リベラル派クリスチャンの矛盾 正義を叫ぶ人にも潜む暴力性、逃れられない人の罪

      2018/01/27

1. 一つの問いかけをきっかけに…

12月上旬のことです。N牧師のメッセージ動画をSNSにシェアしたところ、A牧師から抗議のコメントがありました。

「彼は他の動画で同性愛を罪と言っていたが、撤回したのか」と言うのです。

わたしがシェアしたのは、同性愛について取り上げた動画ではありません。A牧師は、数年前にN牧師がサイトに上げた、同性愛についての一つの動画について問われてこられたのです。

A牧師の抗議に込められたメッセージとは、つまり、同性愛は罪だと言う者には、公に発言する権利は認めない、ということになるでしょう。

意見があるならN牧師に直接伝えてはどうかと提案したところ、今度は、A牧師は私に対して、あなたも牧師であり、言葉について責任があるだろうと、問われました。責任という点は、わたしも、もっともなことだと受け止めました。

A牧師は、リベラル派のクリスチャンの立場です。わたし自身、どっぷり浸かっていた古巣ですから、身にしみているのですが、リベラル派と福音派では、罪、救いについての考え方そのものが違います。「〇〇は罪だ」と言ったときの意味合いも、全く変わってくるのです。

なので、私はまず、福音派としての立場から説明しようとしました。しかし、A牧師が言われたのは、聖書の言葉より命が大切だ、ということでした。

A牧師は、聖書の言葉によって人格を否定されてきた者の立場はあなたには分からないと言われました。神学的議論をしている間にも当事者は苦しんでいるのだと、そのようなことを伝えようとされたのだと思います。

何よりも命が大切だ。よく聞く言葉ですが、それを牧師の口から聞いたことに、わたしは強烈な違和感を覚えました。このように返答しました。

「イエスが十字架についたのも、弟子たちの殉教も、聖書の言葉を命より大切にしたからではないですか。」と。

イエスの十字架の贖いと復活が、預言の成就であったということをどう考えられるのか。聞きたかったのです。

それに対しては、「あなたは逐語霊感説の立場か?」という問いが、A牧師からの最後の返答でした。逐語霊感説とは、ようするに、聖書をそのまま信じているという立場です。

私は、原典において神が内容を保証しておられる神の言葉として、聖書を信じていることをお伝えしました。

神の言葉を第一としないならば、救い自体がぐらつきます。イエス・キリストがわたしの罪のために十字架で死なれ、葬られ、復活されたという福音を信じておられるのか、とたずねた私の問いに、A牧師からの返事はありませんでした。

リベラル派の神学では、聖書には、神が書かれたところと、そうではないところがあると言います。ではどこが真性の神の言葉かとなると人それぞれで、結局、個々の主義主張が聖書よりも優先されています。

2. 無自覚な暴力が日常化しているとしたら…

そこにコメントされたのが、B牧師です。

私の立場が変わったのは残念だと言われ、「来週なさるという投稿を冷静に見守れたらいいのですが…」と書かれていました。私は、A牧師のやりとりの中で、同性愛についての自分の見解を載せますと話していました。

B牧師の言葉を続ければ、「私が感情的になったらどうなるか分からないぞ」とも受け取れます。体のいい脅しとも言えますが、こういうやりとりは、残念ながら、リベラルの、特に社会派と呼ばれる人々には少なくありません。

実際に、わたしの属していた教団の総会では、叫んだり、議長席に詰め寄ったり、暴力的なヤジを飛ばす、という光景は珍しくありませんでした。

何より私が問題を感じるのは、リベラルの、特に社会派に属する人々は、他者の暴力には激しく抗議しながら、自らの暴力性について極めて無頓着に見えるということです。

交渉に訪れた役場の窓口で担当者に向かってどなるとか、差別発言をしたという相手に対して語気も荒く糾弾するとか。ぶつけられる側にしてみれば、それは暴力以外の何ものでもありません。

