十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:救われない、とか。キリスト教は、傲慢じゃないですか?

2017/12/06
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q:あの人は救われていなかったなんて、キリスト教は傲慢ではないですか?
だいたい、キリスト教を知る機会もなかった人はどうするんですか?

1.救われなかったとは断言できません!

死の淵で、その人に何が起こったかは、分かりません。意識が遠のいていく最後の瞬間に、キリストを思い出して信じたかもしれないからです。

日常生活では、聖書を読む機会もない、戒律の厳しいイスラム教国で、夢の中でイエスと出会って信じた、と不思議な証しをしている人々もたくさんいます。

ですから、この人は救われなかったとは、誰も断言はできないのです。

神様だけがご存じです。天国では、驚くような出会いがたくさん待っているだろうと思います。

2.神を知らなかったとも言えません!!

人を裁く者、つまり、自分の基準で善悪を判断する人に対して、聖書は、神を知らなかったと弁解する余地はないと、断言しています。(ロマ2:1)

なぜなら、自然を通して、誰もが創造主の存在を知ることができるからです。神のご性質は、神が造られたこの世界そのものに現れています。(ロマ1:20)

すべての人に、創造主なる神を知る機会は与えられており、誰も弁解はできないというのが聖書が語ることです。

3.神は、公正な裁きを行う方です!!!

今の時代、つまり、イエスの十字架と復活以降の教会時代に、人が救われるために必要なのは、福音の三要素を信じることです。

つまり、イエス・キリストは、わたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活されたと信じることです。

では、十字架以前の人はどうだったかというと、救い主について、その時代に明らかにされていたことを信じることを求められました。

イエスの右隣の十字架につけられた囚人には、復活のことなど知る余地もありませんでしたが、彼は、イエスがメシアだと、彼の知り得たことを信じて救われました。

今の時代、創造主の存在を信じ、受け入れた人は、救い主イエスとの出会いに導かれます。わたし自身もそうでした。

かつて原始的な生物と呼ばれていたものすらも、他と取り替えの効かない、驚くほどの完全さと精密さを持って、その命が保たれていることが分かっています。

人の手で造られた、どんなに精密な機械も及ばない完全さを、自然のいたるところに観察することができます。

誰も、神を知らないとは言えない。だから、誰も神の前の裁きで言い逃れをすることはできないのです。

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