十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

聖書が教えるあなたの傷の癒やされ方

2023/01/21
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1.  傷ついたクリスチャン

教会で傷ついた、と言うクリスチャンは、残念ながら少なくありません。

牧師や指導者の言動で傷ついた、教会の人間関係で傷ついた、と言われるわけです。

 

教会から距離を置いている、すっかり離れてしまったという方がいます。

事情を伺えば、気の毒だと思いますし、教会を離れているという状況も致し方ないと感じるケースは確かにあります。

教理的に逸脱し、カルト化した教会は現実に存在します。支配的な指導者による人権侵害も起こっています。

傷を抱えた人には、歪んだコントロールを離れ、一人になって神様と自分の関係を築き直す時が必要でしょう。

 

一方で、いつまでも「傷ついた」と言い続け、被害者という立場から抜け出そうとしないなら?

それは、神様の御心に適ったことなのでしょうか?

 

2.  期待が裏切られるとき

多くの人が教会や牧師に求めるのは、カウンセリング的な働きでしょう。

自分の傷が癒やされ、自分の問題が解決される。人の抱える悩みとは、本質的に、自分自身のことがらです。

自分のことを聞いてくれ、自分のすべて受け止め、肯定してくれる。

 

実は、この要求に最も強く、明確に応えてくれるのは、カルト的な教会です。

ラブシャワーと呼ばれるような愛をありったけ注いで、大歓迎して自分を受け入れてくれる。

なんて親切なんだ、これが愛だ、と感動し、人々と絆を深め、メンバーになる。

すると一転して、支配的な指導者に対する、理不尽なまでの服従が強制されていくのです。

残るのは、さらに深くなった傷だけです。

 

そこまで極端なケースでなくとも、教会に期待したのに、裏切られたという思いを抱えている人は大勢います。

一つ、問われるのは、その期待は、教会に求めるべき期待だったのかということです。

たとえば、カウンセリングを受けたいなら、きちんと資格のあるカウンセラーのところに通うのがベストです。

求めるものを間違えていたのなら、応えられるはずもありません。

 

3.  主がただ一つ問われること

そもそも、聖書がもたらす癒やしとは何か。根源的な捕らえ直しが必要だと考えます。

世で言う癒やしと、聖書が信者に約束している癒やしは、根本的に異なるからです。

 

三度イエスを知らないと言って拒絶した、弟子ペテロは、深い傷を抱えたでしょう。

復活の主イエスと出会ってなお、ペテロの傷は癒やされないままでした。

ガリラヤで再び会おうという主イエスの約束を待ちきれず、漁に出たペテロに、傷の深さがよく表れています。

自分には、主に合わせる顔がない。そんな心情だったのではないかと推察します。

 

そのペテロの前に再び現れたイエスは、どうされたか。

「私を愛するか」と三度尋ね、「私の羊を飼いなさい」と三度命じられた、それだけです。

 

同じく、傷を抱えた聖徒の一人に、預言者エリヤが思い起こされます。

神に従った結果、悪女イゼベルに命を狙われ、何十日も荒野を旅してシナイ山に逃れたエリヤ。

エリヤに主が言われたのは、「ここで何をしているのか」。

主が促されたのは、エリヤが立ち上がって、再び使命に歩むことに他なりませんでした。

 

ペテロに対しても、エリヤにも、主は、世で言うカウンセリングなど、全く何もされてはいません。

ペテロもエリヤも、問われたのは、主に従うかどうか。それだけです。

 

聖書で、「愛する」の反対は、「憎む」です。

主を愛して、世を憎むか。世を憎んで主を愛するか。愛するとは、二つに一つの選択です。

主を愛するなら、当然、主の命令に従うことが求められます。

ペテロも、エリヤも癒やされて、新たな力を得ました。

それは、主を愛し、主に従った、決意と行動の結果です。

 

4.  主に従うなら癒やされる

人がまず求めるのは、自分自身の癒やしですが、神が求めるのは、従順です。

唯一の神を認め、従う、その決意と行動です。

 

神に召された聖徒たちは、私を遣わしてください、と、神への従順を誓いました。

主に従いなさい、と、聖書のあらゆるところで命じられています。

主に従いなさい、という神の命令そのものを無視することはできません。

 

カルトの問題は、神への従順が指導者への従順にすり替えられているところにあります。

主に従いなさい、という聖書の命令が、ことごとく、主の代理人である指導者に従いなさい、と巧妙に言い換えられているのです。

 

