NBUSをめぐって② 二つの批判に私なりに答える
※この記事は、おもにリベラルの立場にあるクリスチャンの方々に向けて、批判に答える形で記しました。
1. NBUSをめぐる、二つの批判
NBUS「神のみことばに立ってセクシュアリティを考えるネットワーク」に対する批判の根拠は、大きく二つに絞られると思います。
①一つは、性的指向、性自認は、生まれながらのものであり、変えることはできない。という前提です。
②これを土台に、もう一つの批判もされます。性的指向、性自認を変えようとする回復治療(転向療法とも呼ばれるようです)は、間違っている、行ってはならない、と言うのです。
(※NBUSが採用した「ナッシュビル宣言」で回復治療について言及しているわけではありません)
このように批判する立場からすれば、NBUSの「性的指向、性自認の逸脱は、人の抱える罪の一つであり、回復もし得る」という立場は、甚だしい人権侵害、人格否定であるということになるでしょう。
議論の前提が全く異なるわけですから、両者はかみ合いようがありません。
NBUSに掲載されたナッシュビル宣言に共感し、署名した一人として、私なりに、この二つの批判に対する返答を考えました。
※性的指向(性的魅力を感じる対象)
※性自認(男か女か、あるいはどちらでもないか、というような自分の属する性の自覚、認識のこと)
2. 性的指向、性自認は先天的なのか?
結論から言うと、性的指向、性自認が先天的なものであるという、医学的、生物学的に認められた証拠はありません。仮説以上のものはないわけです。あると言う方は、ぜひ具体的にお示しください。
実態はどうなのでしょうか。
LGBTQの当事者の中に、物心ついた時には、ゲイだったとか、自分の性に違和感があった、と言う人がいます。
しかし、生まれながらにそうだった、と言われると、疑問が浮かびます。
生まれた直後の性自認なんて分かりません。赤ん坊に性欲はあるでしょうか?
そもそも性的な自覚というのは、成長の過程で生じてくるものです。
LGBTQ当事者の中でも、自覚を持った時期は人それぞれです。物心ついた時、思春期、あるいは成人になってから、という人もいます。
それまで全く自覚も関心もなかったのに、大人になったある時点から同性に性的魅力を感じるようになった、性的な違和感を覚えるようになったという人も少なからずいます。
あるゲイの方は、今のパートナーである男性のことで、彼は出会った当初は異性愛者で自分に見向きもしなかったけど、ある時点で、その彼が、ゲイである自分に恋愛感情を抱いた、と証言されていました。
別のレズビアンの方は、レズビアンである一人の女性と出会って以降、その女性を好きになり、一緒に暮らすようになったと話されていました。
ゲイと自覚しているけれど、ある時はじめて、一人の女性を好きになったと言う人もいます。その瞬間からバイセクシャルになったとも言えるでしょうか。
性暴力の被害を受けて、それ以来、自分の性が受け入れられなくなったという不幸なケースもあります。
逆に、一時期、自分の体の性に違和感を覚えて嫌でしょうがなかったけれど、今はそのまま認めて落ち着いているという人のことも、実例として私は知っています。
このように、性的指向や性自認が変わったというケースも多々あるわけです。
性的指向、性自認は変わりうる。ということ自体は、広く認められているように思います。
そもそも、性的指向、性自認とは、不安定さを抱えたものなのだろうと私は考えています。
3. 回復治療は間違っている?
このように成人してからゲイになったとか、性自認が揺らいだという人がいるわけです。
私自身、個人的な証言として、何人もの方から、そのようなことを聞きました。
ならば、逆の人がいてもおかしくありません。
実際に、同性愛者だったけど、異性愛者に変わった。性に違和感があったけど、そのまま受け入れられるようになったという人もいるわけです。
性の多様性を認めろというならば、回復したという人々の存在も認めて、受け入れるべきだと思うのですが、LGBTQの枠の中からは(+も含めて)、完全に外されているようです。
当事者の声を大切にするというのであれば、回復したという人の存在も、そのまま認めるべきではないでしょうか。
LGBTQから回復した、と証言している人々は現に存在しています。
その中には、専門家によるカウンセリングに助けられたと言っている人たちがいます。
それが、「回復療法」と呼ばれるものですが、回復療法には厳しい批判があります。
ある方が以前、私に対する批判のコメントで、以下のことを紹介されました。
『https://wired.jp/2012/10/16/homosexuality/ には、『むしろ、場合によっては有害となりうる。事実、しばしば起こる「回復療法」の失敗が、自尊心の喪失やストレス、罪悪感、鬱、自殺する傾向の増加を引き起こす可能性がある。こうした理由から、APAは(そしてAPAに協力する精神科医や心理療法士の科学コミュニティは)、「回復療法」の実践を行わないよう呼びかけている。』
この引用された文章から分かるのは、「回復療法」が成功した事例があるということは否定していないということです。
あくまでも、失敗したら大変だからやるべきではない、と言っているにすぎません。
どんな療法でも、治療でも、完全に成功が保証されているものなどありません。
そのことを言うならば、性別適合手術を受けた結果、かえって心身の状況が悪化したという方も少なくありません。
しかし、回復療法に反対する人々は、性別適合手術は失敗したら大変だから行うべきではない、とは、言わないわけです。
ここにも、非常なアンバランスさが現れています。
