こらしめ、さばくのは、愛の神?
目次
1. 見過ごしがちな人と世界の現実
どうして愛の神様が、蒔いた種の刈り取りなどさせるのか。
多くの方が疑問に感じることだと思います。裁きの神など受け入れがたい。私も以前はそうでした。
今の世界では、何より「愛」が強調されます。
「ありのままでいい」と、すべてを包み込む無償の愛こそ最高だと。
多様な価値観をそのまま受け入れ共生すべきであり、持続可能な世界を実現していかなければならないと。
しかし、世界の現実は、人が語る理想とはかけ離れたところにあります。
共生は、世界の現実であって、解決策ではありません。
多様性を認めよというのは、結局、力ある者がのさばる残酷な世界の現実を追認しているだけのことです。
無力な赤ん坊を虐待死させる親がおり、無抵抗の市民を躊躇なく殺害してまで、独裁者は己の欲望実現にひた走ります。
ありのままのあなたを、まるごと愛してくれる人など地上にはいません。
ならばせめて、神には、ひたすらに愛してくれる存在であって欲しい。
それは、私たち人間の切なる願望なのでしょう。
2. 聖書の神は、怒りの神
しかし、真実の神は、人をありのままに愛する方ではありません。
むしろ、人に激しい怒りを抱かれています。
なぜなら、人はすべて罪人だからです。
聖なる神には、どんなに小さな罪も同居する余地はありません。
人が罪あるまま神の前に立てば、神の怒りでたちまち焼き尽くされてしまうのです。
神との約束を破ったアダムとエバは、楽園を追放されました。
罪ある身で、神のもとにはいられなかったのです。
神に呼びかけられた聖書の偉人たちは、皆、例外なく、非常な恐れにとらわれています。
きよい神の前に立たされた人間は、消毒液の中に落ちたハエのようなものです。
神の前で人は、自分の罪を逃れようなく突きつけられ、死を痛感し、恐れひれ伏すしかないのです。
神が、罪に満ちた人と世界を、激しい怒りで滅ぼす時がやってくることは、聖書に何度も明確に記されています。
イエス・キリストも、世の終わりの裁きを何度も厳しく警告されています。
3. 絶望の中から叫ぶ相手
私たちは誰も、神の怒りから逃れようがない。これが人間の現実です。
目の前には絶望しかないのです。
戦火で銃口と爆撃にさらされている人々と、モニター越しに見ている私たちと、待ち受ける運命に変わりはありません。
ではどこに救いがあるのか。
私たちが叫び、助けを求められる方は、やはり神しかいません。
絶望の中で、神に助けを求めて叫ぶこと。それが、私たち人間に神が求めておられることです。
聖書に記された信仰者たちは皆、神に助けを求めて叫んでいます。
ダビデの詩篇には、主に助けを求める悲痛なまでの叫びが繰り返し歌われています。
4. 一方的な恵みの神
聖書の神は、一切の罪を受け付けない完全にきよい方です。
神は、罪を憎み、罪人に怒りを燃やし、悪を完全に滅び尽くされるのです。
聖なる神を見上げれば、人には絶望しかありません。
しかし、絶望した者は、暗黒の闇のただ中で、目の前に差し伸ばされている神の救いの手を見るのです。
アダムもノアもアブラハムも、闇の中で光を見ました。
それが、神が一方的にその出現を約束された救い主、メシアだったのです。
メシアは自ら犠牲を払って悪を滅ぼし、人を罪から解放することが、告げられました。
メシアが、アブラハムの子孫として、約束の地に誕生することが、長い時間をかけて明らかにされていきました。
しかし、神が救いをどのように実現されるのか、誰も分かりませんでした。
5. メシアの贖い、復活の勝利
“神と等しい神の子が人として生まれ、すべての罪人の身代わりとなり、十字架にかけられた。”
それが救いの道でした。
燃える神の怒りを主イエスが飲み干されたのです。
死んで陰府に下ったイエスは、死を打ち破って復活されました。
メシアは、100%人間なので、罪人の身代わりに死ぬことができました。
100%神なので、罪をゆるし、死を打ち破って復活することができました。
キリストの十字架と復活のよい知らせ・福音を信じた者は、神の怒りを完全に永遠に免れます。
主は、イエスの犠牲のゆえに、信じた私を罪なき者とみなしてくださるのです。
義なる神は、罪を罰し、悪を裁かないではいられない。
愛である神は、人を憐れまずにはいられなかった。
神の義と愛が、同時に実現される唯一の方法、それが、罪なき神の子イエス・キリストが、人となり、神の怒りを身代わりに受けることだったのです。
6. 信仰者の刈り取りの重さ
福音を信じて永遠に罪をゆるされた。しかし、その人の罪の本質は、実際には何も変わっていません。
クリスチャンも、容易に罪を犯してしまいます。
信じて歩み始めても、人間の現実から逃れることはできません。
しかし、神はそのことを当然ご存じで、悔い改めれば罪をゆるしてくださいます。(ヨハネⅠ1:9)
クリスチャンに与えられた特権です。
一方で、自ら蒔いた罪の刈り取りもあります。
結果を刈り取ることで、クリスチャンは、自分自身の罪の重さ、深さを身をもって実感させられていくのです。
信仰が成長するほどに、罪の自覚が深くなり、神の前に謙遜にさせられていく。それがクリスチャンの道です。
