十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:罪、罪、言われてうんざりなのですが?

2017/12/15
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q:「あなたは罪人だ」って、そこがひっかってしょうがないのです。
クリスチャンって、なんでそんなに罪罪言うんですか?

1.罪を認めるのは、信頼あってできること!

ただ罪を自覚しろと言われたら、これほどしんどいことはありませんよね。「おまえは罪人だ」なんて、受け止められなくて当たり前だと思います。

やってはいけないことをして、親に叱られた。その時、「悪いことをしました、ごめんなさい」と、過ちを認めて心から謝ることができるのは、それでも自分は愛されている、という信頼が、どこかにあるからこそではないでしょうか?

神の前に、自分の罪を認めることができるのは、神が愛だということをわかっているからこそだと思います。

2.赦しの業は、すでになされました!!

2000年前に、イエス様は、十字架にかかって死なれました。あなたの罪を赦すために身代わりになられたのです。

罪は、神に対する負債にも例えられます。逆立ちしても返しようのない、あなたの莫大な負債を、神の子イエスが、命をもって返されました。

すでにそれはなされたのたと、受け止めて、信じればいい。それが、聖書の記す救いの原則です。

福音を信じるとは、神と契約を結ぶことです。信じた瞬間に、神の証印があなたの心に記されます。「この者に、一切負債はありません」と。

ただ、意識しなければ契約は結べません。罪があると意識しなかったら、救いの必要も感じませんよね。

3.救いがあるからこその、罪の告白です!!!

必要なことは、すでに神の赦しの業はなされた、という事実を、ただ認めて信じることです。

罪人という自分の現実を受け入れるのは、ただ、信じて救われるためです。

「わたしは、神の怒りを受けて、滅ぼされて当然の罪人だ。」
そんなことを認めることができるのは、その先に、確実に救いがあるということが分かっているからこそです。

自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち返ったとき、あなたは、自分の思いをはるかに越えた、神の愛を受け取ることになるでしょう。

どんな罪でも、神の前に赦されない罪はありません。

神の愛するひとり子という、比較にならない尊い方が、あなたの犠牲になられたがゆえに、あなたに注がれる愛は、途方もない、永遠につきることのない愛なのです。

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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Comment

  1. はじめまして より:

    どうしてキリスト教徒の方は自分の罪を自分で償おうとせずに、イエス様を身代わりにして救われたいのですか?人間は罪深い生き物であるという事は深く同意しますし、イエス様がそのような人類の身代わりになる事は大変有難いことであるとも思います。
    もし人間が犯した罪が償う事の出来ないものであるのならば、私はイエス様に罪を建て替えてもらうよりは自分で罪とともに地獄を歩く事を望みます。もし自分がキリスト教を信仰するのならば、イエス様の背負われた罪のひとかけらでも持って、共に歩み、イエス様の負担が少しでも減るようにしたいと思っていたと思います。たとえ神の子とは言えイエス様に罪を押し付けて自分だけ赦されて天国へ向かう事に申し訳なさとかはないのでしょうか?
    すみません。キリスト教を信仰しておらず、極めて幼稚な考えで申し訳ありません。

    • sikaoichurch より:

      コメントありがとうございます。

      聖書によれば、ずべての人は、神の怒りを受けて滅ぶべき罪人です。誰もが死刑囚だと言えます。実際、死を免れる人はいません。
      死刑囚は、死刑囚の身代わりにはなれません。

      罪人である人間の身代わりになる人は、まったく罪のない者ではければなりませんが、そんな人間はいません。
      だから、けがれなき正しい方である神ご自身が、人間となって身代わりとなられた、それがイエス・キリストです。

      滅びにいたる人間は、誰一人として、自分自身の罪すら負いきれないのです。
      そんな私たちが、イエス様が負われた罪の、たとえひとかけらでも負うことができるでしょうか。

      もう一つ加えれば、イエス様は、今も十字架にかけられているように思われてはいないでしょうか。
      イエス様は、十字架で死んで葬られたのち、死を打ち破って復活されました。
      イエス様は、天の栄光の体に復活され、天に昇られ、今は、天におられます。
      天と地の唯一の仲介者・大祭司として、私たちの祈りを父なる神に取り次いでくださっています。

      イエス様は、この世界に再び真実の王として戻って来られます。その時には、主イエスの十字架のあがないを信じず、神に逆らい続けたすべての者に、永遠の滅びにいたる厳しい裁きをくだされます。
      そして、世界を楽園に回復され、主イエスを信じたすべての人に、復活の体・天の体を与え、永遠に喜びの内に生きるものとされます。

      神は、この世界について歴史の最初から最後までを貫く、完璧な計画をもっておられ、それを完全に成し遂げられます。
      私たち人間ができるのは、その神のご計画の中心にある主イエスの十字架と復活のできごとを、自分の罪のためだと信じるか、拒むか。どちらかだけです。

      信じて救われたクリスチャンに求められる使命は、福音を伝えること。それだけが、イエス様に従って、果たせる働きです。
      私の罪、あなたの罪のために、主イエス・キリストは死んで葬られ、死を打ち破って復活された。このことを信頼してください。と。

      今という時代は、イエス様が、厳正な裁き主として戻って来られるまでの猶予期間です。
      一人でも多くの人を救いに導くために、イエス様は忍耐して待っておられるのです。
      どうか、十字架の死と復活を信じて、神の怒りからの永遠の救いを手にしてください。

  2. はじめまして より:

    ご説明ありがとうございました。それならば私は自分の罪と向き合い、厳しい裁きを賜ることを選びます。

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