「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」の認知の歪み(バイアス)を指摘する
目次
大きすぎる認知の歪み・バイアス
「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」の抗議文には絶句しました。私の知るNBUSの実体や意図することとは余りの落差があったからです。
他者を批判する場合にまず求められるのは客観的な認識ですが、これが難しいのが私たち人間の現実です。
人は、思い込みで検討外れのことを言ってしまうことが多いのです。
以前、私は、非暴力トレーニングを学んだ時、写真を撮るように、物事をできるだけ客観的に観察するということを教えられました。
しかし、これを実行するとなると、本当に難しく、人は、どれだけ、無意識の内に自分の解釈を世界に投影しているかということを思い知らされました。
人は誰もが、多少の差はあれ、自分の思い込みで歪んだ世界を見聞きしています。
この認識の歪みを、バイアスと言います。
「憂慮する会」の認識の歪みの深刻さをバイアスを通して考えます。
憂慮する会の抗議文に見られるバイアス・認知の歪み
バイアス その1 あまりにも「ステレオタイプ」
「憂慮する会」の抗議文は、NBUSは、「LGBTQ当事者への転向療法を正当化する団体」という決めつけから始まっています。
NBUS(神のみことばにたってセクシュアリティを考えるネットワーク)は、2017年に、アメリカの福音派の有志の人々が行った、「ナッシュビル宣言」を、独自に訳したものを採用しています。
また、この「ナッシュビル宣言」に同意する意思表明という形で署名を呼びかけています。
「憂慮する会」が、「転向療法を正当化し権威づける」とまで言っているナッシュビル宣言。
その本質は何かというと、セクシュアリティ、ジェンダーについて、聖書に書かれた通りに理解するという、福音派クリスチャン有志による信仰の宣言です。
それ以上のものではありません。
実際に、ナッシュビル宣言の中には、「転向療法」など、一言も記されていません。
それを一体どうすれば、「転向療法を正当化し権威づける」とまで断言できるのか、理解に苦しみます。
これだけ強く断言しておきながら、「憂慮する会」は、呼びかけ文の中で、ナッシュビル宣言の本文からの引用は行っていません。
宣言のどこが転向療法を正当化し権威づけているのか、という具体的な指摘はないわけです。
不思議なことです。
「憂慮する会」が言う、アメリカにおける「転向療法」が当人の意思を無視して行われたケースがあり、精神疾患などの深刻な結果をもたらしたことがあったと私個人も聞いています。
ナッシュビル宣言は、そのようなアメリカでの事例についての反省も踏まえた上でなされたものだと、私はむしろ逆の意味で理解しました。
聖書通りに性を理解しようという福音派のクリスチャンは、転向療法推進派だ、とは、あまりにもステレオタイプに過ぎます。
バイアス その2 「早まった一般化」
アメリカの福音派の中で「転向療法」が行われていた。重い精神疾患に陥った人がいた。
その事実は認めています。
しかしそれが、福音派は転向療法推進派だ、と言うと論理が飛躍しています。
一部のケースを挙げて、福音派は転向療法推進派だ、と一般化して言えるのでしょうか。
限られた事例を全体に安易に適用してしまう、このような認知の歪みを「早まった一般化」と呼びます。
「木を見て森を見ず」などと言いますが、「早まった一般化」の場合には、一本の木を見て、森全体がそうだと判断しまうということです。
そもそも「福音派」とは、大小様々な教団教派をひとまとめにした、極めておおざっぱな呼び方に過ぎません。
何千、何万の信徒を抱えるメガチャーチがある一方で、一個だけで独立している単立の教会も多いですし、家庭集会のような小さな群れも無数にあります。言ってみれば、各々が個人商店です。
そのような福音派の実体を知っている身には、「福音派が転向療法を推し進めた」という言い方自体が、あまりに粗雑すぎて、話にもなりません。
