十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Pray Awayを観て信仰について考えた NBUSを憂慮するキリスト者連絡会推薦映画?!

2022/10/05
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1. 映画「Pray Away」

映画「Pray Away(邦題:祈りのもとで)」を見ました。Netflixのオリジナル作品です。

「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」が、change.orgに挙げた主張の出典として、唯一記していたものです。

「Pray Away」は造語のようです。「Pay away」と言うと「無駄に費やす」。「Pray Away」には、「無駄に祈りに費やした」という意味が込められているのだと思います。

 

ドキュメンタリーに描かれた中心は、「転向療法」を推進したゲイによる団体『エクソダス』の誕生から解散までの出来事でした。

エクソダスは、イスラエルの出エジプトを指す語です。古今東西、解放を示す言葉としても用いられてきました。

1970年代後半、『エクソダス』という団体は、ゲイ当事者によって始められました。ゲイは変われると訴え、たちまち多くの当事者や、その家族からの支持を得ました。

当初は、素人ばかりでグループセラピーを行っていましたが、やがて専門家集団が加わり、加盟団体も増え、多くのセラピーが行われるようになりました。

エクソダスは、世界最大のゲイ団体となり、華々しく活躍し、世の注目を集めました。

 

しかし、一転して大スキャンダルが起こり、深刻な精神疾患に陥ったという多くの訴えを受け、ついに解散に至ります。

その過程を、団体の中枢にいたメンバーへのインタビューを通して描いています。

 

映画のメッセージは明確です。

ゲイであることを変えることはできない。転向療法は間違っているということです。

 

2. 苦しみの記憶

映画は、おもに4人にスポットを当てています。

ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー。うち3人は、『エクソダス』の元中心メンバーでした。

 

ジョン・ポークは元ゲイで、元レズビアンのアンと結婚。家庭を築き、子どもも生まれました。弁舌も鋭く、彼いわく、「世界で一番有名なゲイ」でした。ジョンは、『エクソダス』の理事長まで務めます。

しかし、ある時、ジョンは、ゲイバーで飲んだくれているのを写真に撮られてしまいます。妻とは破局、理事長も解任されます。大スキャンダルでした。

自分は完全に変わったと告げ、周囲にも完璧だと思われていたジョン。しかし実際には何も変わっていなかった。ゲイのポルノを妻に見つけられたこともある。すべて嘘だったと彼は告白しています。

 

時を同じくして、アメリカでは、同性婚容認への大きな流れが起こっていました。

そのただ中で、『エクソダス』の転向療法で深刻な被害を受けたという当事者の声も強まりました。

あるTV番組で被害を訴える当事者とエクソダス幹部の対談が行われます。

結果は、エクソダス側の完敗。

対談に同席したエクソダス幹部のジュリー・ロジャースは、被害者たちの訴えに心揺さぶられ、「自分は座るべき場所を間違えたのではないかと思った」と当時の心境を語っています。

団体の存続は不可能と判断した幹部によって、2013年、エクソダスは解散しました。

 

元エクソダスメンバーだった3人は、こぞって、転向療法を否定しています。実はずっと苦しかった。思い込んでいただけだった。すべて間違いだったと。

この映画のテーマである「転向療法」とは何なのか。

『エクソダス』のスタッフの一人でもあったジュリー・ロジャースは、「普通のセラピー」と語ります。ジュリーが語るのは、周囲の環境が、彼女を追い詰めていったということでした。

保守的な家族に育ったジュリーが、レズビアンだと告白すると、親にセラピストの元に連れていかれた。それがエクソダスの参加団体の一つで転向療法を行っていた、リッキー・シュレットのところでした。

彼女はセラピーを受け、リッキーに心酔し、内部スタッフのようになり、さらには期待されて、会衆の前で自分の体験を元に講演をするようになっていきます。

一方で、内面には葛藤を抱え続け、自傷行為を繰り返してもいました。

 

3. 今ある喜びの体験

映画の中で、一人だけ異質な人物がいます。

登場人物の中で、彼だけは、『エクソダス』との関連がありません。他の三人とは、世代も時代も背景も異なります。

一番違うのは、彼だけは、今も変えられたまま、ということです。

 

