愛さえあれば、聖書知識なんて…? 知識は信仰の妨げ?
目次
Q: イエス様は、幼子のような信仰を求められましたよね? 律法学者のことは厳しく非難されてますし、弟子たちも無学だったんですよね。余計な知識はいらないんじゃないですか?
1. とあるカルト教会の場合
とある教会に通っていた求道者のAさん。聖書を学びたいと指導者に再三お願いしていたのですが、何年たっても一度も機会が与えられないまま。
いろいろと違和感を覚えることが多くて、その教会からは離れたそうですが、実は、そこはカルト化していたのでした。
聖書を学ぶな、とか、余計な知識はいらない、と言う牧師や教会は、むしろ、非常に危険だと思います。
カルト化した教会ほど、信徒が聖書を熱心に学ぶことをひどく嫌がります。
2. 弟子たちは、無学だった?
イエス様の弟子達が、無学な者と言われている場面があります(使4:13)。
しかし、弟子達は、聖書を学んでいなかったわけではありません。むしろ、誰よりも熱心でした。
ヨハネやペテロは、イエスの弟子となる以前に、洗礼者ヨハネの弟子でした(ヨハネ2章)。
彼らは、漁師の仕事の傍ら、時間を作ってはヨハネの元に行って、教えを請うていたのです。
ガリラヤ湖から、洗礼者ヨハネの活動していた荒野まで、往復するだけでも1週間の距離です。
彼らは、ガリラヤ湖畔でイエスにスカウトされた後は、フルタイムの弟子として付き従って行きました。
イエスと寝食を共にしながら、メシア直々に、3年半、みっちり聖書を学んだのです。
弟子達の聖書知識の豊富さは、使徒の働きや手紙を読んでもよく分かります。
縦横無尽に旧約聖書を引用しながらのメッセージには、圧倒されるばかりです。
弟子達が無学と呼ばれているのは、正規の律法教育を受けていないという意味にすぎません。
しかし、弟子たちの深い聖書理解は、律法学者や祭司たち、ユダヤ議会の議員達をもってしても、驚かされるばかりのものでした。
3. イスラエルの民の聖書知識は?
福音書には、旧約聖書からの引用が山ほど記されていますが、一部を除いて、引用先は記されていません。
福音書が想定している読者は、第一に、当時のユダヤ人です。
新約聖書は、コイネーギリシャ語という日常語で記されています。そのことからも分かるように、あくまで一般のユダヤ人が対象なのです。
彼らは、引用された言葉を聞くだけで、旧約聖書のどの箇所か分かりました。
ディアスポラと呼ばれた、海外育ちのユダヤ人であっても、幼少から会堂に通い、両親から聖書をよく学んでいました。
4. 異邦人の聖書知識は?
使徒達の宣教によって多くの異邦人が福音を信じて救われました。
ユダヤ人の次に宣教の扉が開かれたのが、サマリア人でした。サマリア人は、ルーツをイスラエルの北王国に持ちます。
アッシリアの移住政策の影響で、異教の影響も強く受けていたようですが、彼らも日々律法に親しみ、メシアを待ち望む信仰を持つ者たちも大勢いたのです。
ピリポが救いに導いたエチオピアの宦官は、はるばるエルサレムまで礼拝に上り、高価なイザヤ書の巻物を買って帰るほどの熱心な信仰者でした。
パウロの伝道旅行では、多くの異邦人が福音を信じて救われました。この異邦人たちの多くは、すでにユダヤの会堂に集っている者たちでした。
つまり彼らは、ユダヤ教への改宗者か、もしくは、「神を恐れる者」と呼ばれる、熱心な求道者だったのです。
異邦人とはいえ、相応の聖書知識を持っていたからこそ、彼らは、ナザレのイエスこそイスラエルのメシアだ、というパウロの宣言を聞いて、すぐに信じることができたのです。
5. 旧約時代のイスラエルは?
律法は、神のみ教えを額と手に置き、昼も夜も口ずさむよう命じています。
後のユダヤ人は、これを文字通りに理解し、重要な聖句を記した小箱を額と手に結びつけておくほどでした。
モーセもヨシュアも、繰り返し、民に、律法を学び、守り行うことの重要さを告げています。
ダビデの歌った詩篇にも、律法の様々な内容が歌われています。
イスラエルは、律法をおろそかにしたため、バビロン捕囚の悲劇を招きましたが、帰還した後のユダヤ人たちは、二度と律法を破るまいと堅く誓いました。
律法を破らないようにとするあまり、予防策としての口伝律法を山ほど付け加えてしまったのがパリサイ人でした。
人間の作った口伝律法に囚われて、神の教えから離れてしまったパリサイ人ですが、最初の動機は悪いものではなかったのです。
パリサイ人は、自らも働きながら学び、人々に熱心に聖書を教えていました。
庶民派だったからこそ、祭司や王族たち、サドカイ派の人々よりも、ずっと民衆に支持されていたのです。
このように、イエスの時代にも、ユダヤの多くの民衆は、熱心に学んでいたのです。
6. 現代の異邦人である私たちは?
旧約時代も新約時代も、信仰深い人ほど、熱心に聖書を学んでいました。
最初に福音を信じて救われた異邦人は、ユダヤ人に負けず劣らず、聖書を求め、よく学んでいた人々でした。
弟子達は、幼い頃から聖書をたたき込まれながら、なお熱心に真理を求め、学んでいたのです。だからこそ、主イエスと出会うことができたのでした。
私たち現代の異邦人が、信仰深くありたいと願うなら、当時のユダヤ人たち以上に学ぶ必要があるでしょう。
私たちには、彼らのように律法が身に染みついているわけではありません。さらには、歴史的、地理的、文化的に大きな隔たりがあるのです。
イエスと出会い、メシアだと信じたユダヤ人たちは、どれほどの驚きと感動を覚えたことだろうかと思います。
律法が約束し、預言者達が告げたメシアに出会った。その感動と喜びを、私も味わいたい。そう願いつつ、聖書の学びを重ねています。
ヘブル的視点から聖書を読む。知識を積み重ねることで、体験的に深まっていく、喜びと平安があるのです。