女性牧師の可否を聖書から考える
目次
1.女性牧師をめぐる現状
教会の女性牧師を認めるか否か。
教派教団によって異なる立場があります。今まさに論争となっている国や地域もあります。
同じ地域教会の中で、個々の意見が違うという場合も多々あるようです。
実態を見ると、この日本では特に、他国に先駆ける形で、女性牧師を認めている教派教団が少なくありません。
むしろ、女性牧師を認めない立場の方が少数になっているような印象すらあります。
日本が母性社会であり、日本の教会も極めて母性的な特徴が強いことが、大きく影響しているように思います。
(参考:決められないクリスチャン。父性の欠けた教会。母性的日本のキリスト教会の問題点を考える。)
鹿追キリスト教会の所属する聖書フォーラムでは、代表は、男性のみとしています。
副代表には、女性もいます。女性のグループや、子どもに対する働きでリーダーを務める女性もたくさんいます。
聴衆に男性がいる場所で、聖書の解き明かしすることができるのは男性のリーダーだけだということです。
牧師に相当する働きを担う者。教団教派によって、名称はいろいろあります。
牧師が実際に担っている役割も様々なことがあります。
しかし、牧師に与えられているユニークな権限というと、一つしかないように思います。
つまりそれが、「その地域教会(共同体)において、男性の信徒(メンバー)が集うところで、聖書を教え、解き明かす」ということです。
ここでは、牧師の役割を、その一点に絞ったところで、女性牧師の可否を考えたいと思います。
2.女性牧師を認めない聖書的理由
女性牧師を認めるかどうかは、聖書理解の違いにかかっています。
女性牧師牧師を認めない聖書的根拠。それが、Ⅰテモテ2:11~12です。
「2:11 女は、よく従う心をもって静かに学びなさい。2:12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。」
聖書全66巻を、霊感を受けた、すなわち神が正しさを保証されたものとして、字義通りに読むならば、明確です。
聖書は、女性が男性に聖書を教えることを認めていません。
理由は、次節に明記されています。
「Ⅰテモ2:13 アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。」
神が、そのように造られた。
神の創造の秩序を前に、被造物である私たち人間が異論を唱える余地はありません。
神が人と結ばれた契約の主体となる相手は、常に男性です。
聖書で人を数える時には、成人男性の数で数えます。
神との契約の責任を担う者として、男性の人数がカウントされているのです。
テモテ書では、もう一つ説明が加えられています。
「2:14 そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。」
パウロは、この結果を見ても、女性が教えることはふさわしくないと、ダメ押しをしているわけです。
3.聖書における女性指導者?!
女性牧師を認める理由はいろいろあります。
女性差別である。今の世にそぐわない。当時の状況の中で言われたことで、現代に適用すべきではない…。
これらの説明は、そもそも、聖書を神の言葉として読む立場とは、一線を画しており、全く相容れないものです。
聖書を字義通りに信じている、という時点で、こちらの意見は、まともに相手にされませんし、議論にはならない、というのが、私の体験です。
聖書には女性の指導者もいる。という理由についてはどうでしょうか。
挙げられるのは、ミリアムやデボラやプリスカといった名前です。
① ミリアムの場合
モーセの姉ミリアム。モーセが王宮で育てられるように計り、海を渡った奇跡の後には、民を先導して、神への賛歌を捧げました。
イスラエルの共同体の中での存在感も大きく、リーダーとしての役割も担っていたことと思われます。
しかし、教師という立場で言うと、この時代に、神の言葉を民に教え、解き明かす権限を担ったのは、モーセ一人だけです。
ある時、ミリアムは、自分にもイスラエルの指導者としてふるまう権限があると強く主張しました。
その結果、神から厳しい懲らしめを受けています。
② デボラの場合
デボラが活躍した士師記の時代は、邪悪に満ち、イスラエルの歴史の中でも最も混沌とした時代です。
この時代、イスラエル全体を治める王はなく、部族のリーダーとして立てられ、限定された権限の中で用いられたのが士師でした。
士師の中には、サムソンのように、律法を破りたい放題のとんでもない人物がいます。
士師だから、正しかったとは言えません。
サムソンに現れているのは、両親の信仰であり、イスラエルに対する神の憐れみです。
ただ一人の女性の士師デボラの場合には、男性の指導者バラクを立てた上で活動しています。
デボラの役割は、指導者や律法教師ではなく、預言者だったと理解するのが的確だと思います。
③ 新約聖書において
女性の預言者は、アンナやピリポの娘たちなど、新約聖書にも登場します。
彼女たちは、神から受けた言葉、預言を、そのまま告げましたが、それを人々に解き明かし、教えることはしていません。
預言者自体は、この時代に知るべきすべての神の啓示が、黙示録で完成された時点で、その役割を終えています。
プリスカの名前が印象的なのは、5回の内の3回は、夫のアキラよりも名前が先に記されていることです。
当時としては極めて異例なことで、プリスカのリーダーとしての働きの大きさがうかがえます。
しかし、それだけをとって、プリスカが牧師だった。聖書を男性にも教えていたと言うのは、あまりにも短絡的です。
プリスカの名は、常に夫アキラと共に記されており、聖書的秩序がそこに保たれているとも説明できます。
アポロに正しい聖書解釈を説明したときにも、プリスカはアキラと共にいました。
デボラやプリスカに見られるのは、むしろ、女性が信仰共同体の指導的立場につくことを巧みに避ける姿です。
執事としてパウロに紹介されている女性フィベも、牧師ではなく、プリスカと同様の立場だと思われます。