彼の名は、ジェフェリー・マッコール。

冒頭から登場する彼は、手作りのボードをもってショッピングモールに行き、人々に語りかけます。

「これが昔の僕。トランスジェンダーで、ドラッグと酒とホモセクシュアルに溺れていた」と。

自らの信仰体験を証しして、承諾してくれた人には手を置いて、神の祝福を祈ります。

完全に女性の容姿だった過去の写真と違い、今のジェフェリーは、ずんぐりした体型にひげ面。容姿と不釣り合いに甲高い声と、柔らかな仕草は、トランスジェンダー時代の名残なのでしょうが、それをなんとかして打ち消そうとしている風でもありません。

かつてのエクソダスのメンバーたちが、自分は変わったと、男らしさ、女らしさを強調していたのとは対照的です。

元トランスジェンダーだったというジェフリーの本質は何も変わらず、むしろ、昔以上に、自分らしく、ありのままにいるように見えます。

 

彼が語るのは、シンプルな信仰です。

「あらゆるセクシュアリティを越えて人は変わることができる。罪人は神の国を受け継ぐことはできない。真実が私を束縛から自由にしてくれた。聖霊が働かれ、主イエスが変えられる。」

邦訳の字幕からは読み取りにくいのですが、語られた英語を確認すると、彼が語っているのは、信仰告白そのものです。

 

ジェフェリーは、警告も発します。

「高校時代には、学園ドラマの主人公にゲイの友人が登場するのが当たり前になっていいて、影響を与えられた。今や学校がLGBTQのアイデンティティを後押しする。LGBTQのコミュニティほど、ゲイだ、レズビアンだ、トランスジェンダーだと、人を一つの型に強力に押し込もうとするものもない。」

『エクソダス』が創設された時とは、大きく時代が変わったことを、彼の話がよく現しています。

 

私の目には、出演者の中で、ジェフェリーが一番自然体でいるように見えました。

何かの組織に従属する訳でもなく、SNSで出会った人々とホームパーティーを開き、仲間たちと通りや公園で集会を開く。

ジェフェリーが転向療法を受ける姿はなく、そんな告白すらありません。

転向療法が映画のテーマなのに、転向療法についての情報がかけらもない。どういうことでしょうか?

つまり、彼にはその経験がないのです。

 

ただ福音を信じて主イエスに変えられた。その信仰を告白し、体験を仲間たちと分かち合い、励まし合っている。それだけです。

LGBTQでなくとも、信じて変えられた、という体験を共有する人なら、ごく自然にジェフェリーの姿を受け止められることでしょう。

信じて変えられるって、そういうことだよね、福音を信じる、ホントにそれだけなんだよね、と。

 

映画の最後に、転向療法のセラピスト、リッキー・シュレットと、ジョンの妻だった元レズビアンのアン・ポークにもインタビューを求めたが、断られたとありました。

なるほど、と思いました。

本来、脚本の中で、ジェフェリーの枠には、『エクソダス』の転向療法を受けて、今も変わったままだというアン・ポークと、現在も転向療法を続けているリッキー・シュレットが入っていたのでしょう。

しかし、二人に断られ、同じ立場の元エクソダス関係者も誰も応じてくれなかった。ようやく取材に応じたのが、ジェフェリーだった。そういうことだろうと想像します。

ジェフェリーが入ることで、映画の趣旨、結論も少なからず変わったのではないでしょうか。

 

4. その拳は振り下ろせるのか

この映画のインタビューの基本は、内部告発です。

ゲイが作った、ゲイの団体で、ゲイに転向療法を行い、ゲイを苦しめていた。

それは一体誰のせいなのか、拳を振り下ろす先が、そもそもありません。

 

『エクソダス』の過ちを、先の3人を中心に何人もの人が嘆き、涙を流します。

でも、その『エクソダス』を建て上げ、支え続けてきたのもまた、彼ら、彼女ら自身なのです。

苦しむ仲間たちがいる一方、スポットライトを浴びる快感を味わい、著名な政治家と出会い、大きな力をもその手に握っていた。

副理事長だった、ランディ・トーマスは、自分のしたことは、ゆるされないことだ、と涙ながらに語っていました。

 

