学びに許可は必要か? 岐路に立つ囲い込み型教会モデル
1. 聖書フォーラムへの批判
コロナ禍に入り、聖書フォーラムへの風当たりが強くなってるよね、と他のリーダーと話す機会がありました。
聖書フォーラムでは、独自にメッセージの配信を行っているところは多く、ZOOMを活用したバイブルスタディなども活発にされています。
基本的に誰でも出入り自由な空間であり、コロナ禍にあって、参加者も増え、むしろ活発になっているところが多いようです。
一方で、聖書フォーラムに対する批判の声も、以前にも増して耳に入ってくるようになりました。
聖書フォーラムへの批判の多くは、教会の牧師、教職者、指導者からのもので、内容は共通しています。
「他の教会の信徒に、その教会の牧師も知らないところで聖書を教えるのはおかしい」ということです。
先日も、牧師で神学教師という方から同様のご批判をいただきましたが、議論は最後まで並行線でした。
批判の聖書的根拠を示されるようにお伝えしましたが、残念ながら何も示されませんでした。
これまで一度も、聖書的根拠を聞いたことがありません。
やはりないのだな、と確信を強める出来事でした。
2. 世の常識、社会の文化
世の常識と照らし合わせるとどうでしょうか?
学生が塾や予備校に通うのも、会社に勤めながら資格取得のために学ぶのも、普通のことです。
ただ、師弟関係が根強く残る世界は事情が異なるでしょう。
芸事で、師の許可も得ないで、他の先生に学ぶとなると、非常に失礼なこととみなされそうです。
日本でキリスト教の宣教が本格的になされたのは明治以降です。
江戸時代までの師弟制度が色濃く残る文化的背景の中で、日本の教会も、その影響を強く受けたのではないでしょうか。
伝統的な師弟制度が、無意識に教会に組み込まれ、教会文化として根付き、現在に至っているのだと考えられます。
お隣の韓国などを見ても、特に儒教的な背景が強い地域では、同様の傾向があるように感じます。
聖書フォーラムに連なる人々には、海外在住者、経験者が多くいます。
帰国後、他の教会の友人と聖書研究をしていたら、牧師に強く咎められた。何が悪いのかさっぱり理解できないと、そんな話を何度か聞きました。
欧米など、個人主義の強い国では、ずいぶん事情が異なるようです。
文化というのが厄介なのは、無意識に自動的に身につくものだということです。
日本の伝統的な教会文化で育った人には、ありえないことが、他の教会文化で育った人には理解しがたいのです。
教会文化が違うのだから、自分の教会員には勝手に教えるな。と言われたとしても、出入り自由な教会は、来た人を拒まないのが文化であるわけですから、両者は基本的に相容れません。
聖書はどう記しているのでしょうか?
3. 主イエスの時代の師弟関係
聖書の時代には、強い師弟関係があったようです。
メシアニック・ジューの神学者、フルクテンバウム師が言われていたことですが、律法教師であるラビは、子弟の私生活まで介入し、結婚相手も決め、霊的父であるラビと、実の父が溺れていたら、ラビを救えとまで言われていたそうです。
現代でも、正統派のユダヤ教徒には、同様の師弟関係が受け継がれているとも聞きました。
このような師弟関係を真っ向から否定したのが他ならぬイエスでした。
イエスは、「ラビ、父、師」と呼ばれてはならないと、弟子たちに厳しく命じられています。(マタイ23:8)
この箇所をもって、牧師を「先生」と呼ぶのはやめようと主張する人がいます。
しかし、律法教師の呼称であるラビを「先生」と訳しているのであって、 「先生」という一般的な尊称を禁じているのではありません。
教師を兄弟と呼びながら、カルト化している群れもあります。
聖書が問題とするのは、常に本質です。
問われているのは呼び名ではなく、呼び名に現れている関係性です。
主イエスが問題とされたのは、子弟を私生活まで支配する、当時のラビたちのありようでした。
彼らは、父、師とも呼ばれており、それがまさに、支配的な彼らの実体を現していたのです。
4. 初代教会の師弟関係
最後の晩餐で、主イエスは弟子たちの足を洗い、リーダーとは仕える者なのだと身をもって教えられました。(ヨハネ1:35)
主イエスの昇天後に遣わされて行った使徒たちは、徹底して謙遜でした。
使徒パウロの記したコリント人への手紙には、非常に厳しい叱責が記されています。
パウロ自ら手塩にかけて育て上げたコリント教会は、分裂の危機にあり、倫理的に乱れ、信仰が後退していました。
それでもパウロは、「師の言うことが聞けないのか」などと言ってません。
