Q:祈っても平安がなくて… 平安だけで選んでいいの?
目次
Q:どうすべきかと悩んでずっと祈っているのですが、一向に平安がなくて。やっぱり、やめておいた方がいいですよね?
1.平安のあるなしが、一番大事?
ある人が、倫理的な問題を起こし、相手への償いのために具体的な行動を起こすことを求められていました。
ところが、相手への返事は、しばらくないまま。ようやく連絡がきたと思ったら、「祈っても平安がない」と言うのです。
要するに、償いをもっと軽くして欲しいということでした。
自分の負担が軽くなれば、楽にはなるでしょうが、聖書の言う平安とは、そんなことなのでしょうか?
2.平安は一つの大事な目安ですが…
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。ロマ8:6」
クリスチャンの内には、福音を信じた瞬間から、聖霊が住まわれています。
主の御霊に従って歩んでいる限り、クリスチャンの内には平安があります。
一方、主に背き、欲望にまかせれば、不安や恐れにさいなまれるでしょう。
これは果たして主の御心にかなっているのか。自分の内に平安があるかどうかは、一つの大切な目安です。
3.平安があるから始める?
80歳にしてイスラエルの指導者として召し出されたモーセは、できない理由を並べ立てて必死に抵抗しています。
神にしるしを約束され、なだめすかされて、ようやくパロの前に立ったモーセに、平安があったのでしょうか?
モーセの後を継ぎ、約束の地にイスラエルの民を導いたヨシュアは、何度も「恐れるな」と主に励まされています。
ペテロは、湖の上の主イエスに近づきたいと無我夢中で波の上に踏み出しましたが、ふと我に返った瞬間、恐れに捕らわれ、溺れてしまいました。
偉大な信仰者たちも、多くの不安を抱えていました。それでも、神に強く押し出されて、未知の領域に踏み出して行ったのだと教えられます。
4.平安というしるし
モーセは約束の地を目の前にして生涯を終えましたが、その目はかすまず、気力も衰えていませんでした。
多くの迫害と試練を通過したペテロですが、彼の記した手紙は、落ち着いた筆致で、平安に満ちたものです。
平安は、主に従って歩み出した結果として与えられる、しるしです。
この選択が正しかったんだと、内に与えられる平安を通して確認させられるのです。
主イエスが幸いだと言われたのは、心貧しく、悲しみ、義に飢え乾き、迫害される者でした。
心の奥底にある感情の源泉から湧き上がるのが、喜びです。
たとえ、言いがたい苦難の中にあり、深い悲しみに包まれていたとしても、心の奥底には、揺るぎない不思議な安らぎがある。それが本当の平安です。
5.不安や恐れを認めよう
主を信じる者には、試練があります。心揺るがせられる出来事が、避けようなくやってきます。
主は、愛する者に試練を与えられます。それは、主が、クリスチャン一人一人の成長を願っておられるからです。
我が子の成長を願わない親がいるでしょうか?
たとえ子どもが重い障害を抱えていたとしても、ほんの些細な心身の変化を見逃さす、それを喜ぶのが親です。
父なる神は、私たちの信仰が成長し、救いの確信を強めていくことを望んでおられます。
成長に応じて、喜びも湧き出し、平安に満たされていくのです。
クリスチャンには、チャレンジが与えられます。未知の領域に踏み出すとき、不安や恐れはつきものです。
感情を無理に打ち消す必要はありません。
アブラハムもヨシュアも、「恐れるな」と主に語りかけられました。信仰の勇者たちも、恐れを抱えていたのです。
“私には恐れがあります。しかし、主よ、あなたに従って歩み出しますから、どうか落ち着きと勇気を与えてください”
それが、私たちが神に祈り、求めるべきことです。
困難の中に踏み出して行くとき、確かに味わわされる平安があります。
平安がないことを理由に、足踏みしているなら、心はますます騒ぎ立っていくばかりでしょう。
クリスチャンに、苦難を避けて得られる平安などないのです。
6.約束された平安を得るために
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。マタイ 11:28 」
教会の看板によく掲げられているこの聖句には、大事な続きがあります。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 マタイ11:29」
くびきとは二頭の牛の首にかけて、一つの農具を引かせる道具です。
クリスチャンは、キリストの使命を共に担ってこそ、平安を得ることができるのです。
逆に言えば、使命を担わない人は、本当の平安を得ることはできない、ということです。
すべてのクリスチャンに共通して与えられた使命とは、主イエスの十字架と復活の福音を述べ伝え、聖書を学び、弟子として育みあっていくことです。
クリスチャンが間違いを犯すことも当然あります。
その時こそ、平安を一つの基準にしたらよいでしょう。
主イエスは、聖霊を通して、私たちの心をざわつかせ、過ちに気づかせてくださるからです。
過ちに気づかされたら、悔い改めればいいだけです。
失敗を恐れる必要はありません。何度も失敗したペテロは、何度も悔い改めてその信仰を育まれ、大きな働きを託されていきました。
主に従い歩み出す、狭い門こそ、平安につながる道です。
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。マタイ11:30」
7.まとめ 自分の気持ちではなく、主に聴き従うことを第一に
未知の領域の試練に踏み出していくときに、主が前もって平安を味わわせ、励ましてくださることがあります。
しかし、この平安は、主から一方的に与えられる特別な恩恵です。
いつも平安ばかりを求めているなら、おかしなことになります。
やりたくないことをやらない言い訳に、平安がないと言い出したり、指導者が、自分の欲望を満たすだけのことを、平安が与えられたと言って押し通す。
結局それは、平安という言葉をいかにも信仰的に用いながら、自分の感情を絶対化しているだけの不信仰です。
聖書を読めば分かるのは、多くの聖徒たちは、不安のただ中で、それでも主を信頼して一歩を踏み出すよう促されているということです。
踏み出した結果、それが確かにそれが主の御心に適っていたことを、平安をもって知らされるのです。
この世に信仰者の安住の地はありません。
私たちは、主を信頼して歩み続ける限りにおいて、不安のただ中で、確かな平安を味わわされていくのです。
「恐れるな。強く雄々しくあれ。」
主の励ましに押し出されて、次の一歩を踏み出し続ける。それだけです。
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連日新型コロナウイルスの事でやってますが、手洗い消毒、換気等のしっかり予防してください。大変な時期だと思います。3月は卒業式4月は入学式があるのでこの2ヶ月乗り切れば、少しは大変な時期は乗り越えると思います。新生活などもありますが、私も応援しています。コロナウイルスに敏感になら過ぎないようにお気をつけてください。そこから厄介事に巻き込まれないようにお気を付けてください。
ありがとうございます。
状況を見定めつつ、4月から集っての礼拝の再開を考えているところです。
しっかりした備えが求められますね。