前述の記事を紹介いただいた方からは、なぜ、失敗したケースについて記していないのですか。とありましたので、逆に、なぜ、回復したという人の存在を無視するのですか。とお答えしました。
回復治療は、精神療法の手法を用いて実施されていると私は理解しています。
精神療法が、他者からの強制や、本心では望まないで行われる場合、状態を悪化させる結果を招くことがあるでしょう。
だからこそ、現在行われている精神療法はすべて、当事者の合意を元に、自発性を尊重して行われている訳です。
回復治療も呼ばれるものも、当然、その範囲の中で行われています。
もし、そうでないものがあれば、これも当然のことながら、是正されるべきです。
回復治療にあたる方の講演を聞いたことがありますが、非常に繊細に丁寧に、慎重な段階を経て、個々のクライアントに当たっていることが、よく伝わってくる内容でした。
この講師は、アメリカで活動している方でした。
「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」では、回復治療のことを転向療法と呼んでおり、当初の憂慮する会の記事には、“「転向療法」とは「手や性器に電気ショックを与えたり、同性愛的エロティック刺激提示と同時に悪心誘発剤を投与したりするなどの身体的・精神的拷問」” と記載されていました。(※「削除されました」と書きましたが、当初のままこちらに掲載されていました。訂正します)
「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」は、NBUSは、このような転向療法を推進しようとしているのだ、と主張されるのです。
絶句します。まるで、かつてのナチス・ドイツや、中国共産党の転向教育そのものです。
共産主義の独裁国家ならいざしらず、民主主義国家でそのような残虐な拷問が行われていると言うのでしょうか。
訴訟社会であり、ハラスメントにも厳しいアメリカで、そのような人権侵害がまかり通るわけがありません。
フェイクをばらまいている、と言われて仕方のない内容だと思います。
このようなフェイクに対して、NBUSのHPで、ナッシュビル宣言には、そもそも「転向療法」については、まったく記していないことが主張されていました。
しかし、「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」では、記されていないことを認めつつも、背後にある意図は明らかに転向療法の推進であると、むしろ主張を強めています。
このように当人が語っていないことがらに対して、勝手に敵対者のイメージを作り上げて批判する。
「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」のHPに見られるのは、典型的な「わら人形論法」です。
こうに違いない。という決めつけが最初にあり、抗議の声も無視して、ますます思い込みを強めてしまっているように見受けられます。
そもそも日本で、「回復療法・転向療法」を行っている実例があるのでしょうか? 私は聞いたことがありません。
「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」に対する憂慮を私は覚えずにはいられません。
「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」に名を連ねる何人かの方々も参加する活動に、私自身関わっていたことがあります。
その中で、「自分たちは利用されているだけではないか」というLGBTQ当事者の声を何人かの方から、聞かされたことがありました。
その人たちは、LGBTQの研究者や、運動家、活動に関わりながら、違和感を覚えて訴えられていたわけです。
自分たちの主張したいがことをアピールするために、LGBTQの人はかくあるべき、という姿を逆に作り上げてしまってはいないでしょうか。
ことさらに、「転向療法」の問題をあげることで、「LGBTQであることを変えようとする、否定しようとする、そのようなLGBTQは、おかしい、認められない」というメッセージをも発しています。
明らかに、多様性の一部をなす人々の存在が、否定されています。
4. 聖書の記す罪と救い
リベラルの立場のクリスチャンと、福音派のクリスチャンとでは、そもそも、「罪」の理解が根本的に違います。
まずこの点を踏まえていないと、議論など成立のしようがありません。
聖書信仰に立つクリスチャンの大前提は、すべての人は罪人ということ。
罪とは、神から離れた状態を指します。
完全に聖である神から見れば、すべての人は罪人で、罪に大差ありません。
人は皆、本来の有り様から離れてしまっている。
ですから、誰もが自分自身の存在に、違和感があって当たり前だと言えます。
私たちは誰もが、自分で制御できない 何かの欲望に振り回されています。
中でも性的欲望は、多くの人にとって最も厄介な罪の問題の一つです。
イエスは、異性を欲望の目で見た人は、心の中で姦淫を犯していると言われました。(マタイ5:28)
旧約聖書の律法は、結婚した男女間以外の性行為のすべてを姦淫とし、死罪に定めています。
心の中の姦淫まで咎められたら、一体誰が、罪を免れ得るのか。
これほどに、人の罪を厳しく指摘する言葉はありません。
イエスがすべての人に突きつけているのは、あなたがたは誰も、罪と死から逃れ得ないという、人間の置かれた厳しい現実です。
神の目から見れば、罪人である私たちの罪に、大差はないでしょう。
死を免れる人などいません。
すべての人が死刑囚であるなら、死刑囚が死刑囚をなじっても仕方ありません。
