依存的な支配者たち? 歪んだ関係性から抜け出すために
1. 人の壊れた欲望と支配欲
カルトには必ず、支配的な指導者がいます。
支配的な人とは、極めて支配欲が強い人。他者に強い影響力を及ぼすためなら、手段も問わない人です。
独裁者が、隣国に侵略戦争をしかける。膨大な経済的負担と大きなリスクを抱えてまで、なぜそんなことをするのか分からないと、多くの人は戸惑います。
それが欲望です。金銭欲に取り憑かれた人が、いくらお金を得ても満足しないのと同じことです。
支配欲の強い人は、どこまでも自分の力を広げたいのです。理屈はありません。
人間は、壊れた欲望を抱えた生き物です。
盗撮をして解職された人の記事を見て、理解不能だと首をかしげる人も、他の部分でははやり、コントロールできない壊れたところを抱えています。
いろいろな欲望の中でも、特に厄介なのが、支配欲だと思います。
支配欲の犠牲者となるのは確実に、当人より弱い立場の人です。
支配的な人が権威や力を得るほどに、着実に被害が拡大していきます。
ハラスメントが多い職域に、教育界、政界、医療界、そして宗教界が挙げられます。
共通しているのは、「先生」と呼ばれる存在が力を持つという点です。
だからこそ、支配欲の強い人を引き寄せるという、逆の側面もあると思います。
2. 支配欲が一線を越えるとき
程度の差はあれ、誰もが食欲や性欲を持っています。
同様に、支配欲も、誰もが多少なりとも持っているのでしょう。
他者を自分の思うように動かしたい。それが、支配欲の根源ではないでしょうか。
誰もが他者に対して、何らかの影響力を及ぼうとして、綱引きをしているとも言えます。
問題なのは、支配欲が一線を越えてしまうこと。
そこから生まれるのは、人権侵害、人格否定、マインドコントロールといった、深刻な問題です。
支配欲が一線を越えるときに、必ずつきまとうのが、「嘘」だと私は考えます。
逆に言うと、「支配的な人」とは、「嘘を常用してまで、他者をコントロールすることに力を注いでいる人」です。
3. 支配的な人のつく嘘
嘘をついたことがない、という人がいたら、それこそ嘘でしょう。
親に問い詰められて、身を守ろうとして、とっさに嘘をついてしまった。
そんな経験を誰もが持っています。
支配的な人のつく嘘が、そういった嘘と根本的に違うのは、他者をコントロールするための嘘だという点です。
直接的に支配する人は、何を批判されようと嘘を突き通すでしょう。
「嘘は大きいほどいい」とは、ヒトラーが本当に言った言葉かどうか分かりませんが、一つの人間の心理を言い当てています。
たじろぎもせず、嘘を貫く人の意見が通ってしまう。
相手の言われたことに、いちいち反応して考えこんでしまう人よりも、自分の嘘を突き通す人の方が、頼もしいリーダーに見えてしまったりするのです。
支配的な人は、嘘がもたらすこのような効用を、体験的によく知っているのでしょう。
4. 依存的な支配者たち
直接的な支配は、見た目に分かりやすいのですが、分かっていてもなかなか止められないのが現実です。
なぜでしょうか。
そこには、私たちの抱える「依存」という性質。さらには、支配的な人を積極的に支える「依存的な人」の存在があると思います。
支配と依存は表裏一体です。「支配的な人」を支えているのは、「依存的な人」です。
「依存欲」なんて言葉を聞いたことはありませんが、依存したいという欲求も人には確かに存在すると思います。
だからこそ、嘘を言い放つ独裁者が、強烈な支持を集めたりもするのでしょう。
依存的な人は、依存することによって利益を得ています。
「虎の威をかる狐」のように、人々の先頭に立つよりも、権力者にくっつく方が、楽して得できます。
依存心の強い人とは例外なく、非常に利己的な人でもあります。
頼りたいという思いは、誰にもあるわけですが、嘘をついてまでも、誰かの力の傘の下に入ろうとするなら、それもやはり、常軌を逸しています。
依存的な人の典型的な嘘は、力ある人に取り入り、邪魔な人を蹴落とすために、事実を歪めて伝えることです。
計算高い人は、嘘と分かる嘘はつきません。ばれた時にも責任を逃れられるように、考慮するのです。
たとえば、自分に都合の悪い重要な事実は隠し、断片をつなぎ合わせて悪印象を抱かせる。
そこに、「恐ろしい」とか「信じられない」とか、主観的な言葉の一つも加えれば、十分過ぎる効果を発揮します。
私は可哀想な被害者だ、というアピールも欠かせません。相手の正義感や同情心をくするぐのは有効です。
相手の心が、自分の方にちょっとでも傾けば、チャンスです。
うまくやれば、その人は自分を守る都合のよい盾になってくれるでしょう。
相手の力や権威を上手に利用することで、他者にも影響力を発揮できます。
依存的な人による、間接的な支配は、より厄介なものと言えるかもしれません。
カルトでも、指導者当人よりも、その妻や取り巻きが、実質的に支配権を持っているというケースは多いようです。
5. 支配と依存からの脱却を
