Q:リベラル派って? 信仰の一つの形? それとも、ただの不信仰?

   

Q:リベラル派、なんて言いますけど、その人たちって、何か、独自な信仰告白や信条があるんですか?

1.リベラル派も福音派も、実は変わらない信仰告白!

福音派、聖霊派を名乗る教団、教派、教会はありますけど、「私たちはリベラル派のクリスチャンだ」と教団教派で主張しているところって、聞いたことがありません。

福音派や聖霊派の人々が、一つの立場を指して、リベラル派と呼んでいると、わたしは理解しています。

わたしも、ながらくリベラル派のただ中にいましたけど、自分がリベラルだ、自由主義神学だ、なんていう認識はありませんでした…。

「ふ~ん、保守的な人たちは、そんな風に呼ぶんだ」と、思ったのを覚えています。

聖書の権威を認めず、人の理性に重きを置く、その立場を「リベラル派クリスチャン」と、便宜的に呼んでいるわけですね。

リベラル派クリスチャンが主流になっている教派教団は多いです。特に、日本はその傾向が強いように感じます。

しかし、実は、教理の根幹である信仰告白自体は、いわゆるリベラル派も福音派も大差ないのです。

わたしが教師籍を置いている日本キリスト教団。リベラル派がかなりの数を占めると実感していますけど、日本キリスト教団の信仰告白にも、聖書は霊感を受けた神の言葉であり、誤りなき規範であると明確に宣言されています。その通りに信仰告白を信じている人々も、たくさんいます。

諸教派いろいろありますが、明らかな異端は別として、根本的な教理には、実は、ほとんど違いはありません。

リベラル派という教派があるわけではなく、リベラル派独自の信仰告白があるというわけでもないのです。

(※日本で、わたしが見聞きしてきた範囲で、という注釈付きですが…。海外では、カナダ合同教会のように、リベラル的な価値観に基づく新たな信仰告白を、従来の信仰告白とは別に定めて加えているところもあると聞きました。どう整合性をとっているのだろうと不思議ですが…。カナダ合同教会は、教勢が激減しているそうですが、原因は、そこにあるのではないかとも、わたしは推測しています。)

2.問題は、ようするに不信仰!!

では、何が違うか、というと、ようするに、どこまで信じているか、という信仰の度合いの問題ではないかと、わたしは考えています。

日本キリスト教団の牧師、信徒の中には、教団信仰告白を、たとえ教団や教区の総会の場であっても読み上げないという人がいます。

ポリシーをもって読み上げない、ということです。

その人は、三位一体などの教理はもちろん、福音すら信じていないということです。聖書の基準から言えば、その人は、ただの不信仰者です。

自分自身を振り返ると、信仰告白の意味も理解せず、そこに表された恵みも味わうことなく、ただ機械的に読んでいただけでした。何の意味もないことです。

わたしもまた、ただの不信仰者だったと痛感するのです。

3.信じるべきことは、ただ一つ!!!

使徒たちの時代から、救いのために信じるべきことは全く変わっていません。

神の子イエス・キリストが、私の罪のために十字架にかけられ、死んで、葬られ、復活され、今も生きておられると、福音の三要素を信じるだけです。

聖書全体が、一つのかたまりとして、神の栄光の喪失と回復、世界の回復、人類の救いについて記しています。

神が人類と、そしてイスラエルと結ばれた契約は今も有効で、神の正しさゆえに、神が結ばれた契約のすべては、いつか必ず実現される。聖書が、読む者に繰り返し促していることです。

聖書を本来の文脈に基づき、文化的、地理的、時代的背景を押さえ、読み、学んでいく。

聖書フォーラムでは、ヘブル的視点ということを強調していますが、それはつまり、聖書を、それぞれ書かれた時代に読まれたように読むということです。

本来の文脈に立ち返りつつ、聖書を学べば学ぶほど、信仰がシンプルになっていくのに気づかされます。

機械的に唱えていただけの信仰告白の一文一句が、心に迫ってくる。読み飛ばしていた聖句に、魂が震える。

知識を蓄え、知的理解を深める一方で、幼子のように信じる思いが与えられていく。

「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」という、一見矛盾する命令が、自分の中に形作られていく不思議を、日々味わわされています。

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