映画は、『エクソダス』の創始者、マイケル・バッシーの言葉で締めくくられます。

マイケルは、創始者の一人でしたが、初期の段階で団体を離れ、やがて、転向療法によって苦しむ当事者の声を集める働きを担うようになっていった、そういう人物です。

マイケルは告げます。

「ホモフォビア(同性愛嫌悪)が世にある限り、別なエクソダスが現れる。それは団体でもなく、かつてのような手法でもないかもしれない。問題は、ゲイであることを変えられるという本質的に混乱した信念だ。それがある限り、別な何かが現れるだろう(原語からの私訳)」と。

そして、最後に映されるのは、女性のように柔らかく首をかしげるジェフェリーの顔のアップです。

お前も本質は何も変わっていないだろう、とでも言いたげな、そんな余韻を残しているように、私は感じられました。

 

一体誰のせいなのか。

LGBTQは変わりうるという信念自体が問題だとするならば、矛先が、人は信仰によって変えられると信じる福音派の教会やクリスチャンに向けられるのは必然の結末なのでしょう。

 

この映画の本筋は、あくまでも当人たちのインタビューであって、何か客観的なデータが示されるわけではありません。それだけに、映画のエンドロールに記された言葉がひどくひっかかりました。

「アメリカだけでも約70万人の同性愛者が転向療法を受けたと言われている。ある国の調査で転向療法を経験した若者は自殺を試みる確率が2倍以上になるという」

70万人と言われる内の何人が、変えられたと言い、何人が変えられなかったと言っているのか。何人が重篤な精神疾患に陥り、何人が自殺未遂をし、死に至ったのか。
ある国とはどこなのか? 民主主義国家なのか共産主義国家なのか、イスラム教国なのか。若者とは何歳から何歳までで、元の自殺率はどれだけなのか? 1万人に1人が2人になったのか。100人に5人が10人になったのか。

この言い方では、何も分かりません。

何の根拠も示されないのに、いかにも何十万人もの人が今も苦しみ続けていて、二倍の自殺者が出ていると、負のイメージだけをふくらませています。最悪です。

 

極めつけが、この最後の一言です。

「本作は、転向療法を経験した方々とそれを苦にしてこの世を去られた方に献げる」

煽るだけ煽り、膨らませるだけ膨らませた負の感情を、この映画の作者は、どこに向かわせようとしているのでしょうか?

 

5. ホモフォビアとは何なのか?

映画のラスト、エクソダス創始者のマイケル・バッシーは、「ホモフォビアがなくならない限り」と言われていました。

ホモフォビアという言葉は、同性愛嫌悪などとも訳されます。

人々の中にある、同性愛者に対する嫌悪感を指す言葉なのだと思っていましたが、本作の中では、同性愛者自身に対しても、ホモフォビアという言葉が投げかけられていました。

“同性愛は罪である、変わらなければならないという社会の価値観が、ホモフォビアを産み、同性愛者自身も自ら抱えたホモフォビアに苦しめられている。”

そのような主張が、ホモフォビアという言葉の根底にあるのだと理解しました。

 

あらゆる要因を外側に、社会に向けるのは、この時代の、特にリベラルな人々の定石ですが、それは果たして正しいことなのでしょうか?

すべては環境のせいなのでしょうか?

 

今回、「Pray Away」を見るために、初めてNetflixに入りましたが、LGBTQを好意的に扱った映画やドラマが山ほどあるのに驚きました。容姿に自信のないLGBTQの外見を自分らしくオシャレに整えようなんて、バラエティ番組までありました。

LGBTQに対する社会的な意識が大きく変わったことを改めて実感させられました。

ジェフェリーもそうだったように、そんな時代に育ったLGBTQの内にも巣くうホモフォビア、自分を責める声がある。それはなぜなのか?

