Q:幼児や知的障害者の救いはどうなるの?

   

Q:福音を信じることだけが救いの道だと言われますが、幼くして死んだ子や、理解ができない知的障害者はどうなるんですか?

わたしの息子も知的障害者なので、切実な問いです。

1.信じる責任は、知り得た情報に基づきます!

聖書が記す救いの土台は、イエス・キリストの十字架です。しかし、それは、十字架以前の旧約時代の人々には、知り得ないことでした。

その時代の人々は、神の救いについて、知り得た内容について応答する責任を求められたのです。

たとえば、イスラエル民族の始祖アブラハムの場合に知らされたことは、創造主なる唯一の神が、アブラハムの子孫から救い主を送られるという約束でした。彼は、その約束を信じて救われたのです。

では、直接、福音を聞く機会のなかった人はどうでしょうか?

誰もが、この自然を通して創造主の存在を知ることができるのだから、誰も神を知らないとは、言い逃れができないと聖書は記しています。

たとえ、福音を直接聞く機会がなかったとしても、与えられた情報の中で神に対して応答する責任が、すべての人にあるということです。

2.幼児や知的障害者は?

救いの原則は誰もが同じで、責任は、その人の理解する能力と、与えられた情報に基づきます。

そもそも、福音を知的に理解することができないのなら、責任は生じようがないでしょう。

赤ん坊や幼児の救いについて、聖書は明言していませんが、推測できる箇所はあります。

ダビデは、不貞の末に宿した赤ん坊が、死の淵をさまよっている間は、断食して必死に祈りましたが、死んだ後は、断食も祈りもやめて、すべてを神に委ねました。(Ⅱサムエル記12章)

死んだ赤ん坊の魂は、神が適切に取り扱ってくださると、ダビデは信頼したのです。

神は、公正な義の神であり、同時に、途方もなく憐れみ深い、愛の神です。

赤ん坊や幼児、知的障害者については、神様が適切に扱ってくださると、信頼すればよいのです。

3.それでもやはり、伝えていくことは大切

赤ん坊は、無垢ですが、罪の性質を持って生まれてきます。

それが証拠に、私たちは成長するに従って、誰に教えられなくとも、嘘をつき、罪を犯すようになります。

神が幹だとすると人間は枝です。人類という枝の根元から折れてしまっているのですから、枝の末端も、当然、幹から離れています。原罪とは、そういうことです。

 

では、いったい何歳頃から、いつの時点から、福音を信じるかどうかの責任が問われるのか? 定かではありません。

子どもは、知的に成長するに従って、罪を犯すようになっていきます。

いずれにしても大切なのは、子どもの成長に応じて、福音を伝えていくことだと思います。

知的障害の我が家の息子。知的には2~3歳くらいと診断されますが、彼にも、以前からずっと聖書の話をしています。

絵本を読んだり、DVDを観たり、礼拝のメッセージも喜んで、大人と一緒に聞いています。

彼なりに受け止めて、理解して、神様に信頼しているのだと感じています。

 

わたしは、聖書全体を、最初から最後まで一つの物語として、子どもたちにも話しています。

2歳から5歳の保育所の子たちや、発達障害を抱えた子たちにも話しましたが、ほとんどの子は、しっかり聴いてくれます。

福音を語るのにも、またそれを信じるのにも、年齢は関係ないと感じています。

 

神様の愛は、その人の存在自体を受け止めるところから始まります。創造主は、ご自身が造られたすべてのをものを、よし、とされた方だからです。

神様は、造られたすべての命について、すべての責任を負われています。罪に対する裁きも、神様の責任の現れです。

何より、ご自身の愛するひとり子を私たちの身代わりとして差し出されたところに、これ以上ない、神様の愛と責任の深さが表れています。

幼くしてなくなった子の救いは、神様に信頼して委ねればいいと思います。

知的障害者に対しては、彼ら彼女らなりに、理解して受け止められることがあるんだと、それもまた、神様に信頼して、福音を伝えたらいいと思います。

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