たとえば、隣町のカフェが、ずさんな衛生管理から食中毒を起こしたからと言って、お前もカフェだから同じだ、なんてことにはなりません。
さらには、アメリカのカフェで起こったことを引き合いに出して、日本のカフェも同じことをやるに違いないなんてことを言えば、何をバカなことを言ってるんだと一笑に付されるでしょう。
「憂慮する会」の主張しているのは、つまりは、そういうことです。
キリスト教国と呼ばれ、いまだに多数の福音派クリスチャンがいるアメリカと、キリスト教の諸派すべてを合わせても総人口の1%にも満たない日本とでは、おかれた状況も全く違います。
「憂慮する会」の賛同者の所属を見ると、福音派の諸教会とは比較にならない、大きな教団教派に属している人が多いようです。
福音派の実体をろくに知らないにも関わらず、アメリカの福音派の一部分の情報から、福音派全体がそうであり、日本の福音派もそうだと決めつけている。
まさに、「早まった一般化」という認知の歪みが露骨に現れています。
バイアス その3 「基本的な帰属の誤り」
「憂慮する会」は、転向療法は命に関わる問題なのだと、Netflixで公開されている映画を挙げていました(change.orgの呼びかけ文)。
このようなところで引用して批判の根拠とするならば、せめて書物からにしていただきたいです。
「憂慮する会」の抗議文の中で、出典は、唯一、この映画「Pray Away」だけでした。
視聴しました。初めて知らされたことも多く、見る価値はあったと思います。考えさせられることも多く、宿題を与えられた気分です。
ただ、あくまでも一方から見た事実であり、非常な偏りのある脚本だとも感じました。
いろいろな疑問も浮かびました。
なるほど、と思ったのは、論理構造はまさに、「憂慮する会」の抗議文そのものだということです。
その点で非常に象徴的だと感じました。映画の内容については後日、記事をまとめる予定でいます。
ドキュメンタリーであっても、映画は映画です。
最初に脚本ありきの、脚色され、演出されたエンターテイメントです。
しばしば政治的プロパガンダの道具ともされます。
LGBTQに関する立場は、ハリウッドでは明らかに一方に偏っています。
現代に、転向療法をテーマにした映画が作られれば、間違いなく福音派のクリスチャンは悪役扱いされるでしょう。
実際にそのようになっているわけです。
かつての西部劇で、アメリカ先住民が野蛮なインディアンとして描かれていたことを思い起こします。
映画を基準にして、福音派はこうだと決めつける「憂慮する会」の発想は、ヤクザを演じた俳優について、この人は悪い人だ、と思い込むのと変わりません。
演出された情報に基づいて、その本質まで決めつけてしまう。判断基準が根底から間違っているわけで、このような認知の歪みを、「基本的な帰属の誤り」と呼びます。
バイアス その4 「チェリーピッキング」
転向療法の有害さと非人道性を並べ立てる「憂慮する会」は、不都合な真実を意図的に見落としています。
都合のよいことだけを拾い上げ、都合の悪いことは無視する。このような認知の歪みをチェリーピッキングと呼びます。
「憂慮する会」が、意図的に見落としている事実とは、性的指向、性自認が変わったという人が確かにいるということです。
人生の途中でLGBTQになったという人もいれば、逆にLGBTQではなくなった人もいます。
いくつかの例を、こちらの記事でも挙げていますが、こちらの記事に挙げた証言の一つは、私自身が、「憂慮する会」にも署名している方の口から聞いたものです。
成人になってから性的指向が変わるという例もあるんだな、と驚いたので、よく覚えています。
性的指向、性自認を、生物学的、医学的に証明する手段はありません。
「憂慮する会」は、一人の外科医が語ったこととして、「性的指向を変えることができるという科学的証拠はない」と記していますが、当然でしょう。そもそもどうして外科医に心の問題を扱えるでしょうか?
