十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:奇跡を体験できないのは信仰が薄いから?

2019/07/18
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q:癒やされたとか、すごい奇跡が起こったとか言う人、いますよね。
そんな奇跡を体験できないのは、信仰が薄いからなんでしょうか…。

1. それはホントに神の奇跡?!

ちょっとすごいことが起きると、奇跡だ、と口走ってしまう…。やたらと奇跡を強調する。

そういう人、けっこういますよね…。

私自身も、目に見える現象に振り回されていた時があったなぁ、と振り返って反省します。

 

聖書的に言うと、大事なのは、神の奇跡です。

本当に神様が起こされた奇跡だけが、意味ある奇跡なのです。

悪魔にだって、奇跡はできます。

ちょっとした物質を出現させる(出7:22)とか、瞬間移動(マタイ4:8)くらいのことは、悪魔にだって可能です。

 

神の奇跡を、「しるし」と言います。神様が働かれた証拠だということです。

「しるし」は、天地を創られた神が直接働きかけられたという証拠ですから、他を圧倒する、次元の違う奇跡です。

海が割れるとか、水の上を歩くとか、この世の物理法則では、絶対に起こりえないことが起こるのが、本当の奇跡です。

だからこそ、「こんなことができるのは、天地を創造された神しかない」と確認できるのです。

聖書の中で、神のしるしを目撃した人々は、恐れを抱き、ひれ伏しています。
目の当たりにしたら、恐れ、ひれ伏すしかない。それが、本当の神の奇跡です。

 

イエスの奇跡は、先天的な障害を癒す、不治の病を一瞬で完治する、完全に死んで腐敗が始まった人を生き返らせる、というような、常軌を逸した奇跡でした。

そのために、イエスがなされた奇跡は、イエスがメシアであり、神である、という確かな「しるし」になりました。

弟子たちもイエスと同様の奇跡を行っていますが、これは、弟子たちを通して、主イエスご自身が働かれた「しるし」でした。

弟子たちは、「しるし」によって、キリストの使徒と証明されました。

「しるし」は、使徒の教えと記した書物が神の言葉であるという保証になったのです。

 

使徒たちを通して新約聖書が完成し、この教会時代に知るべき神の啓示はすべて明らかにされています。

ですから、今の時代には、聖書の時代のような「しるし」は、もういらないんだ、ということです。

2. 個人的奇跡が必要な場面とは?

今の時代にも、神が必要とされれば、神の奇跡は起きます。

それは、誰かや、どこかの群れを力づけたり、戒めたりする必要がある特別なケースです。

たとえば、大変な迫害や困難の中にある、という場合です。今の時代だと、迫害の激しい共産国やイスラム教国で、多くの奇跡が報告されています。

 

日本の場合、どうかと言うと、たいした奇跡は起きてません。

病気が癒やされたとか、礼拝中に金粉が降ったとか、せいぜいそんなことですが、これくらいの奇跡は、悪魔にだって起こせることです。

たとえば、癌が治ったという体験は、クリスチャンでなくとも、少なくない人が経験していることです。

 

今の教会時代とは、見ないで信じることが求められる時代です。

この時代に私たちが知るべき情報は、聖書として私たちの手元にあり、いつでも開いて読むことができます。

この日本では、信教の自由も守られており、情報もいくらでも得られます。今の日本で、神の奇跡が起こる必然性は、かなり薄いと言えるでしょう。

 

もし、あなたに奇跡が起こるとすれば、それは、神様からの一方的な恵みです。

あなたの信仰深さの結果では、ありません。

 

この時代に必要な情報は、すでに、すべて、聖書を通して与えられています。

それでもなお、奇跡が必要だったとすれば、考えられるのは、二つの可能性です。

①よほど厳しい状況に置かれていた。

②あるいは、あまりにも信仰的に幼いので、目に見える形で神が介入せざるをえなかった。

つまり、奇跡を強調すること自体が、信仰的には的外れだということです。

3.大切なのは、出来事ではなく意味

病気になったり治ったり、うまくいったりいかなかったり。クリスチャンにもいろいろあります。

大事なのは、出来事ではなく、その意味です。

神様は、聖書の御言葉と共に、私たちの置かれた状況を通しても、語りかけておられるからです。

ある人にとっては、病気は、信仰生活を悔い改めなさいという、神様からの警告かもしれません。

ある人にとっては、信仰を深めるための試練、新たなチャレンジかもしれません。

神様との個人的な関係の中で、出来事の意味を受け取っていくことを、すべてのクリスチャンは促されています。

 

ここで重要なのは、出来事そのものに振り回されないということです。

奇跡的な出来事に意味があるのではありません。

いくら病気が癒やされても、金粉が降っても、それが、神の奇跡でないのだったら、まったく意味はありません。むしろ、危険で有害です。

 

そして、本物の神の奇跡を目の当たりにした人には、大きな責任が与えられます。

イエスの数多くの奇跡を目撃しながら、悪霊の力による奇跡だとメシアを拒んだイスラエルは、エルサレム陥落と、2千年に渡る離散という、厳しい裁きを体験することとなりました。

史上最大の神の奇跡は、イエス・キリストの復活によって、すでに成し遂げられています。

私たちは、その生々しい証言を、手によって読むことができます。自分自身の信仰の歩みの中で、様々な形で追体験していくことができます。

イエス・キリストの十字架と復活という最大の奇跡を信じ、宣べ伝えていくことが、すべてのクリスチャンに与えられた、最も重要な使命なのです。

「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。
ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」 コリント人への手紙Ⅰ 1:22~23

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