4.現実とは真逆の神の選びの理由
日本に多くの女性牧師がいるのは、男性の信徒も、献身者も少ないという現実的な理由が大きいのだと思います。
信仰など、女子どものものだ、という意識もいまだに根強いのが日本の社会です。
私も、つくづく男性リーダーを育てる難しさを実感させられています。
そもそも、男性信者の方が、数が圧倒的に少ない。
女性を指導者にした方が、よっぽど早いでしょう。学びにも奉仕にも熱心な女性の信徒はたくさんいるのですから。
牧師としての働きを見たときにも、むしろ、女性牧師の方が、有能だと感じられる人が多いようにも感じます。
どうやったら、一つの地域教会を任せていける男性リーダーを育てられるか。私にとっても悩みの種です。
しかし、だからこそ、譲ってはならないのだ、とも強く思わされています。
堕罪の場面では、まず女が蛇にだまされて、禁断の実を食べ、次に男に与えて食べさせました。
あの場の主導権を握っていたのは男ではなく女でした。
元来の実際的な支配力、実務的な管理能力が高いのは、女性の方だ、ということなのかもしれません。
とりわけ、並行する様々な事柄を、複合的に処理していく、という能力は、一般に、女性の方が優れていると感じます。
しかし、神はむしろ、能力や効率とは真逆なところに働きかけます。
モーセが召し出されたのは、かつての栄光も過ぎ去った80歳の時であり、「私は口べたです」と、神の召命を再三、拒んでいます。
「強く雄々しくあれ」と、神に何度も告げられたヨシュアは、どうしようもない弱さを抱えていたのかもしれません。
ふさわしくないものをあえて用いる。それが、神の方法ゆえの選びです。
なぜ、わたしは牧師になれないのか、と、自分の資質を主張する女性がいるならば、まさに、そこに、教会指導者にふさわしくない性質が表れている、ということになります。
5.従うべきは、ただ主の命令
聖書が求めるのは、ただ主の命令を信頼して従いなさいということ。
極めて明快で、かつシンプルです。
求められるのは、一つのことに、ひたすら集中していく姿勢です。
私自身、物事を並行して処理するのは極めて苦手で、一つのことに没頭すると、まるで周りが見えなくなるところがあります。
現実生活では、致命的な問題をもたらしかねない困った性質ですが、ただ神に従う、という点においては、有益に働いているように感じさせられています。
一つのことを突き詰めるのは得意だけれど、並立処理が苦手という、多くの男性が備え持つ性質は、神に従うということにおいて、最もよく用いられるものなのかもしれません。
なぜ、牧師は、男性だけなのか。
いろいろと推察はしてみますが、理由は、ひとつ。聖書がそう記しているということだけです。
モーセが、主が命じられた通り、イスラエルの民と共に幕屋を建て上げた時、神の栄光が宿りました。
イスラエルが、エジプトの戦車部隊を背にして、行き止まりにしか見えない、海に向かって歩み出したとき、海が開き、道が現れました。
世がなんと言おうと、時代の価値観がどう移り変わろうと、ただ愚直に、主の御言葉に信頼し続ける者でありたいと切に願います。
付記:支配の権限
「2:12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。」
ここで、女が男を支配することが明確に禁じられているわけですが、では、男には、女を支配することが命じられているかというと、そんな命令は聖書にはありません。
ペテロは、「わたしの羊を飼いなさい」と主イエスに命じられました。
ペテロに、使徒のリーダーとして信者を導く働きが任された訳ですが、これは支配ではありません。羊である信者の所有権は、神にあります。
最後の晩餐で、弟子たちの足を洗った主イエスは、同様の姿勢を弟子たちにも求められました。
若い信者は、地域教会の指導者である長老に従うことを、命じられています(Ⅰペテロ5:5)。
しかし、長老に命じられているのは、以下のことです。
「Ⅰペテロ5:3 割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」
長老は、地域教会の人々を支配することを認められていません。求められるのは、模範としての姿に過ぎません。
「Ⅰペテ5:2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。」
長老に求められるのは、自発的に、喜んで、世話をすること、模範となることです。
妻に対して、夫に従いなさいという命令がありますが、夫に対しては、妻を愛しなさいと命じられています。(エペソ5:25)
支配という権限は、天地万物の創造主である神だけが持っておられるものです。
地の支配権を不法に行使しているのが、悪魔・サタンです。
信者は長老に、妻は夫に、従うことが求められていますが、長老も、夫も、「私に従え」と主張することは認められていません。
求められるのは、愛すること。それだけです。
【関連記事】
Comment
引越し先で、新しく集う教会を探していたところ、意外と女性牧師を容認する立場の教会が多いことに驚いておりました。聖書が一字一句神の言葉であると信じている、という立場でIテモテを読んでなお女性牧師を容認する余地がある、という解釈をしているのだとすると、ほかの聖書箇所の釈義は…と不安になってしまいます。ほかの主たる教義と比べたら小さいことなのかもしれませんが、小さなほころびが大きな過ちになりうると思い、教会選択の際の思わぬつまづきになっています。日本において、教会を探す、という作業ができる(選択肢がある)だけ恵まれているのかもしれませんが、牧される者に与えられている責任をきちんと全うするため、もう少し探してゆこうと思います。ブログ拝読でき感謝でした。有難うございました。
コメントありがとうございます。用いていただければ幸いです。
そうですね。教会探し、ますます困難さが増して行っている現実があると思います。
安心して礼拝に集中できる教会と出会えますように。