支配的な環境に長らく身を置いていた人は、依存的な体質が身に染みついているでしょう。
カルト教会を出てきたけれど、依存から抜けきれず、結局、他の支配的なグループに移っていった。
あるいは、その人自身が支配的に他者をコントロールしようとして、混乱や分裂をもたらした。
そんなことを度々見聞きします。
聖書フォーラムの理念は、「自立(自律)と共生」ですが、その実現はたやすいことではありません。
当人の自発性を促すのがコーチングですが、クライアントが依存性を強く抱えたままだとうまくいきません。
クライアントがコーチに勝手に忖度して、やりたくもないことを、やりますと言ってしまう。
当人が望むことではないので、結局ものにならず、コーチングも停滞してしまう。そんなケースも、ままあります。
親や教師、指導者の顔色を見て、望んでいることに忖度して答えていく。
程度の差はあれ、多くの人が無意識に、そんな習性を身につけて来ているのだと感じます。
一方、聖書が求める信仰は、徹底して、自発的な応答です。
私たちの心を見る神には、表面だけの従順など何の意味もありません。
形ばかりの宗教指導者たちを、主イエスは偽善者と呼んで、厳しく裁かれました。
表面的な信仰深さを誇り、自分を偽る者を、主は嫌われます。
主がよろこばれるのは、「罪人の私を憐れんでください」と、胸を打ちたたいて叫ぶ、心貧しい者にほかなりません。
主の弟子となった者たちに共通していたのは、主の呼びかけに、自発的に応えたということです。
自由のないところに、愛が生まれないように、自発性が発揮されないで、よろこびがあふれ出すことはありません。
共同体からいかに、支配と依存の関係を閉め出していくか。大きな課題です。
心からささげたい人がささげ、仕えたい人が仕える。
本当にそれで、地域教会が成り立つのか。よぎる不安がありますが、蒔かれた種は自ずと成長するのです。
そもそも他者の行動を、どうすることもできません。
私は、自発的によろこんで、主に従い歩んでいるのか。そのことだけが問われています。
6. 偽りを生む土台
悪魔は偽りの父と言われます。
アダムとエバに罪を犯させたのは、その実を食べると神のようになれる、死にはしないという、悪魔の偽りでした。
アベルを殺したカインは、弟がどこにいるかなど知らないと、偽って神に答えています。
12弟子の一人だったユダ。この中に裏切り者がいるという主イエスの言葉を聞いて、しかし、ユダを疑った者はいませんでした。
いかに巧みに、徹底して、ユダが仲間たちを欺いていたか。
偽りに染まったユダは、破滅的な最後を迎えています。
偽りに乗って、神を離れ、罪に堕ちた私たち人間は、偽りに惹かれる性質を持ってしまっているのでしょう。
だからこそ、明らかに偽りを口にし、人を欺く者が、熱狂的な支持を受けもするのだと思います。
メシアは、欺かれ、無実の身で十字架刑に処されました。
弟子たちもまた、神に背く者、秩序を破壊する者と訴えられ、厳しい迫害にさらされました。
自分の十字架を負って歩めと促されている私たちクリスチャンは、偽りを言う者に欺かれ、侮られることをも覚悟するべきなのでしょう。
ペテロの三度の否認の出来事が知られているのは、ペテロ自身が語ったからに違いありません。
パウロもまた、罪を抱える己の姿を、赤裸々に手紙にさらしています。
真実に生きようとすれば、間違いなく、私たちはボロが出ますが、それでいいのだと促されます。
私はただ、神の真実のゆえに、今を生かされているのです。
7. ひたすらに真実を求めよう
律法は、徹底した公正を求めます。
「弱い者をひいきしたり、強い者にへつらったりしてはならない(レビ19:15)」とあるように、主は、人の性質をよくご存じです。
また、律法は、裁判の偽証、偽りのうわさや誓いを厳しくいさめています。
キリストが最も厳しく対峙されたのは、神の教えを歪めた偽教師であり、嘘にまみれた偽善者でした。
義なる神は、偽りを憎まれ、厳しく裁かれます。
このような主の前で、嘘偽りを口にすることほど恐ろしいことはありません。
主イエスによれば、偽りの父は悪魔です。
偽って人を操ろうとする者は、その人自身が悪魔の支配下にあるのです。
偽りという言葉が、一番多く用いられているのが詩篇です。
ダビデは、主に忠実なゆえ、偽る者に命を狙われました。
キリストは、偽りの指導者たちによって、十字架刑に処されました。
主イエスは、「ありもしないことで悪口を浴びせられる」信仰者は幸いだと言われました。
それが世にある迫害です。
欠け多き罪人の一人に過ぎないことは、日々繰り返し突きつけられる私たちの現実です。
そのただ中で心に刻むのは、主の前に誠実であり続けたいという思い、それだけです。
嘘を突き通す人がぶれないと評価されるような、世で言う強さは私たちには不要です。
格好悪く、無様でいい。
使徒パウロは、赤裸々に、自分の弱さをさらけ出しながら、「弱いときにこそ、私は強い」と宣言しました。
それこそ、私たちキリスト者に与えられた、真実の力、聖霊による力です。