私自身も、糾弾する側にいたことがあります。あれで一体何が相手に伝わっただろうかと思い返すと、なんとも苦い思いです。

私はB牧師に、私の感じる問題点を伝えました。

さらに、そのようなコミュニケーションを、牧師である方が日常的に行っているのであれば、懸念を覚えます、ともコメントしましたが、この問いに対するB牧師からの答えはありません。

3. リベラルの人々が抱える暴力性を考える

クリスチャンのリベラル派とは、世間で言うリベラルの立場をさらに濃縮したような印象があります。抱える問題点も共通しているように感じます。

社会正義を声高に叫ぶけれど、自らの暴力性には無頓着。リベラルの少なくない人々が抱える深刻な問題であると思います。

日本でも、世界的にも、排外主義が猛威を振るっていますが、この状況を招いた原因の一つはリベラルの側にあるのではないかと、私は考えています。

リベラル派の人々が無頓着にふるってきた、有形無形の暴力に対する反発という側面も強いのではないかと思うのです。

民族差別的なヘイトスピーチをする人々を擁護する気はありませんが、私は、リベラルの人々の言動の方がむしろ、気になって仕方ないのです。

○○ヤメロ!!、〇〇政治はゆるさない!! そう叫んでも叫んでも、相手側の支持が揺らぐどころか、むしろ、強まっているのは、なぜでしょうか?

リベラルの側の人々が抱えている無自覚の暴力性が、相手の側の暴力をさらに強める結果をもたらしてはいないでしょうか。

相手側の暴力性も問題ですが、同じことをリベラルの人々が行えば、自らに大打撃が返ってきます。はるかにダメージは大きいのです。

なぜでしょうか?

リベラルとは、人間の理性や努力で理想社会を実現できると信じている立場であると思います。人間の本性は善であるという立場ですね。

人間は善だと信じているリベラルの人々が自らの暴力性を露見する。それは、大きな矛盾であり、結局、自己否定の命取りになるということです。

理想論を唱えながら二面性があるというのは、今、多くの人々に一番嫌われることだと思います。

たとえば、同じ国会議員の不倫でも、政権を問い詰めるリベラル側の議員の不倫が大きく問題にされるというのは、その主張していることに照らし合わせれば、無理のないことではないでしょうか。

実質的な中身に大差ないならば、外と内の矛盾が小さい方を選ぶ。その内容に関わりなく、とにかく、裏表なく一貫していることが評価の基準とされる。社会全体で、そういう傾向が強くなっているような気がします。

この、裏表のなさを評価するという態度は、一方で、露骨な差別発言をする人々が正直だと評価されたり、倫理的な問題に対して開き直る人がブレない人だと支持される、というような歪みを生み出しています。

極端に言えば、裏のある善人よりも、裏表のない悪人の方が受けるわけです。

なぜ、そうなってきてしまったのか、ということを、私たちは、自らの身を振り返って点検する必要が迫られているのではないでしょうか?

正論を唱えるのであれば、当然、それに値する生活態度を求められます。だから、リベラルの側に立つ人ほど、その主張に適う高潔さを備えていなければなりません。

しかし、実際には、ある側面では、素晴らしい働きをしている人が、別な面では、重大な問題を抱えているということは珍しくありません。

平和活動の一人者と言われる人がセクハラを常習していたとか、弱者の味方と言いながら、自分より弱い立場と見ると途端に支配的になるとか…。

パワハラ対策の組織を作った動機が立場の違う特定の教会を狙い撃ちするものだった、という事実を責任者から聞いて、唖然とした経験があります。

リベラルのクリスチャンの中には、私たち人間の抱える矛盾が凝縮しているようにさえ思えます。

4. 実は、命ではなく、主張が一番なのではないですか?

