十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:ホントのホントに福音の三要素だけを信じればいいんですか?

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q:福音の三要素だけ信じればいいんだ、と、言われても、なんだかすっきりしません。
本当にそれだけが、救われるために信じるべきすべて、なんでしょうか?

1. 福音を信じるための前提があります!

エホバの証人の方に、①イエス・キリストの贖いの死と、②葬りと、③復活の、福音の三要素を信じているか、と聞いたら、「信じている」と答えるでしょう。

しかし、彼らは救われていません。

なぜなら、「イエス・キリストは、神である」という大前提を信じていないからです。

新改訳改訂第3版 Ⅰコリント15:3~5
15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

「福音の三要素」の根拠となっている第一コリント15:3~4。これは、コリント教会の信者に向けて、使徒パウロが記したものです。

ユダヤ人と異邦人の信者からなるコリント教会の信者たちは、福音の前提となることをよく知っていました。

つまり、創造主なる神は唯一である。人は罪人であり、そのままで神の前に出ることはできない。罪を赦せるのは神だけ。罪の赦しには、贖いが必要。ナザレのイエスが約束されたメシアであり、主なる神ご自身であること…。

「主イエス・キリスト」という呼称一つに、イエスが神でありメシアであるという告白が含まれています。

これらの前提を知っていたからこそ、コリントの人々は、福音の三要素を受け入れて信じることができました。

 

パウロも、その前提を、コリントの信者たちと共有していたからこそ、福音の三要素を確認することができたのです。

 

前提となる知識のない人々に、福音の三要素だけを伝えて、救いに導かれるかというと、とても難しいでしょう。

そもそも、自分は滅ぶべき罪人であるという認識がなければ、なぜ自分に救いが必要かも分かりません。

「わたしは、救いが必要な罪人」だと認めることを「認罪(にんざい)」と言います。認罪は、福音を信じる大前提として必要不可欠なことです。

福音の三要素を、お題目のように唱えても、信じてなければ、何の意味もありません。

福音を、知的に理解して、キリストに個人的信頼を置く。それが、信じるということです。

神観や世界観が変わらないまま、福音の三要素だけを形式的に信じたと告白しても、救われているとは言いがたいでしょう。

三要素からなる福音を信じるためには、前提として、最低限理解しておくべきことがある。そのことを覚えてください。

2. 三要素の意味を理解しよう!!

パウロは、信仰的に大混乱していたコリント教会の人々に、福音とは何か、三つの要素から簡潔に説明しました。

信仰の確認のために非常に有効に働いた、その説明が、「福音の三要素」と呼ばれているものです。

福音の三要素の意味をしっかりと理解することは、とても重要です。なぜなら、そこに、信じるべき福音のエッセンスが凝縮されているからです。

 

①主イエス・キリストは、私の罪のために 十字架にかけられた。

…人となられた神であり、まったく罪のない方が、私の罪をあがなうため、身代わりに十字架にかけられました。
私が飲むべき神の怒りの杯を、イエスが飲み干してくださったのです。
この前提になっているのは、すべての人は滅ぶべき罪人だということです

②キリストは、墓に葬られた。

100%神であるキリストは、100%人でした。すべての人と同じように、イエスの肉体も死んで墓に葬られました。
神である方が、人間という、ちっぽけで卑しい存在になられ、筆舌に尽くしがたい辱めを受けられたのです。

②三日目に復活された。

キリストは、人類の最大の敵である死を自ら打ち破り、復活されました。
これはただの蘇生ではなく、二度と死ぬことのない、神の国の栄光の体に変わられた、ということです。
復活は、キリストが100%神である証明です。さらには、キリストが、今も生きて天にいることをも示しています。

 

この三つの要素からなる福音を理解し、主イエス・キリストは、まさにこのような方であると個人的信頼を寄せる。

それが、聖書が求める、「信じる」ということです。

3. 常に求められる信仰の確認!!!

“三つの要素からなる、福音を信じて救われる”

聖書の原則は、「ただ信仰により、恵みによって救われること」です。

洗礼や罪の告白といった、何かの行いや儀式によって救われるのではありません。

 

しかし、問題は、“本当に信じたかどうかは、目には見えない”ということです。

「自分は全然変わってないじゃないか。本当に救われたのだろうか」そんな不安を覚えることが、誰にでもあります。

救われるのは一瞬のことですが、すぐには変われません。信仰が成長し、自分自身が変えられていくためには、どうしても時間が必要なのです。

 

信仰の成長を何によって確認できるか。それが、「行い」です。本当に信じたなら、変えられていって、「行い」に現れるようになるはずだからです。

信じて何年も過ぎたのに、全く何も変わっていないなら、そもそも本当に信じたのかどうかが、問われます。

 

一度信じたなら、救いは決して失われることはありません。

しかし、自分は、本当に救われているのかどうか、という、救いの確信は、簡単に失われてしまいます。

信仰が後退しきって、世間一般から見ても、ひどいよね、というような状況に陥ってしまうクリスチャンは少なくありません。

 

