Q:聖書全部が、神の言葉だとどうして言えるのですか?
目次
Q:新約聖書の「聖書」は、旧約聖書ですよね? 強烈なパウロの言葉には違和感もあります。どこまでが本当に神の言葉と言えるのでしょうか?
1. 聖書はすべて神の霊感による
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。Ⅱテモテ 3:16」
新約聖書において、「聖書(スクリプチュア)」という言葉は、まず旧約聖書の全体(ルカ24:45他)、または、その一部分(ルカ4:21)を指します。
旧約聖書の各書簡の正統性は、新約聖書の主イエスと使徒たちによる数多くの引用によって、そして、様々な預言の成就によって、明確に証明されています。
新約聖書自体が、旧約聖書の権威の証明となっているのです。
では、新約聖書の権威は、どのようにして証明されるのでしょうか。
新約聖書において、「聖書」という言葉が、新約聖書自体を指しているところもあります。
Ⅰテモテ5:18は、福音書のイエスの命令(マタイ10:10他)と、他の書簡の言葉(Ⅰコリ9:14)を引用しています。
また、ペテロの書簡で、パウロの書簡全体の正統性を擁護している箇所もあります。
「その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。Ⅱペテロ3:16」
パウロの書簡には、一見しただけでは難解であったり、激しい表現に人がつまずきがちなところもありますが、私たちが抱くような違和感について、聖書自身に、その説明がすでにあるのです。
このように、新約聖書の権威は、新約聖書の各巻が相互に保証しています。
旧新約聖書全体の最後に収められ、年代的にも最後に書かれたと思われる黙示録には、預言を改ざんすることへの厳しい警告があります(黙示録22:18~19)。
黙示録は、旧約とイエスによる終末預言の集大成であり、その内容は使徒たちの書簡にも記されているものです。
黙示録22章18~19節の警告は、旧新約聖書66巻全部を指したものであると理解すべきでしょう。
ですから、テモテ書でパウロが、「聖書はすべて」と言うときには、「旧新約聖書66巻すべて」と捉えるよう強く促しているということです。
聖書はすべて、神の霊感によって書かれた権威ある書物である。それが、聖書に記された大原則です。
聖書的には、このことを信じた人が、信仰者、クリスチャンであるということです。
2. 書簡が相互に保証する正統性
旧新約聖書66巻全部が揃ってから、聖典であると公会議で認定されるまで、約200年が経過しています。
ここから66巻の正統性に疑問を呈する人もいます。
これは教会で確定され、長らく聖典として取り扱われてきていたのを後追いで認定したということにすぎません。公会議以前に聖書の権威は確立していました。
聖書そのものに66巻の聖典の承認が具体的に記されている訳ではありませんが、書簡に記された内容自体から、その正統性を確認することができます。
互いの書簡に矛盾があると言って、聖書の権威を否定する人々は大勢います。確かに、一見するだけなら、矛盾と見える箇所もいくつかあります。
たとえば、ヤコブは「救いは行いによる(ヤコブ2:24)」と記し、パウロは「救いは信仰による(ローマ5:1)」と記しました。
しかし、文脈から読めば、両者は真理の上に一致していると分かります。
人は信仰によって救われ、その救いは、行いによって証明されるのです。
両者の相違は、一つの真理を別な切り口から記しているということにすぎません。
このように、表面をなでただけでは矛盾のように見えるものも、文脈を押さえて読めば、互いに補完し合って一つの真理を告げていると分かります。
新約聖書の書簡は、相互に正統性を保証しています。
福音書についてはどうでしょうか。イエスの生涯を記した福音書は四つあり、それぞれ異なった視点から描かれています。
律法は、重要な裁きにおいて複数の証人を求めています(民35:30)。主イエスは、福音の宣言に際し、2~3人の証人を求めました(マタイ18:16)。
証言の内容が、細部に至るまで一致することなどありえません。見る角度によって、また事実のどの部分を切り取ったかでも、当然、内容は変わってきます。
もし、二人の証人の証言が完全に一致しているなら、その証言の信憑線が疑われます。口裏を合わせたと捉えられ、価値のない証言とされます。
優れた証言とは、様々な側面から光を当てることで、一つの真実を立体的に浮き上がらせるものです。
私たちが、立体的にものを見ることができるのは、右目と左目の映像がずれているからです。個々の視点の相違が、重要なのです。
聖書は、このような驚くような構造をしています。
四つの福音書の証言のいずれもが真理であるという立場から、信頼して読み込んでいくときに、イエス・キリストの真実が、生々しく浮き上がってくるのです。
四福音書は、異なる4人の著者が、証人として、一人のメシアについての証言を多面的に記したものです。
このようにして、福音書の正統性は、四つの福音書が相互に証明しています。
3. しるしが保証する使徒の正統性
イエスがイスラエルのメシアであることを証明したことの一つが、多くの旧約預言の成就です。
もう一つが、おびただしい奇跡・しるしです。創造主である神にしか不可能な、超自然的な奇跡が、メシアの証拠となりました。
イエスの昇天後、使徒たちもイエス同様の奇跡を行いました。これらは、使徒たちの語る言葉が、イエスの権威によるものであることを証明しました。
ルカは、自分自身の体験と多くの目撃証言を元に、「使徒の働き(使徒行伝)」を記し、ペテロやパウロ、使徒たちによる多くの奇跡を記録しています。
「使徒の働き」に記された奇跡は、ペテロやパウロ、使徒たちの教えの正統性を保証するしるしとなっているのです。
旧約聖書の正統性は、新約聖書が保証し、新約聖書の正統性は、新約聖書の書簡が相互に保証しています。
また、旧約聖書の預言の成就を新約聖書が記す時には、過去に記された旧約聖書が新約聖書の正統性を保証するという逆のことが、時を越えて起こっています。本当に驚くべきことです。
4. 初代教会の確信を手にしよう
使徒たちの多くは、イエスの登場以前から、洗礼者ヨハネの弟子となっていました。
旧約のメシア預言を中心に、よく学び、理解していた土台があったからこそ、彼らは、イエスがメシアと知ってすぐ、その弟子となったのです。
元から旧約聖書を熟知していた弟子たちは、3年半にわたりメシアから直接の手ほどきを受け、聖書を体験的に知りました。
イエスの昇天後は、弟子たちはさらに聖霊に満たされ、導かれていきました。その上に新約聖書は記されました。
パウロは、生前のイエスを直接知りませんでしたが、稀代の律法学者ガマリエルに学び、回心以降は、主イエスご自身と聖霊によって導かれています。
私は、聖書全体の学びを深めるほどに、個々の書簡が、どれほど強く、多面的に相互につながり合っているかを知らされています。驚きの連続です。
使徒たちは、聖書全体の正統性について揺るぎない確信をもっていました。
使徒たちが、大胆に力強く語った言葉は、彼ら自身から出た者ではなく、神ご自身により、聖霊によって語られた言葉でした。
「それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。Ⅰコリ2:13」
神の言葉を預かる預言者が、預言として告げる言葉は、100%真実ではなければなりません。
弟子たちは、重大な責任と使命を持って宣言しています。
「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。Ⅱペテ1:21 」