今だ消え去らない差別意識があるからだ、異性愛を強要する文化が変わらずあるからだ、と一方の人々は言うのでしょう。

しかし、福音派のクリスチャンとして私が感じるのは、それこそ、原罪に対する根源的な意識の現れではないか、ということです。

 

キリスト教会を訪れたことがある、という話を何人かのLGBTQ当事者から聞いたことがあります。

その人たちは、クリスチャンでもなく、教会と何かつながりがあったわけでもありません。

ある人は、「同性愛は罪なのか」 聞きたかったと言われていました。

そんな罪責感を抱く人々が、少なからずいるんだな、と、心に残っています。

 

ジェフェリーは、かつての自分の写真に「縛られていた」、そして、今の自分に「解放された、自由になった」と書いていました。

罪に縛られていた自分は、ただ、主イエスが、私の罪のために十字架で死なれ、復活された、そのことを信じて、罪赦され、解放された。

そこに告白されているのは、ジェフェリーの救いの証し、そのものです。

 

変化とは、福音を信じて罪赦された、その結果として表れてくるものに過ぎません。

当然、変わらないままの自分もたくさん抱えたままだし、また罪を犯すこともあります。

しかし、神の目には、すべて赦されているから、失敗してもただ、悔い改めて、日々を喜んで歩んでいくことができるのです。

福音を信じて罪赦された。この救いは二度と失われることはありません。

変化の過程は、救いのこの確信があるからこそ、歩んでいけるものです。

 

元エクソダス・メンバーだった3人にとっての何よりの不幸は、変わらなければ認められない、救われないと思い込んでいたことでした。

変わらなければ救われない、実は変わっていない自分は救われてはいない。なんと苦しいことかと思います。

ジェフェリーは、変わったところも、変わらないところも、ありのままにさらけ出しています。
彼はただ、神の赦しと愛を分かち合い、励まし合うために、仲間たちと集っているのでしょう。

彼を突き動かす原動力は、罪赦され、神の子どもとして愛されている、その喜び、それだけです。

 

さいごに. ただ福音だけに立てばいい

映画制作者の意図とは違うのでしょうが、私は、この映画の本当のテーマは、まさに信仰そのものだと感じました。

主イエスを信じる信仰は、人を変えられるのかどうか。

 

聖書の学びを大事にしていた『エクソダス』は、クリスチャン団体でもありました。

彼らの不幸の原因の一つは、地上生涯で完全に変えられる、問題が可決する、と誤解していたことです。

指導者に認められ、社会に評価されるために自分を偽る。世の誉れを求めても、何の力にもなりはしません。

人はただ、福音を信じて救われ、信じて変えられていく。人に人は変えられない。自分自身も変えられない。

それが、聖書が繰り返し突きつけていることです。

 

先日、一つの証しを知人を通して聞きました。

一人のLGBTQの当事者が、主イエスを信じて救われた、私にはイエス様が一番なんだ、それ以外のことは、もう問題じゃないんだと、子どものように喜んでいた。そういう証しでした。

福音を信じて救われたというLGBTQ当事者によるコミュニティが、この日本でも、ネット上に自発的に生まれているそうです。

 

実にシンプルなことなんだと教えられます。

福音を信じるクリスチャンのなすことは、ただ福音を伝えること、それだけです。

ただ福音を伝えて行くならば、福音と出会って信じて、勝手に救われ、変えられていく人が現れます。

LGBTQの当事者の中にも当然、そのようにして救われる人が起こされていくでしょう。

その中から、喜んで証しし、つながり合う人々が生まれてくるでしょう。

 

「Pray Away」のラストに告げられたメッセージの、一つの内容には同意します。

つまり、どんなに人々の価値観が変わっても、福音を信じて変えられる、と信じる人々はなくならない、ということです。

ですから、私たちは、誰に対しても変わらず、福音を伝えればいい。なんとシンプルなことでしょうか。

 

主イエス・キリストは、私の罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、死を打ち破って復活された。

ただ、この福音を信じ、主イエスを信頼して、人は神の怒りから救われる。

福音が、私たちの、すべて、です。

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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

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