正しく神に従うためには、一人一人の信者が、正しく神の言葉を理解し、身につけていかなければなりません。

聖書の学びを疎かにして他者に依存するからおかしくなるのです。

聖書は、よほど迫害の厳しい地域でない限り、誰でも手にすることができるものです。

聖書を読める環境に置かれていたなら、ましてや、ずっと聖書が手元にあったのなら、神に従わず、人に依存した責任は、傷つけられたという、その人自身にもあることは、否定できません。

 

信じて何年も経って、本来なら教える立場になっていなければならないのに、初歩の教えを繰り返していてはならない。(ヘブル6:1~2)

聖書は、繰り返し、信仰の成長と成熟をすべての信者に求めています。

今の時代の信者に与えられた使命は、福音を伝え、信じた人を弟子として育むこと。

この使命に歩む時、真実の神の癒やしがもたらされていきます。

福音を信じて与えられた神との平和を身をもって味わわされていくのです。

 

5.  あなたが傷つけた人がいる

もし、傷つけられたと訴えながら、私は誰かを傷つけたことなどないと言う人がいたら、クリスチャンとは呼べません。

すべての人が言い逃れなく、傷つけた、一人の人がいます。

 

それがすなわち、私たちの罪のために、十字架につけられた、主イエス・キリストです。

嘲られ、鞭打たれ、十字架に釘づけられた、その傷はすべて、私、あなたの罪のためでした。

傷つけられたと言う私こそ、罪なき正しい方、主イエスを傷つけていた。

それが聖書が突きつける、人の罪の現実です。

 

主イエスが受けられた以上に深い傷はありません。

ただ肉体の傷にとどまらず、精神も霊までもが、はかりがたい傷をつけられました。

それは神との完全な断絶によってもたらされました。

燃える神の怒りの杯を飲み干されることによって、です。

 

まとめ.  傷つき倒れる時はあるけれども…

私たちは、不正と悪がはびこるこの世で、不当に傷つけられることがあります。

救われて、神の所有とされながら、肉体を抱えて生きるクリスチャンも、罪を犯すことがあり、その結果、誰かを傷つけたり、傷つけられることがあります。

使徒たちが最も苦しんだのは、主にあるはずの兄弟姉妹との対立や裏切りの出来事でした。

 

わたしを愛するか、と三度尋ねられた主イエスは、ペテロに、「あなたは、行きたくないところに連れて行かれる」と、世で受ける苦難を予告されています。

クリスチャンとして歩む道に、傷は避けられません。

 

最も重い傷は、主イエスに従う道で負わされるものです。

あなたの十字架を負って私に従いなさいと、主イエスが命じられた通りです。

クリスチャンには傷つき倒れる時がある。それを立ち上がらせるのも、主イエスの福音を信じる信仰です。

 

ただ信じて救われ、永遠に主の所有とされた者には、来たるべき神の国での完全な癒やしが約束されています。

今の患難とは比較にならない恵みです。

想像を絶する苦難の中で、「弱いときにこそ私は強い」と叫んだパウロは、神の癒やしを実感し、確信していました。

 

クリスチャンへの神の癒やしは、主の御言葉から与えられます。

主イエスがパウロに言われた言葉こそ、神がもたらす、真実の癒やしを現しています。

「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。Ⅱコリ12:9」

 

心の貧しい者は幸い、迫害される者は、さらに幸いだと、主イエスは断言されました。

同様に、主のために世で傷つく者は、幸いです。主の力が、その人の内に現れるからです。

主に信頼し、従い、真実の癒やしを得ましょう。

それは、どんなに傷つけられても消えることのない、永遠の神の癒やしです。

 

マタイ福音書5章3~12節

「心の貧しい者は幸いです。 天の御国はその人たちのものだからです。

悲しむ者は幸いです。 その人たちは慰められるからです。

柔和な者は幸いです。 その人たちは地を受け継ぐからです。

義に飢え渇く者は幸いです。 その人たちは満ち足りるからです。

あわれみ深い者は幸いです。 その人たちはあわれみを受けるからです。

心のきよい者は幸いです。 その人たちは神を見るからです。

平和をつくる者は幸いです。 その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

義のために迫害されている者は幸いです。 天の御国はその人たちのものだからです。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。大いに喜びなさい。 天においてあなたがたの報いは大きいのですから。

あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

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