの存在があったのです。
しかし今、そのアメリカでも、真正の独裁者が生まれかねない状況に陥っていると、私は考えています。
アメリカを、キリスト教国と呼ぶことができたのは昔の話です。
アメリカで、主流派のマスコミによる、福音派に対する偏見に満ちた報道が絶えません。それは、そのまま日本にまで流れ込んできています。
「福音派は、トランプ信者だ」というような報道には、辟易します。
聖書の権威を第一とする福音派のクリスチャンが、一人の人間に過ぎないトランプ氏を信奉するなら、それは福音派とは言いません。
日本で言えば、公明党が自民党と連立を組んでいるからといって、「管信者の創価学会員」などとは言いません。矛盾した表現だからです。
福音派の信仰のイロハのイも理解しない、理解しようともしない報道のありようが、現状をよく物語っていると思います。
クリスチャンの社会的影響力は、かつてないほど低下しているのです。
米国大統領のトランプ氏は、右派ポピュリストと呼ばれますが、最も恐ろしいのは左派ポピュリストの誕生だと私は考えています。
左派ポピュリストが国家指導者の座に着いたとき、アメリカは一気に、独裁国家に転じていくかもしれません。
4. 聖書が理想とする統治制度とは?
聖書的に考えると、罪人にすぎない民を主とするのは、罪です。
民主主義ではなく、神を第一とする統治制度が理想だと言えます。
民主主義から、「民」をとって、「主(ヤハウェ)主義」とでもしたらよいでしょうか。
ダニエルの預言では、絶対的な王政を敷いたバビロニアを金になぞらえ、王より法が上にくる立憲君主制のペルシャが銀、民主制・独裁制のギリシャが銅、共和制・帝国主義のローマが鉄とされています。(ダニエル書2:31~45)
聖書的価値観では、王政こそ理想的な統治制度です。
王の権威が低下するほど劣化した制度と見做されるのです。
王を頂点に据える君主制の対極が、民主制であり、共和制です。
しかし、民を主とする民主制は、独裁に至り、共和制国家は、自らの価値観を絶対化して周囲の国々をも従えようとする帝国主義へと陥っていきます。
民主制と独裁制、共和制と帝国主義は、コインの両面のようなものです。
国としての力は、純粋な王政を取るバビロニアよりも、共和制から帝国主義に至ったローマの方がはるか強大でした。
バビロニアは、金。高貴だけど力はそれほどでない。ローマは、鉄。権威的には劣るけれど強力である。それぞれの本質がよく現れていると唸らせられます。
5. 聖書の教える世界の行く末、理想の制度
黙示録は、世界統一政府の誕生を示唆しています。
世界政府は、成立間もなく十の国に分かれることから、その実態は、十の独裁国家による一つの連邦国家という形ではないかと私は考えます。
最終的に、反キリストが現れ、3つの国の独裁者を打ち倒し、世界の支配者となる。それが聖書から予見されることです。(黙示録13章)
この時代の終わりに世界の支配者となる反キリストこそ、究極のポピュリストだと言えます。
聖書から、世界の行く末は明らかですが、そこに至る課程は分かりません。
今、世界はどの段階にあって、いつ世界政府は誕生するのか、なんとも言えません。
大きな視点で見れば、世界はずっと、信仰者と不信仰者の対立のただ中にあります。
不信仰者の勢力が、どんどん増していくのか。それとも携挙の時までは、拮抗した状態が保たれるのか。
そこは、聖書には何も書かれていないので、説明のしようがありません。
右、左と振り子が揺れながらも互いの勢力は拮抗し、ある瞬間に、携挙が起きるのではないかと、私は想像します。
抵抗勢力が消えた世界を、人を主とする勢力が、雪崩のように席巻する。
世界は、強力なポピュリストの上に一つにされ、整えられた舞台に登場するのが反キリストなのだと考えます。
希望はどこにあるのか。
王の王として来られるキリスト・イエスにこそ、私たちは、すべての願いを託します。
世の終わり、7年間の大患難時代の最期、イスラエルの民族的回心を経て、キリストは再臨されます。
そして、反キリストを退け、地上から悪を一掃され、真実の王として世界を治められるのです。
メシアを王とする神の国、千年王国こそ、聖書が記す究極の統治体制です。
今の時代に、クリスチャンのなすべき使命は、2千年前から何も変わっていません。
福音を告げ、聖書を解き明かす。それだけです。