このように、福音の三要素を信じて、それでおしまい、とはなりません。その後も、継続した信仰の成長が求められていきます。

信仰の成長のためには、正しい聖書理解を深め、日々、御言葉を通して、神と密に交わることが求められます。

同じキリストの弟子である兄弟姉妹との交わりも必須です。自分の成長や後退を、客観的に伝えてくれる人の存在も、欠かせないのです。

まとめ

救われるために必要なのは、ホントのホントに、三つの要素からなる福音を信じるだけ、です。

福音の三要素を知的に理解し、キリストに個人的信頼を寄せる。それが、福音を信じる、ということです。

ただし、福音を信じるためには、唯一の神の存在や、自分の罪の認識といった、どうしても欠かせない、最低限の理解があるのです。

また、救いの確信を深め、信仰が成長していくためには、継続した、体系的な聖書の学びと、励ましあい、時に戒めあえる、教会の兄弟姉妹の存在が必要なのです。

※そんな、救いに必要な最低限の知識を分かりやすく伝えられたらと、一冊の絵本にまとめました。
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この記事を書いている人 - WRITER -
2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Comment

  1. 清水勇矢 より:

    いつも聖書のメッセージありがとうございます。
    聖書や色々なメッセージを聴いていてわからない点がありますので教えて頂ければと思います。
    救いは福音の3要素を信じ、信頼するときに恵みと信仰によって与えられると信じています。
    しかし、一方では自分の救いを吟味する事が書かれているのはなぜでしょうか(第一ヨハネなど)。
    また第二コリント13:5にも書かれています。
    ヤコブ書にもあるように行いの伴わない信仰はないとは思いますが、なぜ信仰を持って神様から変えて頂く過程で自分が本当に信じれているかを試す必要があるのかわかりません。
    教えて頂ければ幸いです。
    たくさんの質問や働きの中、恐縮ですがよろしくお願いします。

    • sikaoichurch より:

      信仰の吟味が求められるのは、主が、信仰者の成長を願っておられるからだと思います。

      聖書に記された聖徒たちも、信じて義とされておしまいではなく、むしろ、そこから、信仰の成長、成熟を促されていきました。

      使徒達にしても、ペテロやヨハネの成熟した信仰を、それぞれの手紙から受け取ることができます。

      常に自分自身の信仰を吟味することで、私たちは成長させられていくのだと教えられます。

  2. 清水勇矢 より:

    お返事ありがとうございます。
    信仰の吟味に対しての回答ありがとうございます。

    ここでの吟味は信仰によって行いが確かに変えられていると言う事を確信し益々成長させられていく必要があると改めて確認しました。
    ただ一方で、同じ罪を犯してしまったり、変えられていない部分があったりなどした場合は自分が救われているのかを吟味した方が良いのでしょうか。

    信仰により御霊により行いが変えられている事を実際に体験して聖化の過程を歩む事は本当に素晴らしいことで恵な事だなと思います。
    ただ一方で罪に挫折してしまう時はどのようにこの箇所を捉えればいいのかと思います。

    何度も申し訳ありませんが、ご教授頂ければと思います。
    よろしくお願いします。

    • sikaoichurch より:

      自分は、本当に救われているのか、なんて吟味ができる人は、救われている人だと思います。

      ただ福音を信じた瞬間に救われているわけですが、この救いの確信を得るのは、難しいことですよね。
      信じた後も、昔からの習慣に囚われたままだったり、過ちを繰り返してしまったりして、その度に、自分自身の信仰を疑ってしまう。誰もが陥る罠です。

      救いは二度と失われることはありませんが、救いの確信は簡単に失われてしまいます。振り出しに戻るのはあっという間です。

      かといって、救われているか否か、とばかり問うていたら苦しくなるばかりです。
      今日、わたしは、どのように主に忠実でいられただろうか。どういう点で不従順だっただろうか。具体的に振り返る必要があります。

      一気に変われる人などいないわけですから、行きつ戻りつつ、少しずつでも、変えられていっているかが大事です。

      他者からこそ見える小さな変化があります。
      こんなところが変わってきたよ。と言ってもらえたら、助けになりますよね。

      身近な信仰の兄弟姉妹の存在は、自分自身の信仰の成長にとっても大切だと、私自身噛みしめさせられる毎日です。

  3. 清水勇矢 より:

    何度も回答大変感謝します。

    人の感情は常に揺れ動き、不安定なものだなとつくづく感じます。しかし、神様の約束と十字架の御業は人の弱さをも覆い、変えることができる力があると信じます。

    そのことを踏まえて日々の自分の行動を吟味し、変えられている事を確認する事で神様の偉大さを見上げて歩むこと、また失敗の中からも教訓を得るとともに罪を覆う神様の愛を受け取り主を見上げて歩みたいと思います。

    ありがとうございました。
    また働きが益々豊かに祝福されるようにお祈りしています。

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