ビビッとくれば、霊的ですか? 聖書の教える、霊的、霊感とは?
目次
Q:悪霊が見える、なんて話をある人から聞きました。ビビッとくる、そんな経験がまったくない私は、霊的に幼いんでしょうか?
1.世で言う霊的って?
「霊感が強い」なんて言い方が、よくされます。
見えないものが見えるとか、何か感じるとか、イメージが浮かぶとか。いろんなことが言われます。
多くは、なんとなく感じたとか、漠然としたものですが、中には、本当に何かを見聞きしたとしか思えないほどに、詳しく語る人もいます。
クリスチャンにも、「私、霊感が強いんです」なんて言う人がいます。
祈っていて示されました、と、かなり具体的な話を確信もってする人がいます。
ビビッとくるものがなければ信仰が薄いのかなぁ、なんて、感じてしまう人も結構いるようです。
不思議な体験をしていない人は、霊的ではない、鈍感なクリスチャンということになってしまうのでしょうか?
2.一体何を感じてる?
「私、霊感が強いんです」と確信して言う人の中は、確かに何かを見聞きしている人もいるでしょう。
問題は、それは何か、ということです。
私たちが見、聞き、触れ、味わい、匂う、というのは、神経を通して伝達された電気信号を、脳で解析し、再現したその結果です。
一方、スマホの動画は、カメラのセンサーに写った光を電気信号に置き換え、処理し、画面上に再現したものです。
要するに、私たちが感じ取っているものは、再現された電気信号であって、スマホで撮った動画と本質的に変わらないのです。
ですから、脳のいたずらで、現実には存在しないものを見聞きしてしまうことがあります。それが幻覚や幻聴です。
統合失調症を患う人の中には、現実と見分けのつかない幻覚や幻聴に悩まされている人がいます。
人間の脳は、最新のコンピューターでも及びもしない、仮想現実(バーチャルリアリティ)を、たやすく造り出すことができるのです。
中には、何らかの実際に存在する見えないものを、感じとっているという場合もあるだろうと思います。
たとえば、手のひらを向き合わせて、ゆっくり近づけたり、遠ざけたりすると、敏感な人は、空気の玉にでも触っているように感じたりします。
それを、「気」と呼んだりするわけです。
アインシュタインが、「E = mc2」という有名な数式で表したように、物質というのは、極度に凝縮されたエネルギーのかたまりです。
理論上、物質を直接エネルギーに変換できれば、小石一つから、莫大なエネルギーを得ることができるはずです。
そこから、原子力という技術が生まれてきました。
人間の体からも、様々な物質からも、発せられているエネルギーがあります。それを敏感に感じとる人がいても不思議ではありません。
人の感情も、何らかのエネルギーとして互いに伝わりあっているのではないかと思います。
例えば、何人かで談笑している部屋に、誰かが入ってきた瞬間、雰囲気が変わるということがあります。
よくよく話を聞くと、その人が重い悩みを抱えていたなんてことがあるわけです。
この場合は、いわゆる霊感とは別のもので、あくまで五感の延長線上にあるものだと考えた方がいいと思います。
私は、推拿(すいな)という中国式のマッサージの資格を持っています。押すべきツボは、まず外すことはありません。
ここが淀んでいるな、というのは、感覚的に分かるからです。
体には、血流や神経とは別に、エネルギーの流れがあって、重要なポイントがある。それが、経絡とかツボと呼ばれるものなのだろうと理解しています。
これは、体の調子を整えたり、自分や他者の健康管理には、とても役立ちます。
ただし、魂の救いとは、全く関係ありません。
(※いわゆる東洋医学は、病名もつかないような、体の不調を整えるのには、とても有益です。
ただし、重い病気を患ったとか、大けがをしたという時には、やはり、西洋医学に頼るのが適切でしょう。
それぞれに、得意、不得意な分野がありますよね。)
3.本当だとしたら?
中には、気のせいでなく、本当に霊的な何かを見聞きしている人もいるでしょう。
問題は、それがどこから来ているか、ということです。
聖書によれば、本当の霊的体験の出どころは、二つしかありません。神か、悪魔か。どちらかです。
聖書によれば、出どころが悪魔だと明確なのは、死者との交流です。
死者の霊は、陰府(よみ)、もしくはパラダイスにあって、生きている人との交流はできません。
神ご自身が、この世界と死者の世界を完全に隔絶しているからです。
ですから、死者の霊とは、悪魔や悪霊によるなりすましです。
聖書は、口寄せ、霊媒といった霊との交流自体を堅く禁じています。
なぜなら、その実態は、悪魔、悪霊との交流に他ならないからです。
外れる預言も、出所は悪魔です。
聖書の預言者が預言として伝えたことは、その内容の正しさが、神によって100%保証されています。
預言として告げたことが外れるということは、その人が紛れもなく偽預言者だということです。
聖書によれば、預言を外す偽予言者は、例外なく、悪魔、悪霊の術中にいます。
4.聖書が告げる霊的とは?