逆の言い方をすれば、性的指向を変えることができないという科学的証拠もありません。
これを言わないのも、意図的な事実の見落とし、チェリーピッキングです。
性的指向、性自認は、そもそも、現代の医学で取り扱える領域ではないと言えるでしょう。
ですから、性的指向、性自認については、当人がそう言うならその通りに認めよう、というのが世界的な流れになっているのだと思います。
「憂慮する会」は、「多くの転向療法経験者」について、「そのほとんどは自己暗示が切れると、重いストレスに耐えられず…云々」と記しています。
「多くの」「そのほとんど」という言い方が確かに示しているのは、「自己暗示」が切れない人がいるということです。
消えない暗示とは、暗示ではありません。
「憂慮する会」は、人生のある段階にLGBTQになった、という事例に対して、自己暗示とは言わないでしょう。
それなのに、LGBTQではなくなった、という人に対しては、自己暗示と決めつける、そこにも歪みがあります。
なぜ、そこまでして、その存在を否定するのでしょうか?
多様な性を認めようという自分たち自身の主張にも反しています。
「憂慮する会」が、性的指向、性自認は、先天的なものであり、一生変わらない、としきりに強調するのも疑問です。
セクシュアリティ、ジェンダーに対する一切の揺らぎや幅も否定しています。
物心ついた時に自覚のなかった者は、LGBTQではないと言っているに等しいです。
「憂慮する会」は、性的指向・性自認は先天的だという説にこだわる、一種の原理主義者と言えるのではないでしょうか。性的指向・性自認・先天説原理主義者です。
バイアス その5 「わら人形論法」
NBUS側は、そもそも「転向療法」などという言葉は記していないと主張しており、「憂慮する会」も、その事実は認めています。
にも関わらず、「事実上彼らの第一の目的は明らかに転向療法です」と述べています。
事実がないのに「事実上」とは、どういうことでしょう?
また、「責任をすべて本人に押し付け、転向療法中や療法後の一切の責任は取らず自己責任だと言っています。」とありますが、NBUS側は、そんなことを一言も言っていません。
この「」内は、抗議文を書いた人の解釈です。
どう解釈するかは、その人の自由ですが、自分の解釈を事実とすり替えてはいけません。
言ってもいないことを言ったと攻撃されても、攻撃された方は、どうしようもないわけです。
相手の主張していないことに論点をすり替えて攻撃する。
これは典型的な「わら人形論法」です。
相手を混乱させ、疲弊させ、同時に、周囲の人々に、相手に対する悪印象を受け付ける。
そういう意味では、非常に有効に働く、古典的な詭弁の一つです。
「憂慮する会」が、無意識にこれを行っているなら、あまりにも浅薄ですし、意図的に行っているなら、背後に込められているのは悪意そのものと言えます。
バイアス その6 「モラル信任効果」
私の間違いに対し、「憂慮する会」の賛同者で、こちらに連絡してきた方が、訂正の仕方まで指示してきました。
とても支配的に感じた旨を伝えたところ、「日頃、抑圧されているのだから」「ご承知おきください」という返事が返ってきました。
「日頃、抑圧されているから、抑圧しても仕方ないということになるのですか」と尋ねましたが。返答はありません。詳細はこちら。
公的なやりとりの方でも、こちらの投げかけに答えはありません。
NBUSは非人道的だと訴えながら、自分自身の暴力性はスルーする。
自分は、正義のためにやっているんだから、細かいことでつべこべ言うな、とでも言うのでしょうか。
ダメなものは、ダメ。暴力は暴力です。
ここにも深刻な歪みがあります。
社会心理学では、「モラル信任効果」というそうです。
“私は社会的に意義ある活動をしているのだから、少しくらい非倫理的なことをしてもいいだろう。“
そういう心理が働いていると言うのです。
前述の「憂慮する会」のメンバーは、「差別発言したな、消すなよ。ログ(記録)とってるぞ」というようなことを、これまで散々やって来たのでしょう。
この社会に、露骨に差別的な言動をする人もいるのは現実だと思いますが、こんな脅迫まがいのことをして、人が変わるのでしょうか?