また、雄弁家アポロがコリントの教会で教えたことを、「牧会者である私の許可も得ないで」と批判したりもしていません。
「上に立つ権威に従え(ロマ13:1)」という聖句から牧師の権威を主張する人がいますが、適用がまちがっています。
文脈で言われているのは、この世の権威です。
世の支配者の権威も、神から来ているのだから、信仰を妨げるものでない限り従いなさいということです。
5. 変わる文化 変わらぬ使命
文化は時代と共に移り変わります。
「信徒は、その教会の牧師からのみ牧会される。牧師は、他の教会の信徒を勝手に教えたり、指導してはならない。」
この伝統的な日本の教会文化は、今、否応なしに変化を求められているのではないでしょうか。
誰もが自由に他の教会の牧師のメッセージを聴き、聖書を学べる時代です。
コロナ禍はますます、この傾向を加速させました。
災いもすべて主の御手の内にあると言うならば、この状況をゆるされているのは、全知全能の神ご自身にほかなりません。
本来的な教会のありようはどうあるべきか、改めて問われています。
主イエスの地上最後の命令は、「行って、すべての人をわたしの弟子としなさい」ということでした。
ペンテコステに誕生した教会は、度重なる迫害を経て、異邦人世界にまで散らされていきました。
神殿に集うことを命じられた律法時代とは逆に、世に出て行くことが教会時代の私たち信仰者の使命です。
いつしか使命を忘れ、内々で固まり、閉じこもって安穏としていた私たちを、主は否応なしに打たれ、再び世に散らそうとされているのではないでしょうか。
教会の師、父は、主お一人だけです。
信じた一人一人の内におられる聖霊が、導き、育んでくださいます。
種は自ずと実を結ぶと、主は告げられました。
命は聖書の御言葉そのものにあり、聖書そのものを解き明かし、味わうところに必ず、育まれ、遣わされていく、一人のクリスチャンが起こされるのです。
Comment
三浦先生
前回のコメントに対し、わざわざフォローのコメントを頂きましたこと、痛み入ります。
「聖書フォーラムへのよくある批判から・・・」の記事に私が書き込んだコメントは、初めから構想を立てて順を追って説明した文章ではなかったので、前後で齟齬があり矛盾すると思われる表現や、誤解を招きやすい表現が散見されましたら、お詫びいたします。
繰り返しになりますが、私は「相手の教会の牧師の許可なしに教える事」自体を問題視しているのでも、まして聖書が禁じていると言っているのでも、ありません。
三浦先生もおっしゃるように、聖書が問題にしているのは常に、本質であり、内側の心です。
私の以前のコメントからの引用になりますが、
>>
私は外面の行動よりも内面を、また、メッセージの受け手よりもメッセージの与え手を、問題にしています。もしメッセージの与え手の内面に、自分とは異なる聖書解釈に対する尊重と、他教会の牧師と信徒の信頼関係を毀損することに対する畏れがあるのならば、その思いが言動に影響を与え、外面をも支配することでしょう。その場合は、自らのメッセージを様々なメディアを通して広く発信してよいのであり、むしろそうすべきです。また、あえて受け手の側を問題にするならば、その内面に、主の導きに信頼し、母教会を愛し、主が牧師に委ねられた権威を適切に尊重し、自分の好みではなく、主の御心が何であるかを第一にしようとする姿勢があるならば、様々なメディアを通して、様々な解釈に基づくメッセージに幅広く触れてよいのであり、むしろそうすべきです。その結果、場合によっては教会を移らざるを得ず、それが最善であり、御心である場合もあるでしょう。
>>
と書いた通りです。
私が一貫して核心点として指摘しているのは、「他教会のコミュニティの安定性に対する尊重と配慮をもって行動しているか」の一点です。
私自身の経験について言えば、以前、私の教会の礼拝に何度か出席された後、「先生の教会に移りたい」と申し出られた、他教派の信徒の方がいらっしゃいましたが、私はまず、「困ったことになった」と思いました。
「私は、あなたの教派との聖書解釈の相違点については、私自身の解釈の方が正しいと考えてはいるが、それでも私の教派の方があらゆる点で正しく、優れているなどとは、もちろん言えない。あなたの教会の方が優れている点もたくさんあるのだから、考え直してはどうか。」
「仮に私の教会に移った方が、あなた自身はより恵まれると仮定しても、周りの人はどうか。あなたの存在、あなたとの交わり、あなたの祈り、あなたの奉仕、あなたの献金を必要としている人たちが、あなたの教会には沢山いるのだから、考え直してはどうか」
