動画&まとめ ⑨マルコ7章「こぼれ落ちてくるほどの恵み」フェニキヤ・カナンの女の信仰に学ぶこと
1. イエスの口伝律法批判 7:1~13
ユダヤ議会から派遣された告発者が、イエスの弟子たちが食事前に手を洗わないことを問題にします。
口伝律法では、食事前や帰宅時などに清めの儀式が求められていました。
神への背きの末にバビロン捕囚の裁きを受けたユダヤ人が、二度と律法を破らないように律法の周りに張り巡らした予防の垣根。それが口伝律法です。
この時代、口伝律法は、律法と同等の権威を持つものとされていました。
イエスは逆に、彼らの偽善を糾弾します。自分の家や財産を神への捧げ物(コルバン)と宣言して、両親の扶養義務を逃れるような者が多くいたのです。
イエスの反論のポイントは、
①口伝律法は人の教えに過ぎない。
②口伝律法の教師は偽教師である。
③罪の本質は、人の心の中にある。ということです。
律法の本来の清浄規定は、人の罪と神の聖なることを教える視覚教材です。
2. フェニキヤの女の信仰告白 7:24~30
ガリラヤを離れツロの地方へ行くイエス。ずっと異邦人の地だったここは、イスラエルに約束された地の一部です。
この地にもユダヤ人の共同体があり、大勢の人々が押しかけてきました。
その中に、スロ・フェニキヤ生まれのギリシャ人がいました。マタイでは、カナン人の女と蔑称で呼ばれています。
娘の癒やしを執拗に願う異邦の女に、イエスは、子どもたち(イスラエル)のパン(福音)をとって子犬(異邦人)に与えてはならない、と言われました。
当時のユダヤ人は、異邦人を「犬(野良犬)」とい蔑んで呼びました。「子犬(飼い犬)」は、いくらか柔らかい表現とは言え、本質はさほど変わりません。
しかし女は、罪深い異邦人であることを認めつつ、「食卓の下の子犬でも、パンくずをいただきます」と、神の恵みの大きさを信じ、告白したのでした。
娘は、女の信仰により、たちどころに癒やされました。
3. 二重の障害の癒やし 7:31~37
その後、イエスは、命を狙うヘロデ・アンティパスの領土を避けて、ガリラヤ湖東岸のデカポリスへ向かいます。
そこでイエスは耳が聞こえず、口のきけない人を癒やしたのでした。この時点の癒やしには信仰が求められます。
イエスは、ジェスチャーでご自身が癒やす力を持つメシアなのだと男に示し、男は信じて癒やされたのでした。
4. 今の教会時代に覚えるべきこと
「キリストから離れ、イスラエルから除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もなかった(エペ2:11~12)」異邦人の私たちは、ユダヤ人が福音を拒んだために、救いに預かるものとなりました。
しかし、イスラエルは神の約束のゆえに決して見捨てられていません。世の終わり、彼らが民族的悔い改めに至ったとき、主イエスは再臨されます。
イスラエルの救いを祈り、彼らの物的必要のために捧げること。教会の完成に向かって、福音を告げ知らせ、ユダヤ人に妬みを引き起こしていくこと。それが、私たちに求められています。