罪を犯し、気づかせられながら、悔い改めて立ち返ることをしないでいれば、厳しい懲らしめが待っています。
この世での罪の刈り取りは、クリスチャンであるならむしろ、未信者よりも厳しいものになるでしょう。
そのようにして、神の裁きの厳格さを身をもって証しさせられるのです。
神を欺いて殺されたアナニアとサッピラのように、最悪の場合、肉体の死をもって刈り取りをすることとなります。
7. 義と愛の神を恐れ 慕い求めよう
とある牧師の話ですが、カルト化したある教会のリーダーが、重病を患ったと聞いて戦慄したそうです。
それでもいまだに何の悔い改めもない。どうなってしまうのか。恐ろしいことだと思います。
この世にある不条理な災いや人の悪を見て、多くの人は、なぜ神は、こんなことを許されているのかと憤ります。
あの悪人のような罪人ではない。むしろ自分はよい人間だと、多くの人は無意識に思っています。
だから、神の裁き、神の怒りに憤慨するのです。
しかし、聖書が逃れようもなく突きつけるのは、そんなあなたこそが、滅ぼされるべき罪人だということです。
神の公正な裁きを願うなら、自分自身も神の怒りを逃れられない身だと知るべきです。
それでも「なぜ」と言うなら、私たちは、こう口にすべきです。
「主よ、あなたはなぜ、このような罪人の私を憐れみ、救ってくださったのですか」と。
不思議な主を讃えましょう。
付記: 約束に基づく義なる神の愛
「なぜ愛の神が裁くのか。懲らしめを与えるのか」 誰もが抱く疑問です。
改めて考えながら思ったのは、この問いかけ自体の正当性です。
「ありのままのあなたでいい」と、よく言われます。
クリスチャンすら、たびたび口にしますが、聖書のどこにも、「ありのままでよい」などとは書かれていません。
「ありのままのあなた」は、滅ぶべき罪人です。それでよいわけがありません。
神の愛は、「無償の愛」ともよく言われますが、すべての人が無条件に愛されるわけではありません。
神の愛は、「一方的な約束に基づく愛」です。
何の資格もない罪人の一人と、主は一方的に約束をされました。
それが、人類の罪を身代わりに担う救い主を送るという約束でした。
そして主は、イエス・キリストの十字架と復活によって、約束を果たされたのです。
すべての人に求められるのは、この主の約束を信頼すること。
福音を信じた者は、主の約束によって救われます。
義なる神の愛は、約束に基づく愛です。
付記2: 犯した罪はぜんぶ刈り取りをさせられる?
罪の刈り取りは、懲らしめとも言い換えられます。
父なる神は、子を愛するがゆえに、懲らしめを与えられます。
黙 3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。
一方で、犯した罪の刈り取りを全部させられて、神の懲らしめを受けたら、誰も生きてはいけないでしょう。
モーセに、神は、ご自身のご性質について、このように告げられています。
出エジプト記34:6~7
【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、
恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」
あわれみ深い主が忍耐してくださっているので、私たちは、罪を犯しながらも日々を歩んでいけます。
Ⅰテモ 1:13 私は以前には、神を冒?する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。
知らずに犯した罪に気づかされて、悔い改めるなら、主の憐れみによってゆるされます。
しかし、知っていて犯した罪なら、厳しい刈り取り、懲らしめは逃れようがないでしょう。
命をとられた、アナニア、サッピラ。赤ん坊が死に、子どもたちが争いあい、最愛の息子に反逆されたダビデ。
彼らが重い刈り取りをさせられたのは、信仰者であるがゆえだったのだと思います。
それでも、福音を信じた者なら、永遠の救いが取り去られることはありません。
ダビデの罪はゆるされました。アナニア、サッピラも、信じていたなら、神の国には入れられたでしょう。
クリスチャンが、自分の罪を神の前に告白し、悔い改めることができるのは、永遠の救いが保証されているからです。
救われているという神の約束があるから、私たちは、自分の罪に向き合っていくことができるのです。
付記3: 倒錯した人の問い 本来主に問うべきこと
「なぜ、神は裁くのか。懲らしめるのか。刈り取りさせるのか」
クリスチャンでも覚える疑問。私もそうでした。
聖書を最初から学び続けてきて、気づかされてきたことは、その問い自体が、倒錯しているということ。
人間の社会の現実を本当に見据えるなら、主にこう問うべきです。
「なぜ、主よ、あなたは、こんな世界と人を、なお憐れみ、生かしてくださっているのですか」
ダビデの祈りが胸に響きます。
詩篇 8:4 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。
自分の罪を思い知らされるほどに、神の恵みが染み渡っていく。その逆転を真理を喜んで生きるのが、クリスチャンです。