逆説的ですが、罪という視点に立てば、恐ろしいほどに、私たちは平等な立場に置かれています。
私たち人間は皆、神から離れている罪人だから、罪を犯す。それが聖書に明記されていることです。
罪人が救われる道はただ一つ、「主イエス・キリストが私の罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活した」という福音を信じること、だけです。
だれも、行いでは救われ得ません。
ただ福音を信じた人は、神の恵みのゆえに、一方的に救われるのです。
信仰生活の長短とか、聖書知識や献金の多い少ないなど、一切関係ありません。
私たちは罪人という点で平等なら、救いにおいては、これ以上ないほど公正に神に取り扱われています。
福音を信じた瞬間、その人は、永遠に神の所有とされ、神の聖霊が宿っています。
ただ主に信頼して歩む中で、どうしようもなかった罪の自分が、少しずつ変えられて行きます。
変化や成長は、一筋縄ではいきません。性懲りもなく繰り返す罪があり、気づかされる度に愕然とします。
しかし、信じた後に犯したその罪も、悔い改めたならばゆるされます。
罪を犯し、悔い改めて立ち返り、再び歩み出す。そのただ中で、小さな変化に気づかされていくのです。
完成するのは、神の国で永遠の体を与えられた時ですから、地上生涯で葛藤がすべて消えることは、ありません。
回復の道があるとすれば、主イエスに対する信仰の道しかないと私は確信しています。
しかし、信仰は、自発的なものでなければ意味がありません。
親がクリスチャンだからと言って、子どもが自動的にクリスチャンになるわけではありません。
むしろ、リベラルの立場のキリスト教会に多いように思いますが、いろいろお世話になって、断り切れない雰囲気で、洗礼を受けてしまったなんてことがあります。
しかし、そこに自分自身の信仰が伴っていなければ、ちょっと頭が濡れただけで、何の意味もないわけです。
神が人に、自由意志を与えられました。それは、人を愛する者にするためです。
ロボットに、誰かを愛することはできません。
神に背く自由すらあるからこそ、神を愛する決断もできるのです。
5. めとることも嫁ぐこともない世界がゴール
聖書は、この世界が、最終的に、メシアであるイエスによって、完全に回復されることを記しています。
それが神の国です。
神の国、天国とも言いますが、この地上世界自体が、天国に変えられる。
それが聖書が記す神の計画のゴールです。
主イエスは、神の国では、人は、めとることも嫁ぐこともにない、天使のようになるのだ、と言われました。(マタイ22:30)
神の国に性別はない。性は、この地上の体だけのものだということです。
福音を信じたすべての人は、復活の体を与えられ、涙も拭われ、永遠に、よろこびと平安の内に生かされます。
地上のどんな愛をも越えた、完全な神の愛の関係の中に、福音を信じたすべての人は招き入れられるのです。
ここに、性について悩む、すべての人への福音があります。
神の国で、性的違和感による苦しみはなくなります。
同性でも異性でも、福音を信じた者は、大きな神の愛の内に堅く結ばれます。
神の国において、人には、孤独も飢えもなく、欲望にさいなまれることもありません。
この地上にあっては、私たちには、自分にはどうしようもない絶望があります。
福音を信じて歩み始めても苦しみが完全になくなるわけではありません。
戦いは続きます。
しかし、主イエスが完全に回復された世界に招かれた時には、一切の苦しみは取り去られる。
それが聖書が記す希望です。
私たちの抱えるあらゆる罪と苦しみへの最終的な回答が、聖書には確かに記されているのです。
■関連記事■
「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」を心から憂慮する
同性愛者の救いを妨げる、クリスチャンの、罪に関する二つの間違った態度
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会
Comment
ブログ記事を拝見しましたが、以下の部分に誤りがあるので指摘させていただきます。
【「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」では、回復治療のことを転向療法と呼んでおり、当初の記事には、“「転向療法」とは「手や性器に電気ショックを与えたり、同性愛的エロティック刺激提示と同時に悪心誘発剤を投与したりするなどの身体的・精神的拷問」” と記載されていました(現在は削除されています)。】
とブログ記事にありますが、「(現在は削除されています)」の部分は事実と異なる「フェイク」です。私たちは趣意書から上記の文言を削除してはいません。以下のURLからご確認ください。
公式Webサイト
https://against-nbus.org/letter_20220818/
change.org
https://onl.bz/KzmnSBP
当該記事はこちらでWeb魚拓を取っていますが、今後の検証のために【削除せず】、別ページで9月21日までに当該記事が誤情報であったという訂正記事を公開してください。
ご指摘ありがとうございます。
本文の場所が、よく分からず、削除されたものだと思い込んでしまっていました。単純に私の見落としです。大変失礼いたしました。
他の方からも、指摘をいただいたので、確認させていただきました。
その旨、本文中に訂正を入れておきました。
別ページで、訂正記事を公開してください、とのことですが、訂正のやり方まで支持することに、とても支配的で、抑圧的だと感じました。