Q:教会が政治的な声明を出すのってどうなんですか??

   

Q:天皇制反対とか、基地建設反対とか、政治的な声明を出す教団や教会に
なんとも違和感があるんですけど、これって、どうなんですか?

1. 見過ごせないのは、声明に潜む暴力性!

こういう政治的声明の多くは、その教団や教会を代表する機関や総会から出されています。

主体が、教団教区と明記されている場合もあれば、議長名、委員会名、機関名である場合もあります。その場合は、政治的な判断が働いているわけです。

 

まず問われるのは、それは本当に、その教団や教会の総意なのかということです。

少数でも反対の人がいるにも関わらず、多数で押し切ってしまうなら、こういう声明自体が、数による支配・暴力になってしまいます。

また、暗黙の内に、反対するものは仲間ではない、というメッセージを発してもいます。

 

同様の指摘を、先日、私は、教師籍のある教団教区の総会で投げかけました。

総会議長が答えられたことは、…これは決して強制力のあるものではなくて…この決議をもとに、いろんな取り組みを進めていくもので…、という、そういう内容でした。

なんとも要領を得ない返答だと感じつつ、私が理解したのは、これらの決議は、結局、努力目標のようなものでしかない、ということです。

しかし、努力目標に過ぎないものを、総会の声明として決議することに、一体何の意味があるのでしょうか?

別な場面では、担当委員の方が、声明が決議され次第、関係機関に送付しますと説明されていました。そのことと総会議長の返答との整合性もとれていません。

いろいろと重ねて聞きたかったのですが、議論は打ち切られ、それ以上の質問の機会は与えられませんでした。

 

声明が、どういう具体的な効果をもたらしているか、という検証もなく、教団教区としての具体的な行動に結びつくことも重視されていない。

私がはっきり認識したのは、これらの声明は、結局、体裁に過ぎないということです。

お題目を唱えているだけで、実質的な中身はないのです。

さらには、社会派と呼ばれる教団、教区、教会では、こういう声明を出すこと自体が、信仰の表明にすり替わってしまっていると感じます。

社会的声明を出すことが、クリスチャンの証しになっている。

ですから、体裁を整えるだけの声明だとしても、出さないわけにいかないのです。

このような形ばかりの声明は、相手に対しても何の力も持たないでしょう。

 

これらの声明には、きまって、少数者が軽んじられている、という抗議が含まれています。

しかし、その声明自体が、少数意見を無視した多数の暴力になってしまっているところに、大きな矛盾があります。

どちらも同じ暴力なら、強い方が勝つだけのことです。

 

このような声明を出すならば、個人の連名で出すべきだと私は考えます。

組織によらなければ声明の一つも出せない人が、どうやって大きな権力に向き合えるというのでしょうか?

2. 大切なのは、自発性の尊重!!

クリスチャンが社会的な活動をすること自体には何の問題もないと思います。

現に私たちは、誰もが、属する社会と無関係ではいられません。

生活している地域や、職場、学校など、社会のただ中に誰もがいるからです。

置かれた場所で、取り組むべき問題にぶつかったときに、誠実に向き合うことは、クリスチャンとして、とても大切なことだと思います。

主イエスは、病の人を癒やし、律法主義によって圧迫された人々を解放し、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きました。

 

何かの社会活動に、教会として取り組む必要に迫られる場合もあるでしょう。

それは教会としての尊い奉仕です。

病院や福祉施設、幼稚園や学校などの教育機関…。クリスチャンの社会活動の結果として、社会全体にもたらされてきた、様々な益があります。

その場合に一つ、押さえておくべきことは、すべての奉仕は、自発的なものでなければ意味がない、という原則です。

社会的活動も、奉仕と同様、スローガンを掲げて取りかかるのではなく、祈った結果の応答として、個々人で自発的に取り組んでいくべきことだと思います。

3. ただ一つ、一致するべき福音を!!!

教会が決して忘れてはならないことがあります。

教団、教会が、一致して宣言できることがあるとすれば、それはただ、福音だけだということです。

福音以外の宣言を、聖書は私たちに求めてはいません。

相手が天皇陛下であろうと大統領閣下であろうと、私たちクリスチャンの宣言すべきことはただ一つ。福音だけです。
今、世界のあちこちで、多くのクリスチャンが迫害のただ中に置かれています。

それは、ただ一つの福音を人々が宣言しているからなのです。

すなわち、「主イエス・キリストは、あなたの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活されたのだ」と。

福音は、これを拒む人には、どんな政治的抗議よりも、過激で破壊的な宣言だと捉えられるでしょう。

ただこの福音に立つが故に、北朝鮮で、中国で、イランで、キリスト者は迫害にさらされているのです。
教会が唯一、一致して宣言できること。宣言することを命令されているのは、福音だけです。

福音以上に力ある宣言はありません。

4. 信仰の成長と行いによる証し!!!

福音を信じて救われ、ただ主を信頼し、聖霊の導きに委ねて歩んでいく。

そのとき、どうしようもなかった自分が、それでも少しずつ変えられていくのを経験させられていきます。

私たちは、信仰の成長に伴って、自ずと、周りの人々にも愛を持って接するように変えられていきます。

具体的な行動も求められることと思います。

 

それは、家族との関係性の改善や、職場での配慮、誰かや何かを赦し、和解することだったりします。

時には、不正に対して、それは間違いだと声をあげることかもしれません。

御言葉によって、状況を通して、それが本当に主が命じられた、あなたの使命であるという確信を与えられたのなら、何も恐れる必要はありません。実行しましょう。

ただ主を信頼して一歩を踏み出すならば、そのことを成し遂げることができるように、主が必ず助けてくださいます。

 
私たちのすべての力は、ただ、主から来ます。

福音を信じ、宣言する時、どんな巨大な力を前にしても、ひるむことのない力が与えられます。

そのことを覚えて、今日も、ただ、福音の宣言のために遣わされるものでありたいと切に願います。

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