母性的教会と霊的幼子クリスチャン 支配と依存
1.子どものままの大人たち
現代人の病の一つは、「自分」だそうです。
自分の夢、自己実現、わたしらしくあること…。自分にばかり捕らわれて、結果、自分で病んでいる。
自分の感情、自分の感覚が一番で、思う通りにならなければ、相手が悪い。
選ばれた指導者までが、そんな傾向に染まっていれば、社会全体が病んでいます。
自分のことしか頭になく、自分を疑ったことがないという、幼児性の強い大人が増えていると聞きました。
幼児性の強い人の特徴は、他者に依存的で、被害者意識が強く、自己責任の意識に欠けていることです。
幼い子、そのまんまと言えば分かりやすいでしょう。
幼児期には、子どもは親に守られ、親がすべてやってくれます。
人がやってくれるのが当たり前、思うとおりに行かなければ悪いのは相手で、そうしろと言った周りのせい。
仕事や家庭のパートナーが、そんな幼稚な大人だったら、大変です。
なぜ、幼稚な大人ができあがるのか。
親の過保護は、大きな原因です。親の過干渉が、子どもの自立を妨げてしまったのです。
人は、自分の失敗や他者との摩擦によって、自分の思うとおりには行かないことを知ります。
自分とは違うタイプの人に出会うことで、自分を見つめ、知っていきます。
そうやって、快不快の自分の感情が第一だった子どもは、周囲に合わせることを知り、他者への配慮を身につけ、相手の立場で考えられる大人へと成長していくのです。
しかし、自分の殻に閉じこもったまま、体だけ大人になってしまったら?
幼稚な大人、大きな子どものできあがりです。
幼児性の強い人は、自分で決めるのが嫌いです。
決めたら責任を負わなければならないからです。
幼い人は、徹底して自分で決めること、責任を負うことを避けようとします。
たとえば、「キャンディが食べたい」というから、買って与えたのに、気に入らなかったとなると、「あなたがくれたんじゃないか」と言い出す始末です。
幼稚な大人は、成長することを自ら放棄しています。
いかに子どものままで、人にやってもらうか。
他者任せの楽ちん人生を続けるためには、成長なんて邪魔なだけです。
それでもお腹は減ります。
いかに人に持ってこさせるかが、幼稚な大人にとっての最大の関心事になります。
そこで、力のある人、特に、責任感や保護者意識の強い人にくっついて、巧みに相手をコントロールするのです。
“人にやってもらう” という術においては、妙に熟練しているのが、幼児性の高い大人の厄介なところです。
2.母性的教会と霊的幼子
無条件の愛と無制限の束縛をもたらす、人間的な母性が主となった母性的教会。
その指導者は、信者に幼児のような依存を求めます。
幼児性を持ったままのクリスチャンは、まさに霊的幼子です。
母性的教会と霊的幼子クリスチャンは、コインの両面になっています。
母性的教会の支配的指導者の背後には、それを支える多くの霊的幼子がいるとも言えるでしょう。
霊的幼子は、聖書解釈など、指導者に任せっきりです。
教会の方針、日々の奉仕、私生活に至るまで、指導者の指示を仰ぎます。
自分で決めたくない人には、絶好の環境です。
責任はすべて指導者が担ってくれるなら、こんなに楽なことはありません。
教会という天国行きの列車に乗って、運転は指導者まかせでいいのですから。
指導者は、「ありのままでいい」と、今の自分を全肯定してくれます。
何も変えなくていい、成長なんて不要です。
3.ありのままでいい?
「ありのままのあなたでいい」
世の中はもちろん、最近は教会でも、よく聞かされるフレーズです。
聖書は本当に、そんなことを言っているのでしょうか?
神のイスラエルの選びの理由は、「どの民よりも少数だった(申7:7)」からでした。
イスラエルの側に選ばれる理由はなく、神の一方的な恵みだったということです。
今の時代のクリスチャンも同様です。
神は、恵みによって選ばれた者を、ただ信仰のゆえに義としてくださいます。
では、恵みによって選ばれた私たちは、ありのままでいいのでしょうか?
すべての人は罪人です。
罪人の私たちを神はまず愛して、愛する御子を罪をあがなう犠牲とされました。
ありのまま、罪のままの私のために、主イエスは、十字架にかけられた。それは確かです。
しかし、ありのままの私とは、滅ぶべき罪人の私、罪を抱えたままの私なのです。
そのままでよいわけがありません。
ありのままの罪人が、よしとされるなら、キリストの十字架は全く無意味だったことになってしまいます。
4.私たちの成長を願われる主
主イエスは、たびたび、信者や教会を成長する作物にたとえられています。
すべてのクリスチャンに求められているのは、成長し、実を結ぶことです。
福音を信じた救われた者が、福音を伝え、教える者とされ、その働きを通して、新たに救われる者が起こされていく。
救われた者が、救いの業に用いられていく。それが今の教会時代です。
成長は必須なのです。
私たちは何によって成長させられるのでしょうか。「
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。Ⅰペテロ2:2」とあります。
また、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。Ⅱペテ3:18」 とも記されています。
純粋な霊の乳、キリストの恵みと知識とは、御言葉です。
聖書全体を学び、そこに記された、神の約束を土台とする主のご計画の全貌を知っていくこと。
そうやって、クリスチャンは成長させられていくのです。
新約聖書で最も多い命令は、偽りの教えに対する警告です。
正しく聖書を学び、成熟したクリスチャンとして、キリストの体の組み上げる一部となっていくこと。
クリスチャン一人一人に求められています。
「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。エペソ4:13~15」
Comment
15年、共に集い礼拝を守っていましたが、霊的な学び(聖書研究や信徒研修)を行ったことはありません。
教会総会にて、提案したこともありましたが、「歳をとって億劫だ」「礼拝をきちんと守っているので、十分」とのこと。せめて、役員会でのデポーションを提言しましたが、あっさり却下されてしまいました。
ちなみにわが教会役員は「デポーション」の意味を知らず、他教会との交流会で沈黙を余儀なくされた。
現在は、霊的成長を渇望して他教会にて礼拝を守り、メールやWebにて御言葉の深みを体感しております。
母教会からは「除籍勧告」を受けました。