とお話しした後に、相手の牧師先生と何度かお話しし、結局、移籍するのが最善であり、主の御心だろう、との双方の合意に至り、移籍する運びとなりました。それでも、その方の献金は今まで通り、その教会に納めさせていただく事を提案させて頂きました。(もっとも、それには及ばないとのことでしたが。)主は福音の働き人が、救われた者から生活の糧を得るように定めておられ、その方のために土台を据えた方の労苦を思うなら、その方から糧を得る権利が当然のように自分に移るとは、主の前に思えなかったからです。パウロが「他人の土台の上に建てたりしないで、キリストの御名がまだ語られていないところに福音を宣べ伝える事を切に求めた」理由の一つは、そこにあったであろうことは、多くの注解者が認めるところです。
もっとも、私自身に関して言えば、私の知らないところで信徒が教えを受け、結果、私とは違った意見を持つようになり、教会を移ることを希望したとしても、牧師に委ねられた権威と所属教会を適切に尊重し、自分の好みでなく、主の御心を第一に求めようとする心が、その方にあるならば、チャーチホッパーにはならないようにと戒めた上で、その方を喜んで送り出します。しかし、これは、私が経済状況や、教団教派の教理の違いがどこから来るかを説明する能力や、それぞれの教団教派の長所短所を相対化して説明する能力に比較的恵まれている故でもあるのであって、私とは異なる状況に置かれている牧師先生方も私と同じようにあるべきだとは、全く考えません。行き過ぎた束縛は別として、信徒が教会を去ることに対する牧師の警戒や嘆きが、常に単なるエゴやジェラシーであるとは、私は思いません。ローマ14章にもある通り、教会論や牧師の権威に対する考え方も含めて、主がそれぞれの解釈を許しておられる、周辺的な問題については、自分とは異なる考え、特に自分より弱い者の考えを尊重して振舞う事が、キリストの愛の律法に縛られている者の義務であると考えています。「誰もがネットで他教会の牧師のメッセージを自由に聞き、学べる時代」となったこと自体は、喜ばしい、歓迎すべきことだと私も考えていますが、仮に私が将来ユーチューバーになることがあったとしても、他教会のコミュニティの安定性を毀損することの無い、あらゆる教会観・牧師観を持った方々に最大限配慮した発信を心掛けたいと、私は考えます。
言い換えれば、以前のコメントの引用になりますが、
「ある信徒がある教会に所属し、その教会の方々と交わりを持ち、その教会の牧師を自分の牧師とするという事は、その方の信仰生活、霊的成長、時として家族関係や人生全体すら左右する事柄であり、私はそこに安易に立ち入り、影響を及ぼすことに畏れを感じます。他者の立てた土台を尊重し、そこに安易に立ち入ることを畏れます。」
との畏れを常に持って、自分の言動を律する事を心掛けています。
以上が私の主張の核心であって、もし三浦先生が、「アーメンである。私も同じように考えており、そのように心掛けて振舞っている。」と主の前で仰ることが出来るのであれば、私としては、それ以上何も申し上げる事はありません。私は、この点における主の前での自己吟味をお勧めしているのであって、「あなたはそのように振舞っていない」と決めつけて非難したいのではありません。人の心の奥底を知り、裁くことが出来るのは、ただ主お一人だからです。もし私の今までのコメントでそのような僭越な印象を与える言葉がありましたら、この場でお詫びいたします。
誠実に向き合って下さり、有益な議論が出来ましたことを、こちらこそ感謝いたします。
枯骨先生が大事にされていることが何かというのは、よく分かったように感じています。
枯骨先生から見て、地域教会の牧会者への尊敬や配慮が足りないと言われれば、確かにそうなのだろうと思います。
教会文化の違い、置かれている環境の違いも大きいように感じています。
教会がひしめきあう(と私には見えます)都市部と、教会が存在する町村すら限られる過疎地では、牧会者が意識すべき状況もずいぶん違うのでしょう。
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私はずっと、地方の小教会で牧会をしています。「苗床教会」という呼び名があるように、極めて流動性が高いのが地方の教会です。
子どもたちは成長すれば、進学、就職で、ほぼ地域を離れます。若い人々は仕事の移動があり、高齢者も都市部の施設や子どものところに移るケースが増えています。
