十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:信者なら、癒やしは、誰でもできるもの?

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q:クリスチャンは、誰でも祈ったら癒やせるんだ、なんて話を聞きました。
じゃあ、癒やせないのは、信仰が未熟だから、なんでしょうか?

1. 実際には、何が癒やされてる?

「癒やし」を強調する人々が、手を置いたり、油を塗ったりして、イエスの御名によって病気が癒やされるように熱心に祈る姿を、何度か目にしたことがあります。

私自身もやったことあります。特筆すべきことは、何も起きませんでしたが…。

多くの場合には、何も起きないとしても、何かの癒やしが起きたと言われている人はいます。

癒やしを強調する人々は、何らかの体験を元にしているわけです。

じゃあ実際には、どんな癒やしが起こっているか、というと、頭痛が治ったとか、腰痛が緩和されたとか、風邪が治ったとか、そんなことのようです。

 

医薬品の開発では、プラシーボも考慮に入れます。

病は気からと言うように、「よく効く薬ですよ」と飴玉をなめて治ってしまうこともあるからです。

祈ったら癒される、ということが、医学的見地から、統計的に証明されたということはあるのでしょうか?

祈りによって癒されるんだ、というのは、多くの場合、とても主観的に語られていることだと思います。

2. 癒やしは、誰が起こすこと?

一方で確かに、医者もさじを投げた難病が完治したとか、劇的な癒しを体験されている方もいらっしゃいます。

もし、そんな癒しを体験された時には、神に感謝し、主を讃美しましょう。

神は、全知全能の方であり、憐みと慈しみに富んだ愛の方です。真実の癒しが起こされるなら、それは、神による一方的な恵みです。

熱心に祈ったとか、多くの人が祈ったからではありません。ましてや、「この人に祈ってもらったから」ではないのです。

ただ神に感謝し、栄光の主を讃えればよいのです。本当の癒やしは、天地を造られた神ご自身がなされることです。

3. 大切なのは、癒やしの意味

奇跡全般に言えることですが、大切なのは体験や出来事ではなく、その「意味」です。

癒されたことに意味があり、癒されないことにもまた、意味があります。

病気の癒しによって、主を証しする人がいます。逆に、病気や障害そのものを通して愛の神を証しする人がいます。

肉体に与えられていたとげに苦しんでいた使徒パウロは、「弱い時にこそわたしは強い」と宣言しています。

なぜなら、私たちが、自分の無力さにとことん打ちのめされたその時にこそ、主が、力強く、働いてくださるからです。

 

主イエスは、たくさんの病や障害を癒されました。それは第一に、イエスがメシアである「しるし」、証明でした。

イエスがメシアだと、イスラエルに現すために、一方的になされた癒しです。当初は、信仰の有無に関係なく、おびただしい人々が癒されました。

数々の証拠にも関わらず、イエスの奇跡は悪霊の仕業だと、イスラエルは公にメシアを拒みました。

この時から、イエスの癒しは、イエスをメシアと信じた人だけに行われるようになりました。信じた者だけが、イエスが神の子である「しるし」の目撃者、証人となったのです。

 

イエスの昇天、聖霊降臨後、弟子たちが度々行った癒しは、彼らが、キリストの正統な使徒であることを証明する「しるし」となりました。

主イエスや使徒たちが行った癒やしは、この時代だけの特別なものだったことが分かります。次元が違うのです。

使徒が行ったのと同じ奇跡ができるなどと言う人がいます。その人は、聖書を、根本的なところで、まるで理解していないということです。

 

今の時代に癒しが起きるとすれば、それは、神からの一方的な憐みです。

あるいは、癒しを通して、神ご自身が自らを現し、人々を救いに導こうとされているということです。

癒やしは、神が必要とされたときに、神ご自身が行われます。癒やされても、癒やされなくても、主を讃えるだけです。

4. 聖書の記す、何より大切な真実の癒しとは?

聖書の記す真の癒やしとは、神との関係の回復です。

罪への罰として神から打たれた民の傷が、神によって癒やされるということです。

神との関係の回復である癒やしは、悔い改めて主に立ち返った時に与えられます。

そして、究極の癒やしは、神に背いて裁かれたイスラエルが、悔い改めた時に起きます。

それは、世の終わり、「その日」と呼ばれる大艱難時代の最後に起こることです。

「【主】がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。イザヤ 30:26」

 

病気を抱えて教会に通っていた求道者が、治った途端に来なくなったというのは、よく聞く話です。

どんなに奇跡的な驚くべき癒やしが起こったとしても、癒やされたその人が、福音を信じないなら、何の意味もないことです。

 

人は、一度死んで、神の前で裁かれることが決まっています。厳格な神の裁きに耐えられる人はいません。

すべての人は、罪の故に神との関係が断絶し、滅びに定められています。

福音を信じた者だけが、真実の癒やしを味わうことができます。

福音を信じたその瞬間に、その人の神との関係は回復され、真の癒やしがもたらされるのです。

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。Ⅰペテロ2:24 」

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