聖書において何より重要なのは、預言者ではなくて、預言者が告げた預言、すなわち神の言葉です。
預言者は、神に用いられた道具、神の言葉を民に伝える通り管(くだ)に過ぎません。
大切なのは、あくまでも、伝えられた神の言葉なのです。
預言者が偉いのではありません。
神は、偶像礼拝者の呪術師バラムの口すら用いて預言を語らせています。(民数記22~24章)
聖書において、真に霊的な人とは、主に従い、神の言葉である聖書を正しく理解する人のことです。
「霊的イスラエル」と言った場合、これは、主に従う信仰者のイスラエルのことです。
ここから適用して、「霊的異邦人」と言えば、主イエスを信じた異邦人ということになります。
聖書が言う、本当に霊的な人とは、神の言葉をよく聴き、学び、忠実に従う人のことです。
5.霊性を高めるためには?
霊性を高めるためには、正しく聖書を学ぶことが必須です。
つまり、聖書全体の文脈に則って、神のご計画を正しく理解し、真実の著者である神の意図通りに聖書を学んでいくことです。
字義通りに聖書を読むとは、そういうことです。
聖書を正しく学べば、否応なく、現実への適用へと押し出されていきます。
そうやって、クリスチャンは、信仰の成長を促されていきます。
信じる者の内に住まわれる聖霊が、その人を変え、育んでいってくださるのです。
一人一人のクリスチャンは、キリストの一つの体に連なる小さな部分です。
聖書の学びと共に、他のクリスチャンとの交わりも、霊的成長には欠かせません。
何より、主の命令に従う時、私たちの成長は強く促されていきます。
行って、すべての人をキリストの弟子とすること。個々の場所から福音宣教に遣わされて行きましょう。
付記:サウル王が見た、サムエルの霊は、ホンモノ? ニセモノ?
聖書で、唯一、死んだ霊が呼び出されている場面があります。旧約聖書のサムエル記一28章です。
~強敵の侵略を目前にして、神は沈黙している。不安に陥ったサウル王が、禁じられているのを分かりつつ、霊媒に命じて死んだ預言者サムエルを呼び出させた。
霊媒師も驚いたことに、サムエルの霊が現れた。サムエルは、神は、王座をダビデに渡され、サウル王は、不従順のゆえに敵の手に渡されると、告げた。~
このサムエルは、本物のサムエルの霊だったのか。悪魔や悪霊のなりすましだったのか。
私は、以下の三つの理由から、本物だったと考えます。
①霊媒師自身が、サムエルの登場に驚愕している。
…霊媒師がいつも呼び出している、悪霊のなりすましに過ぎない霊とは、全く異質なものだったということです。
②サムエルは、主(ヤハウェ)の名によって告げた。
…ここで、サムエルは、サウルに対して、7回も、「主(ヤハウェ)」の名で告げています。
7は、完全数です。サムエルの預言が、確かに神の言葉であることが、主の名によって、完全に保証されています。
十戒で、主の名をみだりに唱えるな、と命じられているように、神の名、ヤハウェは、軽々しく口にすることはできない、畏れるべきものです。
荒野の誘惑で、イエスを誘惑した悪魔は、聖書すら引用していますが、「主(ヤハウェ)」という主の御名は、避けています。
一方、イエスが引用された聖句には、「主を試みてはならない(申命記6:16)」「主を畏れよ(申命記6:13)」と、主(ヤハウェ)の御名が、明確に記されています。
③サムエルが預言した通りになった。
…サウルは敵に討たれ、ダビデが王となりました。サムエルが語った預言は、完全に成就されました。
悪魔、悪霊は、偽りしか口にしません。サムエルが告げたことは、真実でした。
なんとしてでも、メシアの誕生を阻止したいのが、悪魔です。メシアにつながるダビデの王座を肯定することなど悪魔にはできません。
神に背いたサウルには、すでに悪霊がついていました。悪霊が悪霊を欺くことはできません(マタイ12:26)。ここにも大きな矛盾があります。
本当に死者と生者の世界をつなぐことができるのは、創造主なる神だけです。
サムエルの霊と告げた預言が本物であるなら、そんなことができるのは、創造主なる神だけです。
サムエル記の記述は、サムエルの霊が本物だったことを明確に示しています。
そして、聖書によれば、後にも先にも、この出来事だけが、死者の霊が地上に現れた真実の出来事であったということです。
霊媒、口寄せと交わってはならないというのが、聖書の原則です。
死者の霊は、すべて悪魔、悪霊のなりすましですから、決してそのようなものと交わらないようにしましょう。