Q:羊泥棒って、どういう意味ですか?

      2019/11/09

Q:羊泥棒という言葉に、違和感があります。
羊の言い分は? とも思いますし…。どうなんでしょう?

1. 聖書で、「羊泥棒」と言うと?

聖書に、「羊泥棒」という言葉はありません。

羊を盗みに来る者のことは、主イエスがヨハネ10章で語られています。

「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。ヨハネ10:1~2」

「羊飼い」が比喩的に使われるときには、「主は羊飼い(詩23:1)」とダビデが歌っているように、第一義的に、神ご自身を指します。

主イエスご自身も、「わたしは羊の門です(ヨハネ10:7)」、「わたしは良い牧者です(ヨハネ10:11)」と明言されています。

 

では、ヨハネ10章で言われている、門以外から侵入する盗人、強盗とは何でしょうか?

主イエスが語られた時には、律法主義者のパリサイ人(パリサイ派)を指しました。

彼らは、人間の言い伝えにすぎない口伝律法に神の律法以上の権威を与え、イスラエルの人々をがんじがらめにしていた偽教師であり、実はサタンの側につく者でした。

これを今の教会時代に適用するなら、羊を盗みにくる盗人、強盗とは、福音から外れた教えを教会に持ち込む異端のことだと言えるでしょう。

 

聖書の文脈から「羊泥棒」を理解すると、「あなたは羊泥棒だ」というのは、「あなたは異端だ」ということになります。

それ以外の意味で「羊泥棒」という言葉を使うなら、それは、聖書に根拠のない、現代の口伝律法だと言えます。

2. 今の教会での実際の使われ方は?

このように、聖書に従えば、「羊泥棒」は「異端」のことです。

最近、取り沙汰されることの多い、潜入型のカルト教派というのは、まさに、「羊泥棒」という言葉がふさわしいでしょう。

一人の信徒になりすまして、地域教会に潜入し、忠実に仕え、要職につき、仲間を増やし、一定の影響力を持ったところで、その教会を乗っ取ってしまう。

それこそまさに、正真正銘の「羊泥棒」です。

 

ところが、「羊泥棒」という言葉は、実際には、自分の教会の信者が、よその教会に移ったり、別な集会に通っているというときに、相手の教会の牧師を非難する言葉として使われています。

自分のところの羊である信者を盗まれたと…。この使い方ってどうなんでしょう?

 

聖書で、「羊飼い」という言葉は、第一に、神ご自身を指します。

さらには、神の民の指導者にも、群れを守り、導く、羊飼いとしての役割が求められています。

主イエスは、弟子のペテロに、「私の羊を飼いなさい」と命じられました。

個々の地域教会のリーダーにも、牧者としての役割と責任が与えられていると言えるでしょう。

同時に、一人一人の信者も、地域教会の一員として帰属意識を持って、責任ある関係性を持つことが求められます。

家族が、個々の成長の場となるのは、互いに責任を負い合っているからです。

 

「羊泥棒」という言葉で問題なのは、役割だけでなく、所有権までも、牧師にあると主張していることです。

真実の羊飼いは、主イエスお一人であり、使徒と言えども、雇い人の一人、主の僕に過ぎません。

羊である一人一人の信者に聖霊の証印を押され、所有されているのは、主お一人だけです。

すべての信者は、唯一の真実の羊飼いイエスの下にある、普遍的教会という一つの大きな群れの一員です。

 

聖書で、「羊飼い」「牧者」が良いイメージでたとえて用いられる時には、例外なく神ご自身を指します。

一方、「羊飼い」が悪いイメージでたとえられる時には、道を外れたイスラエルの指導者を指すのです(ゼカ10:3,エレ6:3他)。ヨハネ10章も同様です。

主から預かっているに過ぎない羊を、自分が所有していると思い込む。それが、悪い羊飼いなのだと教えられます。

3. 「羊泥棒」などと言う前に…

「羊泥棒」などと言う前に、当の牧師が考えるべきは、なぜその人は、去ってしまったかということです。

「羊泥棒」という言葉を非聖書的に用いている牧師から、羊が去ったのは、むしろ当然のことではないでしょうか。

 

大切な信徒が教会を去ってしまった体験を、ほとんどの牧師は持っていることでしょう。

黙って去る人もいれば、啖呵を切って出ていく人もいます。

私も、そんな時には、あれやこれやと考えてしまいます。応えきれなかったニーズがあったのか。何か、嫌な思いをさせてしまったのか…。

いろいろと足らないところがあることは、日々突きつけられつつも。ただ、少なくとも、相手に対し、自分自身に対し、何より、主ご自身に対して、誠実であり続けたいと願っています。

自分に非があれば、認めて謝罪する。信仰的にゆずれないことであれば、そこだけは何を言われてもゆずらないと。

立てるところは、そこだけです。

 

不満が噴き出したときには、まずは、牧師自身が自分を振り返り、非があれば謝罪し、改善すべきは改善する。

すると、結果として、本人自身の信仰の問題が浮き上がってきたりします。

牧師自身の責任として引き受けるべきことは引き受け、本人が担うべきところは、本人に任せる。その境界線はとても大切だと思います。

 

聖書フォーラムの基本理念が、「自立(自律)」と「共生」です。

自立(自律)した一人一人が、互いを認め合い、共生することで、一つの地域教会が形作られていく。非常に的を得た理念だと実感しています。

4.去って行った人に、ただ一つ願うこと

好き好んで教会を離れる信徒はいないでしょう。

多くの場合、離れるという決断をする以前に、その教会との関係は疎遠になっていると思います。

去って行った人に対して願うのは、どこか、地域教会につながっていて欲しい。祈ること、聖書を読むこと、学ぶこと、信仰の兄弟姉妹と交わることを続けていて欲しいということです。

その人が、再び地域教会につながっていると聞くと、ほっとします。それは、喜ばしいことだと思うのです。

牧師であるなら、何より喜び願うべきは、どの地域教会に集うにせよ、その人が、真の牧者である主ご自身との親密な関係を保ち続けていくことです。

 

ある信徒の方と「羊泥棒」について話をしていて、「牧師のジェラシーだと思う」と私が言ったときに、「それ以外に何があるんですか?」と返ってきて、はっとさせられました。

「王さまは裸じゃないか」と言われた思いでした。

牧師も裸です。自分の欠けも弱さも、みんなの面前で常にさらされて、隠しようがありません。

 

「なぜ、わたしが?」という、繰り返される問いに、主は答えられるのです。

「あなたに何かがあるから、私が選んだとでも思っているのか」と。

神の選びは恵みです。

アブラハムも、ダビデもペテロも、全ての信者もただ、信仰により、恵みによって救われました。一人として例外はいないのです。

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