聖書が教える癒しとは? 癒やしのセミナーに飛びつく前に、クリスチャンに考えて欲しいこと

   

1.  癒やしを求める現代人と、クリスチャン

多くの人がいやしを求めている現代。いやしグッズ、いやしのプログラム、様々な癒やしがあふれています。

それは、教会においても例外ではありません。様々な癒やしのミニストリーが、次から次に現れては、流行り廃りを繰り返しています。

自分は癒やされていない、と感じているクリスチャンが余りにも多いことに、驚かされます。なぜ、そんな状況に教会が陥っているのでしょうか?

2.  聖書の教える癒し

聖書の教える癒やしは逆説的です。癒やしなんか求めるな、神を求めよ。そうすれば結果として癒やされる、ということだからです。

旧約聖書のヨブ記。ヨブは、当代きっての義人で、神の目に正しい人でしたが、ある時から、度重ねて災厄を体験し、家族を失い、自分の健康すら失います。

癒やしを求め、なぜ、自分がこれほどの悲劇に遭わなければならないのかと、神に訴え続けたヨブ。

ヨブが本当に癒やされたのは、全知全能の創造主に出会い、その真理に圧倒されたときでした。

ヨブはただ、神を見上げたのです。

3.  イエスの癒し

イエスは、おびただしい人々の病や障害を癒やされました。

まずイエスは、3年半の公生涯の当初には、求めてくる人は誰をも癒やされました。これは、イエスがメシアであることを証明するための癒やしでした。

しかし、イスラエルがイエスを悪霊呼ばわりして拒んだ後の、宣教活動の後半では、イエスが癒やされるのは、イエスがメシアだと信じた人だけとなりました。これらの癒やしは、その人々が確かな信仰を持っていることを現すしるしとなりました。

これらの癒やしは、第一に、神の業を証明するための、しるしです。

4.  癒されることもあれば、癒されないこともある

癒やしは、神様の一方的な恵みとして与えられるものであり、何かに対するご褒美ではありません。障害が、親や本人の罪の報いではないのと、ある意味同じです。(ヨハネ9:1~3)

心の傷にせよ、体の病気や障害にせよ。癒やされる場合もあれば、癒やされない場合もありますが、どちらにしても、神様が、そうされているということです。

我が家の和実は、ダウン症です。動脈管開存(かいそん)性という心臓の病気は完全に癒やされましたが、ダウン症という障害は癒やされないままです。

我が家で誰よりも、多くの人に、その存在をもって神の愛を伝えている和実。障害をもって生まれてきたこと自体が、神の御心なのだと受け止めています。

生涯、病に苦しめられながら、イエス・キリストを証しする数々の作品を残されたのが、小説家の三浦綾子でした。

奇跡的な癒やしを体験した人々がたくさんいる一方、信仰を持っても癒やされないこともあります。

使徒パウロは、悩まされ続けた病があったことを赤裸々に告白しています。しかし、同時にパウロは、自分は「弱いときにこそ強いのだ」と、救いの確信を宣言しています。(Ⅱコリ12:7~10)

5.聖書が私たちに教える、癒しの本質

聖書の第一の命令は、常に、神を見上げ、神を信頼し、神を愛せよ。ということです。

神を愛する人は、神の愛に満たされて、隣人をも愛するようになります。

癒やしを求めている人に伝えるべきことは、あなたも罪人だが、罪人のあなたを神は愛されているということ。

体や心に大きな傷を抱えている人には、もちろん、心を傾けて聴き、癒やしを求めて一緒に祈ることも必要でしょう。

しかし、何よりの癒やしは、その人が神ご自身と出会うことです。

聖書の記す究極の癒やしとは、神との関係の回復に他ならないからです。

6.  約束された完全な癒やしの時

聖書が明確に約束しているのは、将来、再臨のイエスによって、世界は回復され、福音を信じて受け入れたすべての人々も回復されるということです。

人々は完全に癒やされ、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」世界で永遠に生きるのです(默21:4)。この究極的な癒やしに目をとめる時、大きな力を与えられます。

苦難の中でパウロを支えたのは、第三の天に挙げられ、神の国を垣間見た体験でした。将来与えられる栄光に比べれば、今の患難など何ほどでもないと、パウロは高らかに宣言しています。(Ⅱコリ12:1~5、ロマ8:15~18)

癒やしを目的にして、自分ばかり見つめているから苦しくなるのです。

罪を見つめるのでなく、神を見上げること。今の自分に捕らわれるのではなく、将来の栄光に心を向けていくことが、何よりの癒やしをもたらすのです。

それが、聖書が、癒やしについて、私たちに教えていることです。

 

 ローマ人への手紙8章15~18節

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

【新改訳改訂第3版】

 

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