日本でも、久しく右傾化ということが言われています。しかし、右側が強くなったというよりはむしろ、リベラルの弱体化、劣化と言った方が実態に合うのではないかと私は考えています。

右傾化、リベラルの弱体化が、一気に強まったのは、北朝鮮による拉致被害が明らかになって以降ではないかと感じます。

それまで、左派のほとんどの人は、家族が拉致されたという訴えをまともに取り扱っていなかったわけです。

熱心に社会活動に取り組んでいる人々が、あんなことはありえない、妄想だと話すのを、神学校時代に私も聞いて、やっぱりそうだよな、ありえないよな、と納得していたことがあります。

事実だと明らかになったときに、では、真摯に過ちを認め、態度を改めた人がどれほどいたのでしょうか?

日本は戦前に、もっと悪いことをしていたではないか。という主張もよく聞きましたが、それとこれとは個別に取り扱うべき問題です。

多くの人々が抱いたのは、結局、イデオロギーの、主義主張の問題でしかなかったのだ、ということでしょう。

相手の過ちや罪に対しては厳しく迫るけれど、自らの過ちや悪に対しては無頓着どころか、意識的にごまかし、仲間内はかばう。そういう不誠実さが、今の状況を招いた大きな原因の一つなのではないかと、私は思えてなりません。

前述のA牧師で言えば、命が何より大切と言いながら、命に関わるはずの重要な議論を途中で簡単に放り出しています。

またA牧師は、直接N牧師に意見してはどうかという私の提案に対して、クリスマス明けに連絡するつもりだ、というコメントをされていました。

これは、クリスマスという宗教行事を命の問題より優先しているということではないでしょうか。明らかな自己矛盾を引き起こしてると私は感じます。

しかし、命が大切というのは、実は、自分の命が一番大切、自分が一番可愛い、という意味だと理解するならば、矛盾でもないかもしれません。

自分の命が一番大切、というのは、命が大切、という人の当然の帰結でもあると思います。

本当に、他者のために自分の命をも投げ出せる人は、命より大切なものがあると知っている人です。

イエスが、十字架で私たちの罪のために死なれた。それは、神の言葉、神の約束が何よりも大切であると、理解されていたからこそでした。

神の言葉に基づく、神の約束だけが、人類を救いに導く。弟子たちもまた、それを信じたからこそ、命をかけて福音を伝えていったのではないでしょうか。

5. リベラルの、罪に対する無力さを思う

リベラルの人々が抱える最大の問題は、人間の抱える罪の問題に対して、あまりに理解が浅いということです。

人間の理性に信頼を置くリベラルは、人間の悪に対して驚くほど無力です。

リベラルの、悪に対する無力さを、排外主義の吹き荒れる、この時代が証明しているのではないでしょうか。

リベラルの根底には、神を否定した人間中心主義(ヒューマニズム)があるとわたしは理解しています。

キリスト教のリベラル派では、人間の理性が聖書以上の権威を持ちます。つまり、人が神になっているということです。

世界大戦以前にも、欧州を中心にリベラルの価値観が浸透していました。神なき世界観が、主流になっていたのです。

カウンセリングを学び直していた頃に、講義で聴いて驚愕した話があります。20世紀初頭に欧州で行われたという実験のことです。

孤児院の赤ん坊を二つの組に分けて、一つの組には愛情込めて世話をし、一つの組には愛情を注がず、機械的に世話だけをした。すると、後者の組の赤ん坊は廃人のようになってしまった。この実験の結論は、赤ん坊が成長するには愛情が必要ということです。

絶句しました。赤ん坊に愛情が必要。そんな当然のことを証明するために、赤ん坊を犠牲にした、ということが信じられませんでした。

こんな実験が当然のごとく行われる時代だったからこそ、二度にわたる世界大戦が起きたのだと腑に落ちました。

ナチスは、ユダヤ人に対するホロコースト以前に、障害者、重病人の大量虐殺を行っています。

障害者、治る見込みのない重病人が各地の病院に併設された施設に送り込まれ、到着直後、シャワー室と称したガス室に誘導され、殺され、遺体は速やかに焼却されました。数十万の人々が殺された秘密裏の政策が、ホロコーストの前準備となりました。

