十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

つまずきはさけられない? 人は何につまずくのか?

2023/03/11
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1.  つまずいた、と言われて…

聖書的な「弱さへの配慮」とは何か。前回の記事への反響が思いのほか大きく驚きました。

弱さへの配慮が足りない、つまずいた、つまずかせたと言われた…。

そんなことを、特に聖書研究を熱心にする中で経験した人は少なくないようです。

「つまずいた」「つまずかせた」。

教会では、他者への批難でよく用いられる言葉ですが、果たしてそれは、正しく聖書に根ざしているのでしょうか?

 

2. ①世、人、罪へのつまずき

聖書で、つまずく、と言ったときに、二つの意味で用いられています。

一つは、「世や人、罪へのつまずき」。もう一つは、「神へのつまずき」です。

 

「世・人・罪へのつまずき」は、律法も、キリストも禁じています。

「目の見えない人の前につまずくものを置いてはならない(レビ19:14)」

他者を正しく導く責任が、神の民には与えられているのです。

しかし、イスラエルの指導者たちは、偶像礼拝によって全イスラエルをつまずかせました(Ⅱ歴28:23)。

他者をつまずかせようとするのは明確に悪であり、取り除かれるべきものです(イザヤ57:14)。

 

最も重大な責任を問われるのは、偽りの教えで他者をつまずかせる者です。

偽教師には、神の厳しい裁きが待ち構えており、重い石臼を首にかけられて、海に沈められたほうがましだとまで、主イエスは言われました(ルカ17:2)。

神の法を破り、他者に害をなす。神に背き、偶像を拝む。偽の教えを語る…。

「つまずきをもたらす者はわざわいです」と主イエスが言われたのは、まさに、そのような人々のことです。

 

3. ②神、主イエスへのつまずき

つまずきのもう一つは、「神に、主イエスにつまずく」ことです。

まともに聖書に向き合えば、どうしようもなく厳しい言葉に直面します。

主イエスの山上の垂訓(マタイ5~7章)など、その極みです。

他者をバカとののしれば殺人同様、死罪にあたるとまで言われたら、絶望しかありません。

 

無自覚だった自分の罪を、聖書から厳しく突きつけられる時、人は、つまずきます。

信仰の成長の過程で、こんな罪があったんだと気づかされる瞬間があるのです。

長年、無視し続けてきた課題ほど、それに向き合うのは大変な痛みと困難を伴います。

受け入れることができず、フタをして見なかったふりをして、その場所からも、す~っと去ってしまう。

特に、地域教会をあちこち転々としているような人に、向き合うべき自分の課題から逃げ回っているケースが少なくないように思います。

財産への執着を主イエスに見抜かれた青年が、嘆いて去っていますが、まさに、そういうことです。

神につまずく、というのは、実のところ、自分自身の罪につまずいているのです。

 

主イエスは、「つまずきが起こるのは避けられません」と弟子たちに言われました(ルカ17:1)。

彼らは、捕らえられたメシアを見捨てて逃げ出しました。

一番身近で、熱心に学んだ弟子たちすら、主イエスにつまずいたのです。

人は、自分の頭では理解できない、主のご計画を目の当たりにしても、つまずきます。

その時、容赦なく、自分自身の奥底から暴き出される、深い罪があるのです。

 

4. 一体何につまずいたのか?

つまずかせた、と誰かを批難する時には問われます。

では、どんな罪を犯して、他者をつまずかせたのか。

具体的に挙げられないなら、その人は、人ではなく、神につまずいた、ということでしょう。

 

まともに聖書に向き合えば、私たちは、つまずかずにはいられません。

「関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分ける(ヘブル4:12)」のが、神の言葉であるからです。

つまずいたと訴える、その言葉や態度が、聖書に照らして正しいものであるならば、つまずいたのは神に対してです。

言い換えるなら、神の正しさの前にあぶり出された、自分自身の罪につまずいた、ということです。

 

「教会に、牧師につまずいた」と言う人は少なくありません。

その場合にも、具体的に聖書が禁じる罪が犯されたか、教理的な逸脱があったかどうかが、明らかにされる必要があります。

 

自分の責任も問うべきでしょう。

信仰生活を何年も送ってきたなら、他者を教え導く立場になっていてしかるべきです(ヘブル5:12)。

それにも関わらず、初歩的な教理の逸脱を見抜けなかったのなら、成長を怠ってきた自分自身の幼さにつまずいたとも言えます。

 

主イエスは何度も、地上の教会に偽りの教えがはびこると警告されています。

パン種・偽りの教えが膨らみあがり、世の終わりまで麦と毒麦が入り混じった状態は続く。

このことを胸に留めておけば、つまずいた、などと軽々しくは言えないでしょう。

そのことは、まさに主イエスの預言通り、起こるべくして起こっているのです。

 

5. 神よりも優先されている自分自身

集っていた地域教会を去っていく時に、実に多くの人が、つまずいたと言うわけですが、その理由は、よくよく吟味される必要があると思います。

 

例えば、政治的な見解の相違を理由にするのはどうでしょう?

牧師や、おもだった人と、政治的な立場が違うから、と、それを理由にして地域教会を去ってしまう。

今の世に、聖書の価値観をそのまま反映した理想的な政党など存在しえません。

どこに投票するか、どちらがましか。極めて難しい適用の問題であって、個々人で判断の違いが現れて当然です。

私が何より問題だと考えるのは、政治的な見解の相違を地域教会を離れる理由にするのは、信仰よりも、この世の政治や思想を重要視しているという点です。

 

あの人がいるからイヤというのも同じで、神様よりも人の存在、自分の好みの方が優先されてしまっています。

判断の基準とされるべきは、聖書の示す正しさに立ち続けているのか。それだけです。

 

まとめ. つまずきの十字架に立ち続けよう

「主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。ホセア14:9」

真理を突いた言葉です。

罪人である私たちが最も激しくつまずくのは、神の御言葉、主のご計画に対してです。

イスラエルの最大のつまずきとなったのが、メシアなる主イエスの十字架の死と復活の出来事でした。

 

しかし、イスラエルのつまずきによって、私たち異邦人に福音がもたらされました。

自らの不信仰でつまずいたイスラエルを、しかし、主は今もなお、見捨てられていません。

異邦人信者によって、ねたみを引き起こされたユダヤ人から、救われる人々がいます。

終末の大患難の裁きを経て、残されたイスラエルが、民族的回心へと導かれる時は来ます。

 

主イエスと使徒から学んだ教えに堅く立ち続けましょう。

終末の闇が深まるほどに、分裂とつまずきをもたらす者が大勢現れます。

そのような者こそ、偽りを見抜いて避けるべきです。

 

「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。Ⅰコリ 1:23 」

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