教会に集う人々は、そもそも町の外部から入ってきた人が多く、中心的な働きを担っていた人々がごっそり他に移動してしまうという事態も珍しくありません。
チャーチホッパーのような方がたまに来られることもありますが、僻地ゆえ、続いて来られることは希です。
よほどの決意がなければ、交通の便も悪い過疎地に向かって何十キロもの道のりを通い続けるのは容易なことではないでしょう。
開拓6年目、この間、十名以上の方が出入りされましたが、当初から通い続けているのは一人だけです。
この人と何年一緒に過ごせるかは分からないけれど、この次どこに行かれるにせよ、しっかりと主につながり、信仰生活を歩み、福音宣教の使命に遣わされていけるように。
そのことを意識しつつ、そのためには、御言葉から、しっかりとした信仰の土台を身につけていくしかないと、地道に聖書の解き明かしを続けている次第です。
常に意識させられているのは、この人を、主が用意された働き場に、いかに送り出すかということです。
集う人々には、出て行きましょうと、常に呼びかけています。
「学びのニーズには最大限に答えます。あなたがチャレンジしている福音宣教への協力は惜しみません。しかし、あなたの“お世話”はしません。」
教会に集う人々に、ことあるごとに、お伝えしていることです。
タラントンやミナのたとえにあるように、福音宣教とは、投資なのだということを身をもって教えられてきました。
福音宣教のために、次、どこに力と資金と労力を投資すべきか。先の見えないまま、今あるものを次に注ぐということを繰り返してきて、今があります。
「Ⅰコリ 3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」
私の働きなど、主が育んでくださる一人の信仰者の成長の長い過程の一部分に過ぎないのだと教えられています。
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北海道では、半分以上の町村に教会がありません。近くの教会まで数十キロ、百キロ以上という環境もざらです。
冬になれば、吹雪や凍結で隣町に行くのも難儀することがたびたびあります。
youtubeでの配信は、そのような方々のニーズを意識して始めたことでした。
さらに言えば、「○○さんの車が教会に止まってたよ、」、なんて情報があっという間に広がる社会では、地の人が教会に通うハードルは非常に高いものがあります。
気軽に教会の中をのぞけるようにということも意識しました。
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聖書フォーラムでは、流動性が高まる一方の世界で、いかに福音を伝えていくかに重きを置いています。
海外在住の日本人は、かつてなく増え、かつ世界中に散らばっていると聞きました。
鹿追教会からの礼拝やバイブルスタディのライブ配信でも、海外からの参加者が何人もいます。
海外で救われる人々はたくさんいるわけですが、教会文化のギャップの大きさに悩み、帰国後、教会難民と化している人が少なくありません。
聖書フォーラムが、その人々の受け皿となっている側面は、大きいと感じています。
地方では、教会堂の閉鎖や縮小、合併が相次いでいます。従来の地域教会のありようでは、こぼれていく一方の人々にいかにアプローチするか。与えられている大きな課題です。
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使徒たちが、ユダヤの会堂で告げ、町々の広場で告げたように、福音とは、公的な宣言なのだと教えられています。
世界に向かって、不特定多数の人に向かって発信できるネットという世界は、今の時代に主が与えられた広場であり、福音を宣言すべき絶好の場として備えられているのだと実感させられています。
この教会は、牧師である私は、ここに連なる一人一人のクリスチャンは、最も大きなエネルギーを、福音宣教のために、外に向かって注ぎ続けているのか。問われる日々です。
お忙しい中、貴重なご時間を割いて下さり、まことに丁寧なご説明をありがとうございました。とても良くわかりました。
私も、抽象論に留まることなく、他の教会や牧師先生方が置かれている具体的な状況に思いを致し、敬意を表し、その立場に立って考え、共に祈る者とさせられたいと思わされました。
主が三浦先生のために定められた使命のために、主からの大いなる力と愛と慎みが注がれますように、お祈りさせていただきます。
ありがとうございました。