耳を疑うのは、多くの医療関係者が積極的に、この殺害に関与していたということです。障害者や重病人は、殺した方が社会のためだ。それが、当時の価値観の主流だったということです。

人間中心のヒューマニズム、進化論に基づく優生思想、人間の理性に絶対の信頼を置くリベラリズム…。ヒットラーはただ、その総仕上げをしたにすぎないのだと思います。

歴史は繰り返すと言い、多くの人がいつか来た道をたどっているのではないかと憂いています。繰り返されているのは、排外主義や軍国主義だけなのでしょうか。

行き過ぎたリベラルによる倫理的退廃があり、それに対する反発を利用して排外主義が巻き起こる。その両者が、セットで繰り返され、悪に用いられているのではないでしょうか。

最も重大な問題は、人間の理性に過度の信頼を置き、人間の悪を軽視するリベラルという思想そのものにあるのではないか。わたしはそう考えています。

日本でも同様で、戦前、すでにリベラル派が中心となっていたキリスト教会には、軍国主義に抗う力はほとんどありませんでした。無理からぬことだと思います。

殉教に際してまで信仰を貫くというのは、人の意思の力でできることではありません。自分の罪を思い知り、ただ神にだけ信頼する、その時、神ご自身が助けてくださってはじめて可能になることです。

6.避けられないのは、人の罪という普遍的な問題

リベラルのクリスチャンの中に、命が大切だと言いながら、本当に人生をかけて、その課題に取り組んでいる人々がどれだけいるでしょうか?

自分の立場や生活を守るために汲々としている人が、ほとんどなのではないでしょうか。

結局、そこで行われていることは、極めて小さな縄張りの中での、パワーゲームに過ぎないのではないでしょうか。

何かの社会問題に取り組むことが、信仰の証しになっている牧師や信徒、最新の問題に取り組むことで、自分の先進さをアピールする研究者。、

そんな人々のただ中で、利用されている、と感じている当事者は少なくないと思います。私自身、実際に、当事者の口からも何度もそんな声を聞きました。

リベラル派のただ中で、どうしようもない矛盾を感じ続けていましたが、その矛盾は、私自身の内にも拭いがたくあるものでした。

リベラルのクリスチャンに対する批判を連ねてきましたが、これは、私自身に対する批判でもあります。

ここに書いたことは、リベラル派のクリスチャンだけの問題とは思いません。私たち人類すべてに関わる普遍的な罪の問題であると考えています。

罪とは、欠損だと思います。自分自身ではどうにも埋めようのない欠けを誰しもが抱えている。その欠けは、人によって、性的なことだったり、金銭的なことだったり、権力に関することだったり様々です。

人それぞれ欠損が違うので、他者の欠損は理解しがたく、語気も荒く非難するわけですが、自分の欠損となると、罪の意識すら持っていなかったりするわけです。

私たちには、誰しも、自分ではどうしようもない欠損を抱えている。私も、同じく、自分では解決できない罪を抱えている。

そのことに気づかされたときにはじめて、私は、キリストが私の罪のために十字架につかれたということの本当の意味を理解しました。

人類は、誰しもがどうしようもない罪を抱えている、死を避けられない死刑囚である。もしも、わたしの身代わりに罪を負ってくださる方がいるとするなら、それは、完全に神であり、完全に人である、イエス・キリストをおいて他にはいない。

まったく罪がないにも関わらず、十字架にかけられて死に、墓に葬られ、しかし、神の子であるがゆえに、死を打ち破って復活された。イエス・キリストだけが、わたしを死に至る罪から贖い、救ってくださる唯一の方である。

ただ、そのことを信じ、この方のことを伝えていくことだけに、人生を献げることを促され、ようやく、その道を歩み始めたところです。

 

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