質問状を送り、期日までの返答を求めるというやり方があるようですが、裁判所でもないのですから、返答しなければならない法的義務などありません。
バイアス その7 「滑りやすい坂論法(滑り坂論法)」
滑りやすい坂論法(滑り坂論法)とは、たとえば、○○大学に入れなかったら、人生不幸になる。と言うようなことです。
実際には、○○大学入学ということと、本人が幸せかどうかということは、別なことです。
因果関係がないものを関連付けて、極端な主張する。それが、滑りやすい坂論法です。
「憂慮する会」の主張は、典型的な滑りやすい坂論法です。
NBUSの主張を認めてしまったら、転向療法が推進され、多大な被害者が出る。だから、NBUSを阻止しなければならない。
問われるのは、この因果関係は正しいのか、ということです。
「憂慮する会」には、客観的な証拠を示すことが求められます。
しかし、抗議文には出典もない上、1990年代以降にセラピーとして行われた「転向療法」と、それ以前に行われていた、電気ショックを与えるような「嫌悪療法」との区別すら曖昧で、客観的な何の証拠もありません。
映画「Pray Away」にも、「憂慮する会」同様の主張が見られましたが、因果関係の証拠となるものではありませんでした。
バイアスなしに見つめて欲しい
アメリカで重大な人権侵害をもたらした転向療法を行った教会やグループと、NBUSの発起人がつながっている事実、日本でも同様の転向療法を行おうとしているという事実があるのでしょうか?
「憂慮する会」から、そのような事実が提示されていないのは、事実です。
「憂慮する会」が主張しているのは、事実に基づかない憂慮であり、そうに違いないという思い込みです。
思い込みに基づいた抗議などあり得ません。デマと呼んで差しつかえないでしょう。
日本の福音派のクリスチャンは、数の上からも、社会に対する影響力から言っても、LGBTQ以上にマイノリティと言えるでしょう。
そのような中で、LGBTQ当事者との出会いや関わりすら極めて少ないのが現実だと思います。
福音派の信仰では、すべての人は生まれがらに罪人であり、「イエス・キリストが十字架で身代わりになり、復活された」 この福音をただ信じて救われるとします。
信仰上、譲れないことは譲れません。福音を手放すわけにはいきません。
一方で、LGBTQ当事者とは、互いに一個の人格として認め合うところから出会っていこう。それが、NBUSが立ち上げられた意味だと私は理解しています。
NBUSの発起人に名を連ねた人々は、自分たちとは直接関係のない、アメリカでの一部の福音派が起こした悲劇をすら反面教師にして学んでいる、実直で誠実な人々です。
「憂慮する会」の人々が憂慮するような悲劇を、むしろ、この日本においては起こさないようにしようと心していると言えます。
私はそのように理解したからこそ、署名をしました。
一方で、抗議はあるだろうな、とも思っていました。
福音派の信仰が、批判する人々、特に、リベラルの社会派のクリスチャンに理解されるとは、考えていなかったからです。
問題の本質が信仰であるからこそ、衝突は避けられない、そのことも覚悟していました。
福音派が聖書を土台にする救いの前提は、「すべての人は生まれながらに罪人である」ということです。
原罪と言います。
福音派の理解で言えば、LGBTQであろうとなかろうと、すべての人は罪人であることは変わらず、ただ福音を信じて救われる、という救いの道も同じです。
しかし、リベラルの社会派のクリスチャンは、この原罪そのものを拒んでいます。
NBUSと「憂慮する会」の対立の本質は、両者の信仰の違いだと、私は認識しています。
信仰の根本が違うのですから、どうやったって両者は相容れません。
NBUSの発起人の中には、長年、カルト問題に取り組んできた方がいます。
私自身、カルト化した近隣の教会と被害者の問題解決のために関わった経験があります。
身に染みましたけれど、労多くして、実り少ない、本当に大変な働きであると思います。
カルトからの解放というのは、強制的に人を変えるということとは、真逆の働きです。
また、発起人の一人が立ち上げに関わった地域教会のグループは、徹底して自立と共生を土台としています。
私自身、自ら開拓した開拓教会として、そのグループの中につながっています。
いわゆる福音派の中に、様々な問題や課題があることは承知していますが、自立と共生という理念に基づく教会形成こそ、最も聖書的なものだと私は理解しています。
信仰とは、どこまでも自発的なものである。福音を信じることも、その後の歩みも同様である。
個々の地域教会への縛りもありませんし、連なっているメンバーも同様です。
