③第二次世界大戦下のイスラエルとパレスチナ ハッジ・アミン・アルフセイニ
1. ヒットラー政権の誕生
1933年ドイツでヒットラー政権が誕生、ユダヤ人追放や、公民権剥奪など反ユダヤ政策が強まるにつれ、ドイツからのユダヤ人移民が激増しました。
1936年には、ユダヤ人人口は38万5千人と総人口の30%に達しています。
一方、アラブ人の暴動や襲撃事件も数を増し、対してユダヤ人過激派が登場し、報復の応酬が行われました。
過激派の報復に対しては、ユダヤ人内から激しい非難の声が挙がっています。
英国から分割提案が出されるに至り、アラブ人襲撃事件はさらに激化。これを受けて、英国は厳しいユダヤ人移民制限を課します。
2. 第二次世界大戦の勃発 1939年
開戦後まもなく、テルアビブがイタリア空軍の爆撃を受けます。イスラエルにも大戦の火の粉は飛んできました。
イギリスの厳しい移民制限下で、ドイツからのユダヤ人難民の多くは、英国が管理する収容所へ送られました。
1941年には、ナチスによるユダヤ人大虐殺が始まります。
3. ハッジ・アミン・アルフセイニ
開戦時、エルサレム法官であり、パレスチナの公的指導者だったハッジ・アミン・アルフセイニは、当初からヒトラーを支持し、ユダヤ人に対する襲撃を煽っています。
英国に公職を追われ、亡命したフセイニは、1941年からはヒットラーのいるベルリンに滞在。ヒットラーのユダヤ問題についての相談役を果たしました。ある時は、アウシュビッツを視察し、ユダヤ人への大量虐殺の支持を表明しました。
以下のように煽動した記録もあります。
「立て、アラビアの息子達よ、聖なる権利を守るために戦え。手当たり次第ユダヤ人を殺せ。皆殺しにせよ。あふれでるユダヤ人の血は、アッラーがお喜びになる。我らが歴史と信仰を満足させる。これで我らの名誉は救われる」
アラブ世界に対しても、ドイツのプロパガンダ放送は行われていました。
1944年には、フセイニの統括するドイツ・アラブ・コマンド隊が、テルアビブの水源を毒物汚染する目的で、落下傘でパレスチナに降下、これは未然に防がれています。
フセイニが編成したムスリム部隊ハントゼラー師団は、ユーゴスラビアのユダヤ人、セルビア人、ジプシーを虐殺しました。
3.パレスチナと、ナチスと、ユダヤ人虐殺
第二次世界大戦中、フセイニを筆頭として、パレスチナ指導部は、ヒットラーのユダヤ人問題の最終解決とヒットラーの戦争を支持し、軍事協力も行っています。
ある時には、フセイニは、ハンガリー政府が数千人の児童を逃亡させようとしていたところに、アイヒマンと共に介入し、絶滅キャンプに送りました。
ヒットラーが、欧州のユダヤ人問題の解決後には、アラブ域のユダヤ人殲滅に専念すると約束していたことを、フセイニは、自身の日記に記しています。
戦後、フセイニは、ナチス戦犯に対するニュルンベルク裁判でも有罪を宣言され、エジプトへ亡命しました。
しかし、アラブ世界では、フセイニの人気は戦後にむしろ高まり、1948年、パレスチナ評議会は、フセイニを最初の議長に選出しています。
PLOのヤセル・アラファト議長は、フセイニを英雄と呼んでいます。
(写真:不毛の荒野を灌漑してできたナツメヤシの果樹園。イスラエルの主要な作物の一つとなっている。)
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