三位一体が教会の教理として定着するまで
1. テルトゥリアヌスの三位一体論
テルトゥリアヌス(160~220年頃)は、「プラクセアス論駁書」の中で初めて、三位一体の神学的教理を説きました。
しかし、三位一体の元となる概念自体は、使徒たちの時代から、クリスチャンの信仰生活の経験の中で生きていました。
彼らは、律法授与者としての父なる神を知り、人類を父を和解させるために贖いを成し遂げられたイエス・キリストを信じ、贖いの御業を適用してくださる聖霊の働きを体験していました。
2. ニカイア公会議(325年)
この頃、東方の教会で行われていたキリストの神性をめぐる激しい論争。
アリウス派は、キリストは被造物であり、神より低いものと主張し、これに対して、アレクサンドリアのアタナシオスらは、キリストは永遠の昔から父なる神と共に存在し、人格的な区別はあるが父と同質であると主張しました。
論争が激化し、教会やローマ帝国の統一が脅かされるほどになると、コンスタンティヌス皇帝は、教会の監督たちの会議をニカイアに招集しました。
この会議で、三つの見方が提起されました。①アリウスの見解と、②アタナシオスの教説と、③カイザリアのエウセビオスが提案した「半アリウス主義」と呼ばれる妥協案です。
半アリウス派は、キリストは造られたものではないが、永遠において父から生まれ、父と同質の本質だと主張しました。
2ヶ月間の討議の結果、アタナシオス派が勝利。アリウス主義は異端とされ、キリストの永遠性と、キリストが父と同質であることを明示する信条が定式化されました。
その信条は、教会が父・子・聖霊に対して信仰を持つ、三位一体の基本的な教理を含むものでした。
3. 会議以後も続いた論争
この後、教会の一部がアリウス主義に走り、東方地域の教会の大部分が半アリウス主義になってしまいます。
332年には、コンスタンティヌス帝自身も、アリウス派を支持する方針を打ち出しました。歴代の皇帝は、極めて世俗的で、多数に迎合する日和見主義者でした。
アタナシオスは、5度に渡って追放されますが、それでも妥協しませんでした。
「アタナシオスはひとりで世界に立ち向かった」と伝えられているゆえんです。
3. コンスタンティノープル公会議(381)
381年、テオドシウス皇帝が三位一体の支持者となり、コンステンティノープル公会議を招集しました。
この決議は、ニカイア公会議での300数人の教父たちの信仰について、「捨ててはならない。どこまでも主たるべきである」と声明を出すことから始まりました。
そして、今日教会で使われている、はっきりと三位一体の教理を示す、「ニカイア信条」が採択されたのです。
多くの異端的な考えと戦い、時にはローマ皇帝の反対を受けながらも、三位一体は、キリスト教会の中心的な教えとして正式に決定されたのでした。
主の御手が教会を支え、守ったのです。
「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」 マタイ福音書16:16