そもそも、その群れ自体に、何かを強制するというものがないのですから、本人の特性を他者が変えようなどということに、どうしてなるでしょうか。
私自身、「憂慮する会」の人々同様、リベラルの中でも、社会派と呼ばれるグループに属していたのでよく分かります。
その頃の私は、実際には、福音派の人々との交流などないにも関わらず、こうに違いないという決めつけだけは強烈に持っていました。
福音派は、非常に権威主義的で、抑圧的で、律法主義的だという、そんなイメージです。
そのような福音派の教会もないわけではありません。カルト化やハラスメントは、様々な団体、組織が無関係とは言えない問題です。
しかし、福音派の中で問題を抱えた教会はむしろ、教義においては、福音派が大事にする聖書の教えから離れていることもよく分かってきました。
一口で福音派と呼ばれる中には、一部を切り取っただけでも、これだけの多様性があります。
私が今、日々身をもって実感しているのは、福音派の中でも、最も厳格に聖書に忠実であろうとする群れこそ、個々の自発性が尊ばれる、もっとも自由なところだということです。
リベラルの社会派クリスチャンの時に想像していたのとは、真逆の現実に接しています。
原理主義が悪いとなるのは、その宗教や信仰の原理に、そもそも問題がある場合です。
その信仰が、元々素晴らしいものであるのなら、原理主義者こそ、最も理想的な信仰者ということになります。
人はすべて、生まれながらに罪人であると聖書は記します。
そして、罪の問題は、人には解決できないと言う現実も、聖書は繰り返し突きつけます。
この原則に立つ福音派のクリスチャンは、人が人を変えられるとは考えません。
もし、人が変わりうるとすれば、それができるのは、天地を造られた唯一の神だけだということです。
神によって変えられるためには、神との関係が回復されなければなりません。それが救いです。
罪ある人が救われる道は、ただ一つ。主イエス・キリストが、私の罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、死を打ち破って復活された。この福音を信じること、それだけです。
福音を信じた者は、その瞬間、永遠に神の所有、神の家族とされ、すべての罪をゆるされ、神との個人的な交わりに招き入れられました。
この救いは二度と失われることはありません。
信じた後もなお、罪の性質は、この肉体にこびりつくように残っており、誰もが罪を犯します。
しかし、神に告白したならゆるされて、何度でも悔い改め、やり直しながら、歩んでいくことができます。
変われるはずのない人が、変わっていくことができるとしたら、救われた後、神との個人的な交わりを深めて行く、この過程において、です。
変わるも変わらないも、その人がどれだけ神との関係を深めていくかにかかっています。
これはあくまでも、当人と神との個人的な関係ですから、他者が入り込むことはできません。
他者にできるのは、「変化を助けるお手伝い」だけ、ということになります。
人が人を恣意的に変えようとすることは、本来の福音派の信仰とは相容れません。
「憂慮する会」の方々が、ご自身の認知の歪みに気づいてくださることを願っていますが、現実的には非常に困難なことだとも認識しています。
本質は、両者の信じる信仰の違いだからです。
ただ一つだけ言えることは、福音の宣言に関しては、一歩も引くことはできないということです。
福音派を福音派たらしめる、福音とは、ただ、これだけのことだと私は確信しています。
「主イエス・キリストは、私の罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、死を打ち破って復活された。」
【新約聖書 コリント人への手紙第一15:3~5】
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
Comment
なんだか愛が感じられない文章でした。
批判されて傷ついておられるのでしょうか?
お大事になさってください。
戸塚公江さま
コメントありがとうございます。
そうですね…。愛が感じられないと言われても仕方ないな、と思いつつ、
「憂慮する会」の抗議文の論理構造そのもののおかしさを、きっちり指摘する、ということを優先させて書きました。
便乗して騒ぐ人がいたり、議論に行き詰まった人が最後に相手への人格攻撃に行き着くのも、世の常です。
「こんなに傷つけられて、わたしってかわいそう」などと、被害者意識に閉じこもっている場合ではないな、とも実感させられています。
このことがらの本質は何なのか? 問題の中心はどこにあるのか。ずっと考え続けています。